第一話
盛大に遅刻した日の朝のことだ。僕は腕時計を確認した。時刻はすでに九時を回っていた。遅刻と言っても理由あってのことだ。先生に怒られるわけでもない。
駅から外を見ると雪は断続的に降り続いていた。折角、今日は合法的に遅刻できるチャンスを得たのだ。これは上の思し召しに違いない。今日はあわてず騒がずのんびりと登校しよう。何しろ片手にはスキー道具を入れた大きなバッグを持っている。なかなかの重量だ。こんな雪の日に運ぶべきではない大荷物なのだからのんびり登校しても誰も文句を言うまい。そう心で言い訳しながら僕は駅を出た。
すると無人駅を出たところで、しゃがみ込んでいる女子高生を見かけた。生白い太腿の上に置いたバッグをかき回し、何やら探し物をしているようだった。
まず真っ先に目を引いたのは彼女の髪色だった。金髪を通り越して真っ白な髪。なんだか随分髪が細いような印象を受けた。
その次に目を引いたのは彼女の太腿だった。そして僕の視線はそれにくぎ付けになった。
彼女はなんと生足だった。しゃがみこんんでいるせいでスカートは脚の付け根付近までめくれあがっていて、太腿はすっかり剥き出しだ。本人が気づいているのかいないのか。傍から見たら、これはもはや見せびらかしているに等しい。
だから僕は迷うことなくガン見しながらその横を通り過ぎた。真っ白な肌が目に眩しかった。どうして肌は白ければ白いほど劣情を催すのだろう、と考えてそれがすごく差別的な感想であることに気が付いた。これはあくまで僕自身の内部だけのことだ。単に僕が白い肌が好み、というだけのことである。
だが、そんな僕の内心は少女には筒抜けだったのかもしれない。通りすがりにそれを見咎められた。
「何見てんだよ!キモオタ!」
人気のない駅前、雪がしんしんと降り積もる静寂の世界に、少女の怒鳴り声が響いた。
季節は真冬。昨日のドカ雪が駅前の歩道に、山のように積み上げられていた。
だというのに目の前の少女はミニスカートだった。上に羽織っている厚手のダッフルコートも、裾からスカートが見えるくらい短い丈。しかも脚にはストッキングさえ履いてない。いわゆる生足だ。
いつの間にか立ち上がっていた少女はキッとこちらを睨みつけていた。両手で持ったスクールバッグで両足を隠し威嚇するその姿。それは昨日見たアニメのヒロインの登場シーンみたいだった。
彼女の髪色は白に近い金髪。この田舎町ではお目にかかることのない色だ。多分、これがギャルという種族なのだろう。
しかし、この派手な髪色は、きっとどこの高校でも校則違反になるんじゃないだろうか。この少女は何者なんだろう?
金髪ではあるがおそらく日本人だろう。だが肌がやたらと白いので困ってしまう。まったく日本人離れした肌の白さだ。断言できることはかなり可愛い。何重にも巻いた真っ赤なマフラーに埋まった端正な顔はやたらと小さく見えて、僕の心をざわつかせた。
しかし少女に与えられた神の造作をいつまでも鑑賞しているわけにはいかなかった。なにせ僕はすでに彼女に怒鳴られているのだ。僕はそそくさとその場を後にした。ただでさえ、遅刻なのだ。こんなところで道草を食っている暇はなかった。
カキ氷にスプーンを差し込んだ時の音が靴の下から聞こえる。シャクリ。シャクリ。
昨日のドカ雪は除雪車によって道の脇に積み上げられているが、雪は今なお間断なく降り続けている。道路には五センチほど雪が積もり、車の轍がくっきりと残っている。その轍の中には人の足跡。新雪の上を歩くよりも、すでに踏み固められたところを歩いた方が楽というのは雪国の人間でなくとも分かることだ。
幸い雪は、今はほんのりちらつく程度。傘を差すほどでもない。空を見上げると、綿のような雪が舞いながらゆっくりと落ちてくる。スッと顔を傾けて雪を避ける。そこへまた次の雪。また避ける。
