表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ふたり─あの時

作者: Tou_Harui



第一章 カウンターの距離


カフェ・ブルームのカウンターは、いつ来ても落ち着く。


木目のひとつひとつが擦り切れていて、僕みたいに“なんとなく居場所を求めている人”をそっと受け入れてくれる感じがする。


座るのは、いつも左から二番目の椅子。

誰にも教えてないのに、あそこはなんとなく“僕の席”になっていた。


沙織はグラインダーの前に立って、豆を挽いていた。

静かなリズムで、トントン、と音を刻んでいく。


なんてことない店内の音なのに、その音が鳴っているあいだだけ、気持ちが少しだけ静かになったりする。


「今日も、いい感じですね」


振り返って、彼女がそう言った。

笑顔は、毎日見てるはずなのに、なぜか飽きない。


むしろ、見るたびに“その人らしさ”が増していく気がした。


あるとき、ふと僕の手を見て――唐突にこう言った。


「山崎さん、指長いですね。なんか、もったいない。…見せてもらってもいいですか?」


冗談みたいな口調だったけど、本気だった。

僕は思わず差し出していた。


彼女は僕の手を、指先からゆっくり辿るようになぞっていった。


それだけのことなのに、なんだろう、指先が少しだけ熱かった。


沙織の目は、手のひらを見てるのか、それとも僕の“何か”を見てるのか、よくわからなかった。


でも、不思議と居心地はよかった。

距離が近いのに、緊張しない。


“友達でも恋人でもない”っていう関係が、ちょうどよかったのかもしれない。


コーヒーを飲み終えるころ、彼女は別の客に声をかけていた。

僕は空になったカップを眺めながら、たぶん明日も同じ席に座るんだろうな、と思った。


変える理由がないのは、変える勇気がないのと同じなのかもしれない。


でもその時、少しだけ考えていた。

“いつまでこの関係でいられるんだろう”って。




第二章 届いたはずの言葉


その夜、僕はカッフェ・ノッテに向かった。


入口に貼り出された「本日のおすすめパスタ」の中で、ひときわ目を引いたのはペンネアラビアータ。

何気なくそれを注文した。


景子はカウンターの向こうで、他愛ない世間話をしながらも、

ふとした瞬間に僕の目を見た。


「やっぱり綺麗だな」


心の中でそう呟きながらも、落ち着かない感情を持て余したまま、

10分ほどでパスタを平らげた。


店を出ようとしたとき、彼女が後ろからついてきた。


扉が閉まり、夜の空気がふたりを包む。

景子が、すぐ隣に立った。


「私、山崎さんの笑顔に……癒やされてるんです」


僕は思いがけない言葉に、体が少しだけ固まった。


驚きながらも、言葉にはならず、ただ何気ない返事をした。

けれど心は、不思議な高鳴りを覚えていた。


街灯がぼんやり照らす夜道で、彼女の声は星よりもはっきりと残っていた。


駐車場までの道すがら、僕の足取りは、どこか宙に浮いているようだった。


次の日の夜も、カッフェ・ノッテに行った。

勧められたパスタはアマトリチャーナ。


トマトソースの赤が、夜の空気に似合っていた。


この前彼女に言われた言葉を思い出しながら、落ち着かない気持を押さえつつ、

アマトリチャーナを平らげた。


食後、店を出ると景子がまた外までついてきた。

並んで立ち止まる。


誰もが通り過ぎる夜の街で、僕たちだけが何かを待っていた。

何かが言葉になるのを。


「僕も…景子さんの笑顔に癒されてますよ」


咄嗟だった。照れていた。

でも、それが真実だった。どこにも嘘はなかった。


すました美人の仮面がふっと外れ、彼女はまるで春の陽射しのような笑顔を見せた。


頬が紅潮し、「やだぁーもう・・・」と言葉もそこそこに店の扉へと駆けていく。

その背中は、夜の闇よりずっと明るかった。





