第8話 皇帝の求愛と鈍感な園芸師
帝国での生活が始まって、一ヶ月が過ぎた。
私の日常は完全に安定していた。
朝は五時に起きて見回り、午前中は土作りと剪定、午後は種まきや記録作成。
そして夕方は、皇帝陛下とお茶を飲む。
それが、いつの間にか固定化されたルーティンになっていた。
「……マリー。少し手を休めないか」
温室の椅子に座っていたアレクセイ様が、手元の書類から顔を上げて言った。
今日の彼は執務服姿だ。
忙しいはずなのに、わざわざ書類を温室に持ち込んで仕事をしている。
「ここが一番空気がいい」というのが彼の言い分だが、カミル様が胃薬を飲む頻度が増えている気がする。
「はい、ちょうど区切りがつきました」
私は作業用の手袋を外し、手を洗ってから彼の向かいに座った。
テーブルには、私が育てたミントを使ったフレッシュハーブティーが置かれている。
「どうぞ、陛下。今日はレモンバームも少し加えてみました。リラックス効果があります」
「ああ、いい香りだ。……君の淹れる茶は、どんな高級茶葉より心が安らぐ」
アレクセイ様はカップに口をつけ、ふっと息を吐いた。
その表情が柔らかく解けるのを見るのが、最近の私の密かな楽しみでもある。
氷の皇帝と呼ばれた彼が、ここではただの植物好きな青年の顔を見せてくれる。
「ところで、マリー。君に渡したいものがある」
「私に、ですか?」
アレクセイ様は懐から、手のひらサイズの小箱を取り出した。
ビロード張りの、見るからに高価そうな箱だ。
「先日の月光花の件、それに温室の再生。君の功績に対する個人的な礼だと思ってくれ」
彼は箱をテーブルに置き、私の前に滑らせた。
「開けてみてくれ」
私はおずおずと箱を手に取った。
個人的な礼。
給与は十分に頂いているし、道具も買ってもらった。
これ以上何を頂けるというのか。
パカリ。
蓋を開ける。
そこにあったのは、目が覚めるような緑色だった。
「……!」
親指の爪ほどもある、大粒の緑色の石。
カットが美しく、夕陽を受けて内側から発光しているように見える。
不純物が一切ない、深い、深い緑。
「いかがかな。君の瞳の色によく似ていると思って、職人に探させたんだ」
アレクセイ様が試すような、少し照れくさそうな声で言った。
私は石をまじまじと見つめた。
こんなに美しい緑色の結晶体を見るのは初めてだ。
緑色。
植物の色。
そして、この透明度。
私の脳内で、園芸知識の引き出しが高速で開閉した。
緑色の鉱物といえば、クロムやバナジウムを含むことが多い。
これらは植物の光合成を助けたり、特定の酵素を活性化させる微量要素だ。
特に、この輝き。
粉末にすれば、さぞかし上質なミネラル補給剤になるに違いない。
「素晴らしいです、陛下」
私は顔を上げ、真剣な眼差しで彼を見た。
「これほどの純度……砕くのがもったいないくらいですが、効果は絶大だと思います」
「……砕く?」
アレクセイ様の笑顔がピタリと止まった。
「はい。やはり、弱っている世界樹の根元に埋めるのが一番でしょうか。それとも、粉末にして水に溶かし、葉面散布にしますか? 硬度が高そうなので、専用の粉砕機が必要ですね」
私は箱の中の石をつまみ上げ、光に透かしてみた。
「このサイズなら、温室全体に散布しても十分な量になります。さすが陛下、植物に必要な成分をよくご存知で」
沈黙が落ちた。
温室の中に、ハーブティーの湯気だけが揺らめいている。
「……ぷっ」
不意に、アレクセイ様が吹き出した。
肩を震わせ、口元を手で覆う。
「く、くくっ……あはははは!」
いきなり大笑いを始めた。
氷の皇帝が、腹を抱えて笑っている。
私は石を持ったまま、きょとんとしてしまった。
「へ、陛下? 何かおかしなことを申し上げましたか? やはり粉砕機ではなく、酸で溶かす方が……?」
「違う、違うんだマリー。そうか、砕くのか。肥料にするのか。ははは!」