そんなことをしているうちに僕の歩みは次第に遅くなっていき、やがて立ち止まった。雪を降らせる雲は雨雲と違って白い。その白い背景の中からホワホワの雪が不意に現れる。それを避ける。小さな頃よくやったちょっとしたゲームだ。僕は年甲斐もなくそれに夢中になっていた。
そういえば幼馴染と一緒に放課後、こんな風にして遊んでいた。自分の顔に何個あたったか自己申告制のゲームだったけど、どちらも正直に自分の顔に当たった雪の数をカウントしていた。「今の雪はこんな軌道で来た」とか「空中で止まってた」とか、勝った負けたよりもそういう変な雪があったことを報告し合うことが楽しかった。
そんな風に古い思い出を思い出しているときのことだ。不意に背後から
シャクリ。
と雪を踏みしめる音が聞こえた。
僕は振り返った。
まるでさっきのデジャブだった。ポーズはさっきのまま。両手でバッグを体の前に提げている。睨みつけるような視線もそのまま。だけど受ける印象は先ほどとは少し違う。どことなく気恥ずかしさのようなものが漂っていた。
「あんた、大野高校の人?」
少女はおもむろに口を開いた。語勢は強い。でも少女は何か無理に威勢を上げているように思えた。
「そうだけど…?」
僕はキョドりながら言った。正直言えば、別に本当にキョドっているわけではない。これはある種の演技だ。自信なさげに装うことで、相手の容赦を誘う高等テクニックだ。もちろん嘘だ。
「良かったら案内してくんないかな?」
少し俯いて上目視線。斜め下から僕の視線を迎え撃ち、すくい上げるように見つめてくる。顔の横に垂れた真っ白な髪を恥ずかしげに耳にかける仕草。
ちらつく雪も雪景色も、道の真ん中で噴水を上げる融雪機も、道の脇に押しつけられた雪の山も、その山の上で冒険家の子どもたちが踏み固めた小道も、それら全部、僕の視界に映る全てを容赦なく背景にして、彼女はただひたすらに可愛かった。
『またまたー、これだからキモオタはw。ちょっと話しかけられただけで舞い上がっちゃうんだから』
心の中でツッコミが入る。
うるせえ黙れ。
事実、そうかも知れないけど、僕は断言できる。そのときの彼女は僕の人生で最高の破壊力を秘めていたと。
実は、大野高校は街のシンボル的な小山の麓にある。小山の上には立派なお城があって駅からも見える。だから「あの山の下だよ」と説明すると、彼女はあっと納得がいったような表情を浮かべた。ただ雪が降っていると異様なほどに視界は狭まるものだ。彼女が見つけられなかったのも無理はないと言えば無理はない。
事情を聞いてみると、事前に親からも「すぐ分かる」と教えられていたらしい。でも「聞いてはいたものの、あそこまで分かりやすいとは思ってなかった」そうだ。
せっかく家で地図を作ってきたのに無くしてしまい、駅を出たところでしゃがみ込む羽目になったらしい。結局、地図は見つかったのかと訊くと、どうやら無かったらしい。きっと家にでも置き忘れてしまったのだろう。
彼女は御国雪という名前だそうだ。大野高校への転校生で、学年は僕の一つ下。僕が高二で彼女が高一。なのに彼女は僕に敬語を使ってくれなかった。だから僕は彼女のことを「雪ちゃん」と呼んでやった。そしたら「このキモオタごときが!」という視線で睨まれたので「雪さん」に改めた。どうやらキモオタと美少女ギャルの格差は学年一つ分よりも大きいらしい。
東京からの転校生だと聞くと僕は合点がいった。
この季節に生足。この街ではあり得ないファッションだ。
それにこの辺りではとてもお目にかかれないような美少女。文字通りグラビア雑誌から抜け出してきたかのように輝く外見をしていた。金髪を通り越して真っ白になってしまっている髪が彼女の容姿を牽き立てていた。雪の中で見ると、雪の白とはまた違う白。どこかの芸能人が白には何百色もあるといって話題になっていたけど、彼女の髪の色と雪の色を見比べると、その芸能人の言葉にも頷ける。雪の白はどことなく白の間に暗さを秘めたような白。一方の彼女の髪はプラチナで作ったような輝く白だった。
