第1話 壁の花は剪定がお好き
「ローズ・ベルンシュタイン! 貴様のその傲慢な振る舞い、もはや看過できん!」
王立学園の講堂に、王太子殿下のよく通る声が響き渡った。
シャンデリアの光を受けて、殿下の金髪がきらきらと輝いている。
隣には、小柄で可愛らしい男爵令嬢が震えるように寄り添っていた。
いわゆる、婚約破棄イベントというやつだ。
卒業パーティーの華やかな音楽は止まり、生徒たちの視線は一点に集中している。
「……また始まった」
私は扇子で口元を隠しながら、小さく息を吐いた。
私の名前はマリー・レグルス。
断罪されている公爵令嬢ローズ様の、その他大勢の取り巻きの一人だ。
取り巻きと言っても、ローズ様の人数合わせ要員である。
彼女の金魚のフンとしてお茶会に参加し、適度な相槌を打つのが私の仕事だ。
「わたくしが何をしたとおっしゃるのですか!」
ローズ様が金切り声を上げる。
赤いドレスが情熱的に翻る。
あの方は今日も元気だ。
これなら私がしゃしゃり出る幕はないだろう。
私はすり足で、人の輪からそっと離れた。
壁際へ。
目立たないように、空気のように。
それが私の処世術だ。
貴族社会のゴシップや恋愛沙汰には興味がない。
前世で植物園の樹木医として働いていた記憶があるせいか、人間よりも静かなものに惹かれるのだ。
壁際にたどり着くと、ようやく人いきれから解放された。
ふう、と肩の力を抜く。
そこで、あるものが目に入った。
「……酷い」
思わず声が漏れた。
講堂の隅に置かれた、背の高い観葉植物だ。
学名はフィカス・ウンベラータに似ている。
大きなハート型の葉が特徴の、美しい常緑樹だ。
けれど、今の姿は見る影もない。
葉は黄色く変色し、力なく垂れ下がっている。
幹の肌もカサカサに乾いていた。
私は周囲を見回す。
みんな、王太子殿下とローズ様の愛憎劇に夢中だ。
誰もこの可哀想な木のことなど見ていない。
私はドレスの裾を汚さないよう慎重にかがみ込み、鉢の土に指を這わせた。
硬い。
水やりはされているようだが、土が古くなって固まっている。これでは水が根まで届かず、表面を流れるだけだ。
それに、枝が混み合いすぎている。
風通しが悪くて蒸れてしまい、呼吸ができていない。
「苦しかったわね」
私は腰に下げたポシェットに手を伸ばした。
普段はハンカチや香水を入れるための装飾的な小さな鞄。
けれど中に入っているのは、私の相棒だ。
カチャリ。
取り出したのは、小ぶりだが切れ味鋭い剪定ばさみ。
護身用として持ち歩いているが、本来の用途で使う時が来たようだ。
「少し痛いけど、楽になるからね」
私は木に語りかけながら、ハサミを入れた。
パチン。
乾いた音が、遠くの怒号にかき消される。
まずは枯れた枝を落とす。
栄養が分散しないように、生きている枝に力を集中させるのだ。
パチン、パチン。
リズム良くハサミを動かす。
内側に向かって伸びている「逆さ枝」や、他の枝と交差している「交差枝」を迷いなく切り落としていく。
混み合っていた葉の間から、向こう側の壁が見えるようになった。
これで光も風も通るようになる。
仕上げに、固まった土の表面をハサミの先で軽くほぐした。
これで次に水をもらった時、ちゃんと根まで染み渡るはずだ。
「うん、さっぱりした」
私は満足して、切り落とした枝葉を手早くハンカチに包んだ。
証拠隠滅も完璧だ。
垂れ下がっていた葉が、心なしか少し上を向いた気がする。
植物は正直だ。
手をかけた分だけ、必ず応えてくれる。
「……見事な手際だ」
不意に、頭上から低い声が降ってきた。
心臓が跳ねる。
見られた。
私はハサミを素早く袖の中に隠し、何食わぬ顔で振り返った。
そこに立っていたのは、背の高い男性だった。
夜会服の上からでも分かる、引き締まった体躯。
銀色の髪は月明かりのようで、アイスブルーの瞳が静かに私を見下ろしている。
整いすぎていて、冷たさすら感じる美貌だ。
この学園の生徒ではない。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
来賓の方かもしれない。
「お見苦しいところを」
私は冷静にカーテス(挨拶)をした。
動揺は見せない。
ただの園芸好きの変人だと思われれば、それで済む話だ。
「園芸師を呼ぶべきところ、あまりに不憫でつい手が出てしまいました。どうかご内密に」
「不憫、か」
男は私が手入れしたばかりの木に視線を移した。
その瞳が、不思議なほど熱っぽく揺らいだ気がした。
「呼吸が止まっていた木が、息を吹き返したのが分かった。……君は、何をした?」
「何と申されましても。ただの剪定です」
「センテイ?」
男は聞き慣れない言葉だというように眉を寄せた。
「不要な枝を切り、風を通しただけです。魔法も奇跡も使っておりません」
事実だ。
私は魔力なんてほとんど持っていない。
ただ、植物の生理現象を知っているだけ。
男は長い脚で一歩、私に近づいた。
威圧感があるはずなのに、なぜか彼の纏う空気は澄んでいた。
森の奥のような、静謐な気配。
「俺の国では、植物はもっと……すぐに死ぬ。触れるだけで崩れ落ちることもある。だが、君の手にかかるとこんなにも鮮やかに蘇るのか」
彼は独り言のように呟き、そっと葉に触れようとした。
けれど、指先が触れる寸前で手を止める。
まるで、触れるのが怖いかのように。
「あの、もしよろしければ」
私は隠していたハサミをポシェットに戻し、彼に告げた。
「あの木も、水が欲しがっていると思います。ウェイターの方に水差しをお願いしてもよろしいでしょうか?」
男は瞬きをして、それから口元を微かに緩めた。
氷が解けるような、美しい変化だった。
「……ああ、頼んでみよう。名前は?」
「マリーです。マリー・レグルス」
「マリーか。覚えておこう」
彼は私の名を一度だけ口の中で転がした。
その時、講堂の中央から一層大きな悲鳴が上がった。
ローズ様が衛兵に取り押さえられたようだ。
そろそろ潮時だろう。
「失礼いたします。主人が騒ぎを起こしてしまいましたので」
私はもう一度頭を下げ、その場を辞した。
背中に突き刺さるような男の視線を感じながら、私は早足で出口へと向かった。
早く家に帰って、温室のハーブたちに「おやすみ」を言いたい。
今の私にある望みは、それだけだった。
まさか翌日、この銀髪の彼が我が家に押しかけてくるなんて、この時の私は夢にも思っていなかったのだ。




