第7話 元主人の襲来
「マリー! マリーはどこなの!」
その声を聞いた瞬間、私は持っていた移植ゴテを取り落とした。
カラン、と乾いた音が温室に響く。
間違いない。
この鼓膜を突き破るような高音。
台風のような勢い。
温室のガラス扉がバーンと開かれた。
立っていたのは、見慣れた元主人だった。
「見つけたわよ! こんな泥だらけの場所に隠れているなんて!」
ローズ・ベルンシュタイン元公爵令嬢。
かつて私が「取り巻きB」として仕えていた方だ。
今日の彼女はいつもの煌びやかなドレスではない。
埃をかぶった旅用のマントに、少し擦り切れたブーツ。
金色の巻き髪も乱れている。
けれど、その瞳の強気な光だけは変わっていない。
「……ローズ様?」
私は目を瞬いた。
なぜ、ここに。
噂では実家を勘当され、地方の修道院へ送られるはずではなかったか。
「マリー! さあ、帰るわよ!」
ローズ様はツカツカと歩み寄ると、私の腕を強引に掴んだ。
「こんな野蛮な国にいるなんて信じられないわ。貴女は私の後ろでお茶を淹れていればいいのよ。ほら、立ちなさい」
相変わらずだ。
こちらの都合など一ミリも考えていない。
彼女にとって私は、気に入った家具やペットと同じ「所有物」なのだ。
「待ってください、ローズ様」
私は腕を引いて抵抗した。
「痛っ……なによ、逆らう気?」
「逆らうも何も、私は今、ここの職員として働いています。勝手に帰るわけにはいきません」
「職員? 貴女が?」
ローズ様は鼻で笑った。
周囲を見回し、綺麗に整備された花壇と、泥だらけの私の作業着を見る。
「ただの庭師じゃない。男爵令嬢が泥いじりなんて、恥ずかしくないの? 王国の社交界に戻りなさい。私が許してあげるから」
許す、とは何だろう。
私は何も悪いことはしていないのだが。
「ローズ様。貴女こそ、なぜここに? 修道院へ行かれたと聞きましたが」
「ふん! あんなカビ臭いところ、三日で抜け出したわ!」
彼女は胸を張った。
自慢することではないと思う。
「私はね、隣国で一花咲かせるつもりなの。商会を立ち上げるわ。だから貴女が必要なのよ。貴女、計算と書類整理だけは得意でしょう?」
なるほど。
雑用係兼秘書として、私をリサイクルするつもりか。
彼女の行動力には感服するが、付き合わされる方はたまったものではない。
「お断りします」
私は短く答えた。
「は?」
ローズ様が口をポカンと開けた。
彼女の人生で、私から「NO」と言われたことなどなかったのだろう。
「な、なによ。給料なら出すわよ? 出世払いで」
「お金の問題ではありません」
私は自分の汚れた手を見た。
土が爪の間に入り込んでいる。
貴族令嬢としては失格の手だ。
でも、私はこの手が好きだ。
「私は、ここの仕事が好きなんです」
「土いじりが?」
「はい。植物たちは、手をかければ必ず応えてくれます。理不尽に怒鳴ることも、気分で命令を変えることもしません」
少し皮肉を込めて言うと、ローズ様の顔が赤くなった。
「わ、私のこと!? 私が理不尽だと言うの!?」
「自覚がおありで何よりです」
「失礼ね! 貴女なんて地味で、華がなくて、私が連れ歩いてあげなきゃ誰も見向きもしないくせに!」
彼女の声が温室に反響する。
いつもの私なら、ここで「仰る通りです」と頭を下げてやり過ごしていただろう。
波風を立てず、空気のように振る舞うのが私の処世術だったから。
でも。
「マリー」
静かな声がした。
温室の奥から、アレクセイ様が歩いてくる。
今日は執務の合間ではなく、最初から私を見守っていたような気配だ。
後ろにはカミル様と、武装した近衛騎士たちも控えている。
「へ、陛下……?」
ローズ様が息を呑んで後ずさった。
氷の皇帝の威圧感は、王国のご令嬢には刺激が強すぎるようだ。