見れば、彼女は水溜りに張った氷に、すごい!珍しい!とはしゃいでいた。でも水たまりに氷が張るなんて、この地方では毎日のようにお目にかかることができる大して珍しくもない日常現象だ。
きっとすぐに彼女もそれを悟るだろう。そして、それを悟った頃、おそらく、彼女も生足の上にジャージを履くようになる。それがこの地方の女子高生の定番の恰好だ。でも、その順化は、人類の大いなる損失であるように思えた。要するに可愛い子には生足を常にさらけ出しておいてほしい。それが人類半分の願いなのだ。
と、歩いているうちに、ふと気づいた。彼女の足元。黒のオシャレなローファーだった。
僕は目を疑った。この豪雪地帯をそんな靴で歩こうとするなんて!いくらなんでもその靴じゃ無理だ。差し掛かろうとしている道の真ん中では融雪用のスプリンクラーが水をまいていて、白い雪の下はドロドロの雪だ。ローファーなんかじゃあっという間に浸水だ。
「靴、それしかないの?」
「うん。親には雪を舐めるなって言われたんだけど、転校初日だから可愛くと思って…」
気持ちは分かる。どうしても雪用の重装備は野暮ったい。僕の靴はおろしたてのスノーブーツなのだけど、やはりゴツくてどことなくダサいのだ。
しかしそのダサさを拒否した彼女は、見るからに凍えていた。足元の寒さは堪えるのだ。肩をすぼませて少しでも寒さに抵抗しようとしている。その気持ちは痛いほど伝わってきた。
でも学校まではまだかなり距離があった。さすがにこのまま歩かせるわけにはいかない…、し、正直なところここは男として彼女にカッコつけたかった。
今振り返れば、その後の言動は自分でも、は?だ。いくらなんでも頭おかしい。だけど思春期のキモオタの思考は暴走しがちなものなのだと読者諸兄には納得してほしい。
僕の頭に浮かんでいたのは、手提げバックに入れていたスキー靴だった。実は、大野高校は山の麓にある関係で、雪が降ると山の斜面を使ったスキーの授業が始まる。それでたまたま持っていたスキー靴。これを僕が履いて彼女が僕のスノーブーツを履けばいいのでは?幸い、僕のスノーブーツは下ろし立てだ。そこまで汚いわけではないはずだ。
彼女にそう提案すると、返事は一言だった。即断だった。そのあまりに切れ味のように「ありえないだろバカ」という声ならぬ声が聞こえた気がした。
「…キモ」
そりゃそうだ。年頃の女の子が同年代のキモオタの靴を履くなんて気持ち悪かろう。
とはいえ背に腹は代えられないのだ。この季節に水浸しの靴で歩けば、つま先は容赦なく霜焼けになるし、最悪、足の指が壊死することだってありうる。
僕はその危険性を熱弁した。だが、絶対に雪さんは首を縦に振ってくれなかった。
業を煮やした僕は、彼女の手を握って近くのバス停に引きずり込んだ。柄にもなく強く握りしめた彼女の指はやはりとても冷たかった。
僕の田舎ではバス停はちょっとした小屋になっていて、バスを待つ乗客が暖を取れるようになっている。中に入って雪さんをベンチに強引に座らせると、彼女は小さく悲鳴を上げて抗議するかのように睨みつけてきた。人に見られたら犯罪と言われかねない行為だけど、僕は止まらなかった。
「そのままだと風邪ひくから靴と靴下脱いで」
そういうと雪さんはいかにも渋々と言った表情でローファーと靴下を脱いだ。すると、出てきたのは案の定真っ赤に悴んだ爪先だった。母親が制服のポケットにねじ込んでくれたハンカチで彼女の爪先の水気を拭い、ハンカチごしに両手で挟み込むようにして押さえつけた。「ちょっと!」と抗議の声が上がったが取り合わなかった。こっそり視線を上げて彼女の表情を伺うと「お前、ちょっとでも変なことしたら殺すからな」という視線が降ってきた。僕は慌てて視線を下げた。
