第3話 氷の皇帝と枯れた温室
馬車が止まったのは、黒い城壁に囲まれた巨大な要塞の前だった。
帝国の皇城、通称「黒鉄城」。
装飾を削ぎ落とした武骨な建築様式は、この国の気質をそのまま表しているようだ。
「到着しました。陛下がお待ちです」
カミル様に促され、私は馬車を降りた。
長旅で足が浮腫んでいるが、弱音を吐いている場合ではない。
護衛の騎士たちが緊張した面持ちで敬礼する中、私はカミル様の後ろをついて歩いた。
案内されたのは、豪華な謁見の間ではなかった。
城の奥まった場所にある、ガラス張りのドーム。
外観は我が家の温室を百倍くらい立派にしたものだ。
「ここへ?」
「陛下のご意向です。堅苦しい挨拶より、まずは現場を見ていただきたいとのこと」
カミル様が重厚な扉を開ける。
むっとした熱気が顔を打った。
湿り気のない、乾いた熱だ。
私は一歩足を踏み入れ、息を呑んだ。
「……これは」
広い。
天井も高く、設備は最新鋭だ。
だが、そこにあるのは「死」だった。
並んでいる鉢植えのすべてが、茶色く変色している。
枯れているのではない。
焦げているのだ。
炭化した枝、チリチリに縮れた葉。
まるで火事の跡地のような惨状が広がっていた。
「ようこそ、我が墓場へ」
聞き覚えのある声が響いた。
温室の中央。
一本だけ残った巨大な枯れ木のそばに、その人は立っていた。
銀色の髪、アイスブルーの瞳。
第1話で出会った、あの夜会の男性だ。
今日は軍服ではなく、ラフな白いシャツ姿だ。
それがかえって、彼の人間離れした美貌を際立たせている。
カミル様が深く頭を下げた。
「陛下。マリー・レグルス嬢をお連れしました」
陛下。
やはり、この方が皇帝アレクセイ・フォン・アインス。
「氷の皇帝」と恐れられる、大陸最強の覇者。
私は慌ててカーテスの姿勢をとろうとした。
けれど、彼は手でそれを制した。
「礼儀はいい。ここは私の私的な空間だ」
アレクセイ様は私に近づくことなく、寂しげに周囲を見回した。
「見ての通りだ、マリー。私が愛そうとしたものは、すべてこうなる」
彼は近くにあった枯れた薔薇の鉢に手を伸ばした。
指先が乾いた花弁に触れる。
ジュッ。
嫌な音がした。
彼の指が触れた場所から、黒い染みが広がっていく。
まるで、高熱の焼き鏝を押し当てたかのように。
薔薇は音もなく崩れ落ち、灰となって床に散らばった。
「呪われているのだ、私は」
アレクセイ様は自嘲気味に笑った。
その瞳には、深い諦めと絶望が沈殿している。
「生まれつき、私の体はすべてを拒絶する。特に、私が美しいと感じ、触れたいと願うものほど……こうして壊れてしまう」
彼は自分の手を見つめた。
美しい形をした手だ。
だが、彼自身にとっては、触れるものすべてを殺す凶器にしか見えていないのだろう。
「カミルが君を連れてきたがった理由は分かる。あの夜、君が蘇らせた木の生命力。あれなら、私の呪いにも耐えられるかもしれないと」
彼は私を見た。
縋るような、けれど同時に拒絶を恐れるような目。
「だが、無駄だろう。君がどれほど優れた聖女でも、私の側にある限り、植物は死に絶える」
重い沈黙が落ちた。
カミル様も痛ましげに顔を背けている。
私は、崩れ落ちた薔薇の灰をじっと観察した。
そして、鼻をひくつかせる。
焦げ臭い。
微かにオゾンのような匂いもする。
呪い?