アレクセイ様は私の隣に立つと、ローズ様に冷ややかな視線を向けた。
「不法入国者だな。衛兵につまみ出させてもいいが」
「ひっ」
「マリー。君が望むなら、彼女を二度と君の前に現れないようにする。どうする?」
アレクセイ様は私に判断を委ねた。
守ろうとしてくれている。
でも、これは私の問題だ。
私が過去と決別しなければ、前には進めない。
「いいえ、陛下。私が話します」
私はアレクセイ様に目配せをして、再びローズ様に向き直った。
真っ直ぐに、彼女の目を見る。
「ローズ様。私は帰りません」
「……どうして」
「私はここで、自分の価値を見つけました。誰かの後ろに隠れる『取り巻き』ではなく、植物の命を守る『園芸師』として」
私は後ろに広がる緑を指差した。
三週間前、死に絶えていた場所。
それが今、生命に溢れている。
「この景色を作ったのは、私です。ローズ様のお飾りだった私ではなく、泥だらけの私が作りました」
「……っ」
「私はこの仕事に誇りを持っています。そして、私の技術を必要とし、敬意を払ってくれる主君にも出会えました」
チラリと横を見ると、アレクセイ様が微かに口元を緩めたのが見えた。
「ですから、貴女の野望には付き合えません。新しい秘書は、職業斡旋所で探してください」
きっぱりと言い切った。
胸のつかえが取れたように軽い。
初めてだ。
この人に、自分の意志を言葉にして伝えたのは。
ローズ様は唇を噛み締め、私と、アレクセイ様と、そして生き生きとした植物たちを交互に見た。
何かを言い返そうとして、口を開き、また閉じる。
その目から、いつもの傲慢な光が消えていた。
彼女は気づいたのだと思う。
私がもう、彼女の知っている「都合のいいマリー」ではないことに。
そして、この場所で私がどれほど大切にされているかということに。
「……ふん!」
長い沈黙の後、ローズ様は顔を背けた。
「勝手にしなさいよ! そんな泥臭い男のどこがいいのよ!」
彼女はアレクセイ様を指差した。
不敬極まりないが、アレクセイ様は気にした様子もなく「泥臭いとは心外だな」と苦笑している。
「後悔しても知らないから! 商会が大成功して、大金持ちになっても雇ってあげないんだからね!」
ローズ様はマントを翻した。
その目尻が、少しだけ濡れているように見えたのは気のせいだろうか。
彼女は出口へと歩き出し、ドアノブに手をかけたところで、一度だけ立ち止まった。
背中を向けたまま、ボソリと言う。
「……顔色が、いいじゃない」
「え?」
「王国の夜会にいた時より、今の顔の方がマシよ。それだけ!」
バタン!
扉が大きな音を立てて閉まった。
嵐が去った後のような静寂が戻る。
私はしばらく扉を見つめていた。
最後の言葉。
あれは彼女なりの、精一杯の「さよなら」と「祝福」だったのかもしれない。
不器用で、素直じゃなくて、手のかかる人だったけれど。
「行ってしまったな」
アレクセイ様が肩の力を抜いて言った。
「捕まえなくてよかったのですか? 不法入国者でしょう?」
「君の知り合いだからな。特別に見逃そう。それに、彼女の捨て台詞には同意する」
「捨て台詞?」
アレクセイ様は私の顔を覗き込み、革手袋をした手で、私の前髪を優しく払った。
「今の君の顔は、とてもいい。自信と誇りに満ちている」
「……土で汚れているだけです」
「それがいいんじゃないか」
彼は笑った。
その笑顔を見て、私は確信した。
私の選んだ場所は、間違っていなかったと。
「さて、休憩は終わりです。午後の作業に戻りますよ」
「厳しいな、マリー先生は」
私はスコップを拾い上げた。
過去との決別は済んだ。
これからは、この国に根を張って生きていくのだ。
温室の緑が、風もないのにざわめき、まるで私を応援してくれているようだった。