彼は涙を指で拭いながら、ようやく呼吸を整えた。
その瞳は、今まで見たことがないほど楽しげに輝いていた。
「参ったな。これはエメラルドだ。帝国の鉱山で採れた、最高品質の宝石だよ」
「宝石……ああ、装飾用の」
私は納得した。
道理でキラキラしているわけだ。
でも、それなら私には不要だ。
植物は宝石を食べない。
「申し訳ありません。私には過ぎた品です。これ一つで、堆肥が何トン買えることか」
箱に戻して返そうとすると、アレクセイ様の手が伸びてきて、私の手を包み込んだ。
革手袋越しではない。
素手だ。
温室の中だからか、彼自身の制御が上手くなったのか、彼の手は熱かったけれど、私を焼いたりはしなかった。
「受け取ってくれ。肥料にするなり、漬物石にするなり、君の好きに使えばいい」
「えっ、でも」
「その代わり、頼みがある」
アレクセイ様の表情から、笑いの色が消えた。
代わりに、真摯で、熱を帯びた色が浮かぶ。
彼は私の手を握ったまま、身を乗り出した。
「マリー。俺は、君が必要だ」
ドキン、と心臓が鳴った。
真っ直ぐな視線。
逃げ場がない。
「君が来てから、この城は変わった。枯れていた庭が息を吹き返し、俺の乾いた心にも水が満ちたようだ。君がいない毎日は、もう考えられない」
彼の声は低く、心地よく鼓膜を揺らす。
「一生、俺の庭を管理してくれないか。……俺の隣で」
時が止まった気がした。
風の音も、鳥の声も聞こえない。
ただ、目の前の彼のアイスブルーの瞳だけが、世界で一番鮮やかな色としてそこにあった。
一生。
俺の庭を。
俺の隣で。
それはつまり。
(……終身雇用の、打診?)
私は瞬きをした。
期間限定のゲストではなく、帝国の専属技師として。
それも、皇帝直属の「隣」というポジションで。
これは、園芸家としてこれ以上ない好待遇ではないだろうか。
予算も、土地も、すべて自由にさせてくれると言った彼の言葉が蘇る。
「……それは、光栄なお話です」
私は慎重に言葉を選んだ。
喉が渇く。
ただの契約の話はずなのに、なぜか顔が熱い。
「私でよろしければ、謹んでお受けいたします。この国の土が黒く肥沃になるまで、責任を持って働かせていただきます」
私が答えると、アレクセイ様は眩しいものを見るように目を細めた。
そして、握っていた私の手を持ち上げ、その甲に――そっと、唇を寄せた。
「!」
柔らかい感触。
熱い吐息。
思考が真っ白になる。
「契約成立だ。……逃がさないからな、マリー」
彼は唇を離すと、悪戯っぽく微笑んだ。
その顔は、契約書を取り交わした主君というより、獲物を捕らえた肉食獣のようだった。
「へ、陛下……?」
「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「い、いえ! 温室が暑いだけです!」
私は慌てて手を引っ込め、ハーブティーを一気に飲み干した。
味なんて分からない。
心臓がうるさい。
バクバクと暴れている。
これは何だ。
仕事が決まって嬉しいのか。
それとも。
(肥料の話じゃなかったの?)
チラリと彼を見ると、彼は満足げにエメラルドの箱を私のポケットに押し込んでいた。
その横顔を見て、私はどうしようもなく動揺していた。
植物以外で、こんなに心が乱されるなんて計算外だ。
夕暮れの光が、温室を金色に染めていく。
私のポケットの中で、緑の石が重たく、けれど温かく存在を主張していた。
「さて、執務に戻るとするか。カミルが胃薬を持って探し回る頃だ」
アレクセイ様は立ち上がり、上機嫌で出口へと向かった。
私はその背中を見送りながら、熱くなった頬を両手で冷やした。
「……砕いちゃ駄目、よね」
一人呟く。
この石は、肥料よりもずっと大事な、何か別の栄養素を含んでいる気がした。
それが「愛」という名の成分だと気づくには、私はまだ少し、土の分析に忙しすぎた。