いいえ、違う。
私はポシェットの口を開けた。
一歩、アレクセイ様に近づく。
「陛下。失礼ですが、その現象はいつから?」
「物心ついた時からだ。制御しようと魔術師に特訓も受けたが、感情が高ぶると余計に酷くなる」
「なるほど」
感情が高ぶると、体温や生体電流が上がる。
よくある生理現象だ。
ただ、この方はその出力が桁外れに高いのだろう。
魔力については詳しくないが、要はエネルギーの漏出だ。
植物の細胞は熱に弱い。
特に花弁のような繊細な組織は、四十度を超えれば壊死する。
彼の指先が発するエネルギーが、瞬時に植物の細胞壁を破壊し、水分を蒸発させているのだ。
これは呪いではない。
ただの「物理的な熱傷」だ。
「陛下、手をお出しください」
私は命じた。
カミル様が「無礼な!」と叫ぼうとしたが、アレクセイ様は素直に右手を差し出した。
私はポシェットから、あるものを取り出した。
愛用の、厚手の革手袋だ。
牛革製で、裏地には耐熱加工が施してある。
薔薇の棘や、焼けた石から手を守るためのプロの道具だ。
それを、彼の手のひらに乗せた。
「これを嵌めていただけますか」
「……これは?」
「園芸用の手袋です。少々無骨ですが、断熱性は保証します」
アレクセイ様は狐につままれたような顔をした。
それでも、私の真剣な眼差しに押されたのか、ゆっくりと手袋に手を通した。
サイズは少しきつそうだが、なんとか入った。
「では、そこの鉢に触れてみてください」
私が指差したのは、温室の隅で奇跡的に生き残っていた、小さな多肉植物の鉢だ。
厚い葉を持つ種類なら、熱にも強い。
「……枯れるぞ」
「枯れません」
「また殺すことになる」
「大丈夫です。道具を信じてください」
私はきっぱりと言い切った。
園芸において、道具選びは生命線だ。
適切な道具を使えば、不可能な作業も可能になる。
アレクセイ様は震える手で、恐る恐る多肉植物へと指を伸ばした。
革手袋に包まれた指先が、ぷっくりとした緑の葉に触れる。
一秒。
二秒。
三秒。
ジュッという音はしなかった。
葉は緑色のまま、そこに在る。
「……あ」
アレクセイ様の喉から、声にならない音が漏れた。
彼は信じられないものを見る目で、自分の手と、無事な植物を交互に見た。
「枯れ……ない?」
「はい。革がエネルギーを遮断していますから」
私は事務的に解説した。
「陛下のそれは呪いではなく、単なるエネルギー過多です。素手で触るから、植物が火傷をしてしまうのです。熱い鍋を持つ時にミトンを使うのと同じ理屈です」
「鍋……ミトン……?」
アレクセイ様は呆然と復唱した。
高尚な悩みを台所事情で例えられて、理解が追いついていないようだ。
「あっ、温かい……」
彼は両手で、鉢を包み込むように持った。
革越しに伝わる植物の命の鼓動。
それを確かめるように、何度も、何度も撫でている。
厳めしい氷の皇帝の仮面が剥がれ落ち、そこには初めて玩具を与えられた子供のような無垢な表情があった。
「柔らかいな。硬いと思っていたが……こんなに柔らかいのか」
目尻に涙が滲んでいる。
それほどまでに、彼は触れたかったのだ。
ただの一度も許されなかった「接触」を、渇望していたのだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
この人は、植物虐待魔ではなかった。
誰よりも愛しているのに、愛し方を知らなかっただけだ。
そして誰も、彼に「手袋」という単純な解決策を教えなかった。
「皇帝に作業用の革手袋をさせるなど不敬だ」という貴族的な常識が、彼の孤独を深めていたのだ。
「……マリー」
アレクセイ様が顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでの絶望が嘘のように輝いていた。
熱っぽい、けれど今度は破壊的ではない、純粋な歓喜の光。
彼は大股で私に歩み寄り、空いている左手で私の手を取った。
革手袋の右手は、大事そうに鉢を抱えたままだ。
「君は天才だ。魔術師たちが百年かけて解けなかった呪いを、ただの一枚の革で無効化するとは」
「いえ、ただの絶縁体です」
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
握られた手が熱い。
手袋をしていない左手から、彼の体温が直接伝わってくる。
確かに少し熱めだが、火傷するほどではない。
人間相手なら平気なのだ。
カミル様が眼鏡の位置を直し、咳払いをした。
その顔も、どこか安堵しているように見えた。
「陛下。感動の最中ですが、マリー嬢は長旅でお疲れです」
「ああ、そうだな。すまない」
アレクセイ様は名残惜しそうに私の手を離した。
けれど、その視線は私の顔に固定されたままだ。
「君には最高の部屋を用意させる。それに、この温室の管理も任せたい。君なら、ここを本来の姿に戻せるはずだ」
「……善処いたします」
私は一礼した。
断る理由はなかった。
植物が枯れ果てた温室を見るのは忍びないし、何より、この人が嬉しそうに多肉植物を撫でている姿を見て、もう少し力になりたいと思ってしまったからだ。
「では、私はこれで」
案内役のメイドについて退出しようと背を向けた時、背後から声がかかった。
「マリー」
振り返ると、アレクセイ様は手袋をした右手を掲げて、不器用に振っていた。
「おやすみ。……また明日」
その笑顔が、あまりにも無防備で。
私は心臓がトクンと跳ねるのを自覚しながら、小さく頭を下げた。
「おやすみなさいませ、陛下」
この国の土壌改良は骨が折れそうだが、まずはこの温室から始めることになりそうだ。
私はポシェットの感触を確かめながら、長い廊下を歩き出した。
皇帝陛下の誤解はまだ解けていないけれど、少なくとも、植物たちの命は守れそうだ。