第三章 笑顔と三人前


カッフェ・ノッテの夜って、ちょっとだけ空気が緊張してる。


照明は低くて、カウンターの色もカフェ・ブルームより濃い。


座ったときの“無言の視線の圧”みたいなものが、

ちょっとだけ背中に張りつく。


景子が厨房の奥で、大きめの皿にカルボナーラを盛っていた。


盛りすぎだろ…って思ったけど、何も言わずに黙って受け取った。


目の前に置かれた皿は、冗談みたいに三人前くらい盛られていて、

湯気がむわっと顔にかかった。


「今日は、食べきれますか?」


八の字眉で、景子が笑う。

口角だけじゃなくて、目の奥まできちんと笑ってる。


でもどこか、“ためしてきてる”空気が混じっていた。


僕は黙ってフォークを持ち上げる。


ひと口目でわかった。味は、たぶん前と同じ。


でも舌に残るソースの濃さより、

彼女が笑った後に残った沈黙の方が濃かった。


厨房の奥で、コックの栄一くんがこっそり目配せしてくる。


カウンター越しの“雰囲気づくり”が、どこか完成されすぎていて、

逆に笑えなかった。


景子の“演出”は自然で、けれどその自然さは舞台装置みたいで。

僕はそのまま、三人前を食べきった。


皿が空になった頃には、なぜか胃よりも胸が重かった。


なんで黙って食べたんだろう、って。


でもその時、ほんの少しだけ思った。

“景子とこの店に通うのも、悪くないかもしれない”って。


でも、それは沙織の手の記憶が薄れたわけじゃない。


むしろ、その夜のカルボナーラの味は、

今も沙織の笑顔といっしょに舌の奥に残ってる気がする。




第四章 振りかざされた沈黙


カフェ・ブルームの前を通ると、なんとなく足が止まる。


昼の光が差し込むガラス越しに、

カウンターの椅子がぽつんと並んでいるのが見える。


あの席に、沙織がいないだけで、

店の空気がまるで別の場所みたいに感じる。


沙織の相方のばばっちが新聞を差し出した。


白黒の活字のなかに、小さな衝撃が詰まっていた。


通り魔。コンビニ帰り。手で受けた刃物。

中指の神経が切れたという。


「沙織、通り魔に遭ったんだって。手、ちょっと切ったらしいよ。

まあ、命に別状はないけどね」


軽い口調だった。冗談みたいに聞こえたけど、僕は笑えなかった。


コーヒーの香りだけが、以前と変わらず漂っていた。


僕は、ただひとつ言った。


「沙織さんによろしくお伝えください」


ばばっちは、少し間を置いて笑った。


「ヨロシクオツタエクダサイ?は?」


それが挨拶か。それしか言えないのか――

声には出さなかったが、彼の表情がそう語っていた。


その時、僕は気づいた。

恋にはいつの間にか“観客”がいる。


そして、“何もしなかった人間”への冷たい視線も。


それから、僕は毎日のように店に通った。


何を注文したかは覚えていない。

たぶん、コーヒーか、ミートソースか。


でも、目的はそれじゃなかった。


沙織が戻ってくるかもしれない――

ただそれだけの理由で、あの席に座り続けた。


メールも送った。


「元気ですか?」


それだけ。何度も書き直して、結局その一文だけにした。


“励ましたい”とか“心配してる”とか、

そういう言葉は、なんだか違う気がした。


店のライトが少し暗くなった気がした。

ばばっちも、いつもより静かだった。


カウンターの木目を指でなぞりながら、僕は“何か”を待っていた。

でも、それが何なのかは、よくわからなかった。


守りたいと思った。


でも、何を守るべきなのか、どうすれば守れるのか――

その答えは、どこにもなかった。


何も掴めず、指の間から水のように流れ落ちていく感覚だった。


ただ、沈黙だけが、店の中に漂っていた。


それは沙織の不在よりも、

僕の中にある“届かない気持ち”の形だった。




第五章 花束の余白


沙織が店に戻ってきたのは、思っていたよりずっと早かった。


