第10話 花開く未来
風が吹いた。
半年前にここを訪れた時のような、砂混じりの乾いた風ではない。
湿り気を帯びた、草の香りがする優しい風だ。
「よし。樹勢よし、葉色よし」
私はバインダーに挟んだ記録用紙にチェックを入れた。
見上げれば、視界を覆い尽くすほどの緑の天蓋。
半年前、瀕死の状態だった「世界樹」は、今や広場全体に木漏れ日を落とすほど力強く復活していた。
あの手術の夜は壮絶だった。
朝までかかって腐った根を切り、新しい土を入れ、排水路を作った。
アレクセイ様も、カミル様も、騎士たちも、全員が泥人形のようになって地面に倒れ込んだのを覚えている。
けれど、苦労は報われた。
翌月から新芽が吹き出し、今では枝がしなるほど茂っている。
「……よかった」
私は幹に手を当てた。
ざらついた樹皮の奥から、ドクン、ドクンと力強い水音――樹液が巡る音が聞こえる気がする。
もう大丈夫だ。
この木は、あと千年は生きるだろう。
「マリー先生、また木と会話中か?」
背後から、呆れたような、でも温かい声が掛かった。
振り返ると、白いシャツ姿のアレクセイ様が立っていた。
手にはバスケットと、銀色に輝くじょうろを持っている。
「陛下。お仕事はよろしいのですか?」
「カミルに追い出された。『たまには光合成をしてこい』とな。あいつ、最近口うるさくて敵わない」
アレクセイ様は肩をすくめた。
氷の皇帝と恐れられていた頃の険しさは、もうどこにもない。
今の彼は、穏やかな春の日差しのような顔をしている。
「それに、俺の主治医……いや、樹木医に会いたくなった」
彼は私の前に立つと、自然な動作で私の頬に触れた。
あの革手袋はしていない。
素手だ。
もう、私に触れる時に彼は躊躇わない。
そして私も、その熱を心地よいと感じている。
「顔に土がついているぞ」
「あら。……またですか」
私は袖で拭おうとしたが、彼の手がそれを止めた。
「そのままでいい。それが君らしくて好きだ」
アレクセイ様は嬉しそうに目を細めると、持ってきたバスケットを木陰に広げた。
「休憩にしよう。君の好きなハーブティーを淹れてきた」
私たちは世界樹の根元、ふかふかに改良された芝生の上に並んで座った。
かつては石畳で固められ、窒息していた場所だ。
今はシロツメクサが咲き、小さな虫たちが飛び交っている。
「どうぞ」
渡されたカップからは、爽やかなミントの香りがした。
一口飲む。
温かさが体に染み渡る。
「……美味しいです」
「だろう? 君に教わった通りに淹れたんだ。温度管理も完璧だぞ」
アレクセイ様が子供のように胸を張る。
皇帝陛下に淹れさせたお茶を飲むなんて、王国の家族が知ったら卒倒するだろう。
元主人のローズ様なら、「もっと砂糖を入れなさい!」と怒るかもしれない。
ふと、遠くの城壁に目をやった。
ここからは、帝国の城下町が見渡せる。
半年前は赤茶色だった大地が、今はパッチワークのように緑色に染まり始めていた。
私の配合した肥料と、土壌改良のノウハウが、少しずつだが確実に広まっているのだ。
「いい眺めだ」
アレクセイ様も同じ景色を見ていた。
「君が来る前、俺はこの国を諦めかけていた。呪われた土地、死にゆく大地だと。だが、君が教えてくれた。死んでいるのではなく、ただ腹を空かせて、息が詰まっていただけだと」
彼は芝生を一掴みし、その感触を確かめるように握った。
「マリー。君は俺に、魔法よりも確かな『希望』をくれたんだ」
真摯な言葉に、胸が熱くなる。
私はカップを両手で包み込み、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、陛下。私はただ、当たり前の世話をしただけです。植物は強いですから、環境さえ整えれば、勝手に育ってくれます」
「その環境を整えるのが、一番難しいのだがな」
アレクセイ様は苦笑し、それから私の手元に視線を落とした。
私が愛用している、使い込まれた剪定ばさみ。
そして、土で汚れた爪。
「……王国の夜会で君を見つけた時、君は壁の花だった」
「はい。目立たないように必死でしたから」
「だが、今の君は違う」
彼は私の手を取り、その甲に口づけた。
「今の君は、この大樹のように根を張り、俺の国を支えてくれている。どんな宝石で飾った令嬢よりも、今の君は美しい」
真っ直ぐな瞳。
そこには、一人の女性としての私への情熱と、仕事のパートナーとしての深い敬意が共存していた。
以前の私なら、謙遜して否定していただろう。
「私なんて」と逃げていただろう。
でも、今は違う。
私はここで、自分の手で成果を出した。
この風景を作った一員であるという自負がある。
だから私は、彼の瞳を見つめ返し、はっきりと答えた。
「ありがとうございます、アレクセイ様」
陛下、ではなく。
初めて名前で呼んだ。
「私も、この場所が好きです。泥にまみれて、汗をかいて、貴方と一緒に未来を育てる今の生活が……何よりも幸せです」
それが私の答えだった。
煌びやかなドレスも、社交界の噂話もいらない。
私はこの人の隣で、一生、土と生きていく。
アレクセイ様が目を見開き、それから破顔した。
世界樹の新緑よりも眩しい、満開の笑顔だった。
「……言質は取ったぞ」
彼は私の手を強く握りしめた。
「一生だ。もう王国の実家にも、あの派手な元主人にも返さない。君は俺だけの、専属樹木医だ」
「はい。覚悟しております」
「なら、仕事の話をしようか」
アレクセイ様は悪戯っぽく、横に置いてあった銀色のじょうろを指差した。
「これを使って、俺たちの『家庭菜園』を作りたいんだが。城の中庭を私物化する許可は出るか? 樹木医殿」
家庭菜園。
その響きの甘さに、私は思わず吹き出した。
皇帝陛下が、家庭菜園。
「……土作りから始めないと駄目ですよ?」
「望むところだ。君が監督してくれるならな」
風が吹き抜け、頭上で世界樹の葉がサワサワと音を立てた。
まるで私たちの契約を祝福する拍手のように聞こえた。
私は空を見上げた。
青い空と、緑の葉。
そして隣には、同じ温度で笑い合える人がいる。
(ああ、いい日だわ)
私は飲み干したカップを置き、彼の手を握り返した。
これから忙しくなるだろう。
帝国の土壌改革に、新品種の開発。
そして何より、この「甘えん坊な大型犬」のような皇帝陛下の世話もしなければならない。
けれど、不思議と不安はなかった。
私の手には技術がある。
隣には理解者がいる。
そして、足元には肥沃な土がある。
種は蒔かれた。
あとは、二人で水をやり、花開く未来を楽しみに待つだけだ。
「さあ、行きましょうか。アレクセイ様」
「ああ。……まずはトマトでも植えるか?」
私たちは手を繋ぎ、木漏れ日の中を歩き出した。
その足取りは軽く、どこまでも行ける気がした。
(完)
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