しかしそんな彼女の視線もやがて和らいできた。たぶんつま先がそれなりに暖まってきて人心地ついたのだろう。そのうち彼女は「もう大丈夫だから」と優しく僕の手をどけた。僕の視線を避けるようにしてベンチの上に三角座りして自分でつま先を温め始めた。その体勢はキモオタ男子高校生にはあまりにも刺激的だった。何せスカートが足の根元までめくれあがっているのだ。雪さんはそれに気づいていないのだろうか?それともあえてやっているのだろうか。思春期男子にとっては目の毒な光景からつい視線を逸らすと、その先には自動販売機があった。
僕は自動販売機の前に行って財布を取り出す。ホットドリンクを二本。雪さんの好みもあるかもしれないから念のため違う種類のものを購入する。バス停の小屋に戻って彼女に渡すと、彼女は顔を輝かせて受け取った。冷え切った体にホットドリンクの熱さは刺激が強い。彼女は熱さに怯えるように受け取って、ちょっとずつ自分のつま先に当てていく。そんな雪さんの姿は、なんだか食事中の小動物みたいに思えた。
しばらくの間、僕はバス停のひさしの柱に寄りかかっていた。彼女は三角座りのままホットドリンクを足の裏に当てていた。
雪は断続的に降り続けていた。一日の中で小降りになったり本降りになったりという揺らぎこそあれ、おそらく今日はずっと降りっぱなしなのだろう。別に珍しくもない、よくあることだ。
スマホで天気予報を確認するとこの辺りに大雪警報が出ていた。地元に住んでいる学生の僕らからしたら、正直、大雪警報は出ようが出るまいが、という部分はある。せいぜい雪かきの手間が増えるぐらいのもので、それ以上でもそれ以下でもない。でも都会から引っ越してきたばかりの彼女にとってはかなり大変なことかもしれない。なにせ彼女は雪用の靴さえ分かってなかったのだから。
そんなことを思いながら彼女のことを見つめていると、不意に彼女は言った。
「やっぱり無理かな?」
彼女の視線はずぶぬれになったローファーに向かっていた。たぶん、このローファーで学校に行くのは無理かなという意味だろう。だから僕は答えた。
「もう一回履く勇気ある?」
彼女は首を横に振った。
「一応、僕の靴、昨日、下ろしたばっかりだからそんなに汚くないと思う」
念のため、もう一度確認してみた。昨日の今日なのだから本当にそこまで汚れてないはずなのだ。
「いや、汚いっていうか、キモイ?」
だよねえ、と力なく言うと彼女はおかしそうに笑った。
僕だって良く知らないおっさんの靴を履けと言われたら全力で抵抗する。当たり前のことだ。
そんなときであった。僕の頭に名案が閃いたのは。
「てか、よく考えたら学校に靴借りに行けばいいんじゃね?雪さんも女の子とか、女の先生の靴だったら履けるでしょ?」
なぜすぐに思いつかなかったのだろう。キモオタが美少女に舞い上がって、いいところを見せようとしたからか。
僕の提案に彼女は喝采を挙げた。
「うんうん!ナイス!」
雪さんのそれは、まさしく輝く表情であった。そして同時に僕の靴はそこまで嫌だったのかとすごくショックだった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」彼女は「がんばれー!」と手を振ってくれた。
学校までは雪道で約15分。往復で30分だ。制限時間があるわけではないから走る必要はないのに、つい走ってしまった。体が火照っていた。きっと興奮して体温が異常に上がっているのだ。白い吐息が後ろへと流れていくのにあわせて、まつ毛についた雪が溶けていく感触がした。
雪道を走っていると自分がゲームのマリオになったみたいな気分になる。踏み固められてない雪山を飛び越え、融けてべちゃべちゃになった雪を迂回する。特に走っていると、それに如実にゲーム感が生まれる。飛んだ先に水浸しの雪があって、周囲に水しぶきを上げることもざらだ。僕のスノーブーツも段々と水が浸水してくる。でもそれでも構わなかった。あの子のために、と思うと走る元気が湧いてきた。
わずか10分で学校に着いた後、女性教師である真田先生に事情を話し、除雪用のスノーブーツを貸してもらった。真田先生の愛用らしく、女性用の可愛らしいオシャレなものだ。
渡される瞬間、真田先生はなぜだか僕の瞳の奥を覗きこんできた。