ばばっちから「今日いるよ」と聞いて、

何も考えずにカフェ・ブルームの扉を押した。


カウンターの奥で豆を挽いていたその姿は、

少しだけ痩せたように見えた。


「久しぶりです」


僕が手を振ると、沙織は少し驚いた表情になって、

笑って、ハイタッチしてくれた。


その感触は、以前と変わらなかった。


何か言いたいことはあったけど、

結局なにも言えないまま店を出た。


帰り道、花屋の店先で白い花が目に留まった。


守ることはできなかったけど、

どうにか元気づけてあげたいと思った。


気づいたら両手で抱えるほどの花束を包んでもらっていた。


翌日、花束を届けた。

メッセージカードに「復帰おめでとう」とだけ添えて。


後日、沙織からメールが届いた。


「花、ありがとうございました。びっくりしました。

でも嬉しかったです」


文面は短くて、優しい。

でもどこか、“丁寧すぎる”気がした。


あの距離感が、少しだけ変わった気がした。


彼女はまたカウンターに立っていたけど、

笑顔の奥に、何か演じているような気配が残っていた。




第六章 沈黙の返答


その夜、カッフェ・ノッテで、窓際に席を取った。


景子がエスプレッソを持ってきて、僕の前に座った。


誰も他に客はいなかった。

厨房の奥も静かだった。


「沙織に、お花あげたんですね?」


言葉の切れ端が、思ったより鋭かった。


僕はうなずいただけだった。


「励ましたくて、ただそれだけです」


そう言ったけれど、

本当にそれだけだったのか――

少し迷いながら言った。


景子は少し間を置いてから、

俯いたまま言った。


「私じゃ、ダメかな…」


その声の温度が、妙に静かだった。


僕の中で、言葉がいくつも生まれては消えた。


何を選んでも、誰かを遠ざけてしまう気がして、

指先まで強張った。


何か回答を求められるのが怖かった。


不自然であろう表情を悟られまいと、

彼女から視線を反らし、俯き気味に構えた。


苦味が喉の奥に残って、

声を塞いでいくようだった。


“答えなかった”という選択が、

彼女に何を伝えたのか――

それは、ずっと後になってもわからなかった。




第七章 噛み合わない優しさ


沙織がカッフェ・ノッテに来た日。


ばばっちが体調不良でブルームはお休みになり、

急きょノッテの方にヘルプに来たと聞いた。


厨房に並ぶ景子と沙織の姿は、

思っていたよりも自然だった。


だけど、僕の中では

何かがずれていく感覚があった。


ミートソースパスタを頼んだ。


“普通”でいいと思った。

何も目立たなくていい。


でも、フォークを口に運ぶたびに味がしない。

何かを誤魔化して食べてるみたいだった。


食後、景子が店の外で言った。


「山崎さんが、私の笑顔に癒されてるって

言ってくれたこと、嬉しかった。

沙織にも話しちゃった。」


「えっ?沙織さんに?」


足元が、少しぐらついた気がした。


その一言で、何かが決定されたような感覚。


沙織との関係が、

もう誰かの手によって“締め切られた”ような。


景子の顔は、晴れやかだった。

でもその笑顔が、妙に開き直っているようにも見えた。


急に距離が縮まった気がして、パニックだった。


“癒された”なんて言葉が、

こんなふうに使われるとは思っていなかった。


「沙織は真面目だから。山崎さんは、お客さんだし」


その言葉は、僕を誰かの“枠の外”に押し出すようだった。


僕は何も言えず、ただ頷いた。


そして景子は続けた。


「私、今月で辞めるの。

だから、もうお客さんじゃなくなる。……デートしよ?」


その声は、明るくてまっすぐで、

すこしだけ怖かった。


僕は「いいよ」と答えたけど、

それは選択というより、反射に近かった。


景子が残した言葉と笑顔が、

空気の中でずっと響いていた。