「どうしたんですか?」と訊くと「その子、可愛かった?」と返ってきた。
僕は憤然とした。察しのいい教師は良くない。真田先生は表情からして冷やかす気満々だった。
「別に可愛いから頑張ってるわけじゃないですよ」僕はそう言った。すると真田先生は言った。「別に可愛いから頑張ってるなんて一言も言ってないだろ?女の子のために頑張るお前にその子は可愛かったかって聞いただけじゃん」そう言うと真田先生は唇を尖らせた。どっちも一緒じゃんって言うと、真田先生はその差が分からないとは子供だな、と笑った。
行きと同じく10分で雪さんのところに戻ると、「おかえりー」と彼女は元気な声をあげた。渡したホットドリンクはすっかり冷えてしまったらしく、代わりに真っ赤なマフラーで剥き出しの足全体を保温していた。僕の背中からは湯気が上がっていた。彼女はそれを見て眼を丸くして笑った。
僕は言った。
「寒くない?」
「意外とバス停の中は暖かい」
「風が入らない分、ちょっとマシなのかも」
「かまくらもそう言うね。外気が氷点下だから、0度の雪に囲まれてると温かく感じるっていう奴」
氷点下という言葉を聞いて彼女は身を竦ませた。言葉のせいで余計に寒く感じさせてしまったのかもしれなかった。
借りてきたオシャレブーツを雪さんに見せると彼女は喜んだ。こういう可愛いのもあるんだね、とブーツについたリボンが気に入ったらしい。同性とはいえ素足で人様の靴に足を突っ込むのは抵抗があったようだが、二三日貸してくれるらしいからと伝えると「洗って返せばいいか」と納得したらしい。
オシャレブーツを履いた彼女。トントンとつま先を地面に打ち付けて調子を確かめると満足したような笑みを浮かべた。びしょびしょになったローファーと靴下、あとすっかり冷え切ってしまったドリンクは、一旦、僕のスキー靴バッグにしまっておいた。
「じゃあ行こっか?」準備が整った彼女はそう言った。
気づけば時刻は10時を回っていた。時間は経ったが、体感、気温が上がったようには感じられない。天候は吹雪に近くなっていた。
視界は5メートル先も見えない。
朝方5センチだった雪は知らぬ間に10センチ近くになっていた。
「学校の目印の山も全然、見えないんだけど」彼女はそう愚痴った。
通常、雪道を歩くときは、先に歩いていた人の足跡を辿るように歩く。が、僕らより前に歩いていた人の足跡は雪に埋もれて判然としなくなってしまっていた。
だから僕は「僕の足跡の上を歩くと歩きやすいかも」と言った。
「おーけー」と雪さんは軽く返してくる。小さな声で「いや、歩幅でけーよ」という声が聞こえてきた。僕の身長は180センチを超えていて雪さんは多分160センチくらいだ。確かに、と気持ち歩幅を小さくした。
しばらくすると吹雪の中に薄暗い山のシルエットが見えるようになった。
「もうすぐそこだから。足、大丈夫?」
「うん、全然平気。やっぱり靴、交換してよかったかも」
「でしょ?」
「うん。でも新しい靴買わなきゃな。みんなどういうの履いてるんだろ?」
「…」
僕は答えられない。黙りこくった僕を見て
「あー、なんかあんたのこと分かった気がするわ」
と雪さんは言った。驚いて振り返ると、雪さんはそれを見てニヤリと笑った。
「はー、やっと着いたね」
学校のエントランスに入ると雪さんはほっとしたような面持ちで息を吐いた。僕が傘をコンコンと地面に軽く打ってこびりついた雪を落とすと雪さんはそれを真似する。北陸の雪は水分が多く、傘にくっつきやすい。そのまま屋内に持っていくと溶けた雪で床が水浸しになってしまうのだ。
エントランスの中は暖房がかかっており、冷えた体には天国だった。
「あったかーい」雪さんは無邪気にそう喜んだ。
雪さんのダッフルコートには大量の雪が付着していた。僕はそれを払うように雪さんに言う。
でもダッフルコートの生地は少し長足なので雪が絡みやすい。そのため手で雪をはらっても細かい雪の粉が毛に絡まって落ちてくれない。それらはやがて融けてダッフルコード自体を全体的に湿らせていってしまう。これはダッフルコートの性質でもうどうしようもないことだ。だからこの地方の人はそういう生地が剥き出しの防寒具よりもスキーウェアのようなナイロン生地の防寒具を好む。
雪さんにそう伝えると雪さんはげんなりした表情を浮かべた。「もうー。このダッフルコートも最近買ったばっかりだったんだけどなあ…」雪国では時としてオシャレよりも防寒が優先されるものなのである。
脱いだダッフルコートを膝の上に置いて丁寧に雪を払う雪さんに僕は話しかけた。
「お疲れさま」
「ごめん。色々ありがとね」
「いや、なんか余計なことたくさんしちゃった気がする」
「そんなことないそんなことない」
僕は自分のスキー靴入れの中を開いて、中からびしょびしょのローファーと靴下を取り出した。すると雪さんは恥ずかしかったのか、慌ててそれを自分の手元に回収した。その際、つい目に入ってしまったのだけど、彼女の太腿は朝とは違い真っ赤になってしまっていた。
僕の視線に気づいたのか、「やっぱりいきなり雪国は無茶だったかなあ」と立ち上がった雪さんは太腿を擦りながらそう言って笑った。
でも、ここで僕の頭に不意に疑問がよぎった。
そういえば何故、雪さんはこんな時期に、しかもこんな雪国に転校してきたんだろう。引っ越しの理由なんて大抵、親の転勤だ。だから転校は季節の変わり目になりがちなものだけど、どうしてこんな真冬の二月に転校してきたのだろう?
この時のことを思い返すと、僕は心底、愚かだったと思う。普通でない時期の転校ならば、普通でない事情があってしかるべきだ。そして普通でない事情とは、得てして口にしにくいものだ。藪をつつけば大抵蛇が出てくる、そんな当たり前に世の中に存在する不条理を、その頃の僕はまだ知らなかった。
「雪さんってなんでこっちに引っ越してきたの?二月の中頃って結構珍しいよね?」
そう質問すると彼女の表情は明確に曇った。
一瞬の間が浮かぶ。
それはきっと雪さんの中で正直に答えるか誤魔化すかを悩んで生まれた間だった。
そして彼女は正直に答えることを選んだ。ほんのりと笑顔を浮かべつつ、何か覚悟を決めたような表情。その表情で僕は彼女が本当のことを言おうとしているのだと悟った。
どこかで歯車が一刻み回った音がした。
彼女はダッフルコートを膝にかけてエントランスに座り込んだままだった。その状態のまま、彼女は自分の真っ白な髪を右手ですくい、掌から少しずつこぼしていく。それは白金の粉が零れていくように見えて目を奪われた。その光景の先に彼女の美しい顔が見えた。
「私、実は病気なんだよね」
僕は「え?」という言葉を漏らしたまま固まってしまった。
病気?髪の毛を真っ白に変えてしまうほどの?僕は無知にしてそんな病気を知らなかった。
僕は繰り言のように言葉を発した。
「病気?」
その様子がおかしかったのかもしれない。雪さんは爆笑して僕を見た。でも病気が嘘であるとか冗談だったとか、そういうことは絶対に言ってくれなかった。
だから、たぶん、病気は本当のことなんだろうと思った。
僕と彼女は時間が止まったかのように固まってしまった。そこのチャイムの音。授業が終わった合図だった。途端に学校がざわめきに満ちた。そこかしこから声が聞こえてくる。
それで強制的に僕たちの間に時間が再び流れはじめた。
僕は彼女に言った。
「職員室に案内するよ」
「うん」少女は笑った。そして彼女は自分の手を差し出す。まるで自分を立ち上がらせろと言わんばかりに。
「え?」
僕が再び固まると彼女は面白そうに笑った。きっと握れとばかりに差し出された手にドギマギしてしまう僕が面白かったのだろう。
悔しかったので僕は彼女の差し出した手を両手で握って、思い切り引っ張って立ち上がらせてやる。彼女は「おっ」という声をあげて喜んでいた。でも僕の手に残る彼女の手の感触はなんだかとても頼りなかった。