そしてその夜から、

僕は沙織の目を見ることができなくなった。




第八章 トドメの記憶


約束通り、僕は景子と会った。


沙織のことが、心のどこかでずっと引っかかっていた。

でも、目の前の彼女の笑顔に、その思考は徐々に薄れていった。


「私の家でコーヒーでもどうですか?」


彼女の瞳には、何かを手に入れようとするまっすぐな強さがあった。

僕はその瞳に必要以上に抗わなかった。


景子の部屋は、外の雨音よりも静かだった。

最初はソファに並んで座り、コーヒーは出てこないままテレビを眺めていた。

内容は覚えていない。


ふと、景子が笑った拍子に肩が触れた。

それを、どちらも引かなかった。


「沙織って、優しいよね…」

そう言って、景子は僕の手を取った。

その瞬間、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。


ここに来た理由は、景子が望んだからなのか、

自分が逃げ場を求めたからなのか――答えは出なかった。


キスは自然に、でも予想以上に早く訪れた。

その後は、会話が薄れていくのと同じくらい、距離がなくなっていった。


関係を持った後、景子は毛布を肩まで引き寄せ、僕の胸に額を預けた。

呼吸は落ち着いていて、何かを確信したような安堵があった。


一方、僕は天井を見つめながら、自分の鼓動の速さを持て余し、

今の自分がこの場所に到ってしまった道程を思い返していた。


何かを手に入れたはずなのに、どこか取り返しのつかない地点を越えてしまったような感覚があった。


沈黙が、部屋を支配していた。

景子は目を閉じ、僕は目を開けたまま――同じ沈黙でも、たぶん違う色をしていた。




後日、カフェ・ブルームで、ばばっちが言った。

「沙織、身を引いたよ」


その一言で、体の奥に冷たい刃が差し込まれたようだった。

鳩尾あたりから、何かを静かに抉り取られる感覚。

息が浅くなり、しばらく言葉が出なかった。


“誰かがそう言ってた”という伝え方だった。でも、それだけで十分だった。


「山崎さん、優しい人だから――

 景子が幸せになるなら、それでいいって。沙織、そう言ってたらしいよ」


僕はその言葉を、うまく処理できなかった。

優しさって、誰かを守るためにあるのに、

それが“誰かへの最後の一撃”になってしまった気がして――苦しかった。


景子は、あの夜のことを沙織に言ったんだと思う。

それが“譲るため”の報告だったのか、“切り離すため”だったのかはわからない。


でも、沙織が“もう引くよ”って言ったとき、

それは彼女にとっての“優しさ”だったのか、“諦め”だったのか――その境目は、今も僕の中で形を持たないままだ。




最終章 届かない問い


誰も悪くなかった。

景子も、沙織も、そして僕自身も――

それぞれが、ただ誰かを想っていただけだった。


でも、それぞれの優しさが、少しずつずれて、

誰かを遠ざけ、誰かを傷つけていった。


「選ばなかった」という行動は、

誰かを“守らなかった”という結果になる。

それを知ったのは、ずっとあとになってからだった。


いまでも、あの時のことを思い出す。

沙織の花束に添えた言葉。

景子の「私じゃ、ダメかな」という声。

あの夜の沈黙。

あれらすべてが、僕の中でまだ答えを持たないまま、残っている。


優しさは、本当に誰かを守るためのものだったのか。

それとも、自分が傷つかないための盾だったのか。


傷つく勇気が持てていたら、誰かを守ることができたのだろうか。


答えは、もう届かないかもしれない。

それでも、あの時のふたりの姿は、

今も僕の中で静かに揺れ続けている。


僕は、その揺れの中で問い続けている。


“あの時、本当は、何を守ろうとしていたのか”と――


(おわり)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