寄付コンテスト
広場の中央に、白い箱が立っていた。
四角い。真っ白。
昼も夜も、変わらずそこにいる。
誰が作ったのか、誰も知らない。
ただ、人々は毎日、箱へ何かを投げ入れた。
硬貨、紙幣、宝石、髪の毛――
理由は問われない。
街は寄付に満ちていた。
寄付のために働き、寄付を語り、寄付に祈る。
スピーカーからは優しい声が絶えず流れてくる。
「今日も寄付をありがとう。
あなたの善意が、この街を守っています。」
ビルの壁には巨大な横断幕が揺れていた。
金色の文字が、夕陽を反射して目を焼く。
「寄付せざる者、あらずんば在らざるに同じ。」
人々はその言葉を見上げ、静かに頭を垂れた。
誰も声を出さない。
ただ、胸の奥でその言葉を唱える。
まるで古代から伝わる呪文のように。
広場の掲示板には、昨日集まった寄付額が赤く光って表示されていた。
その下に、笑顔の写真と、黒く塗りつぶされた顔写真が並ぶ。
誰もその黒い影については語らない。
ただ、視線を逸らして通り過ぎるだけだ。
⸻
夕暮れ時、街角に赤い紙が貼られた家があった。
紙にはたった一文字――「欠」。
それは寄付不足を意味する印だった。
その家は一晩で、跡形もなく消える。
人々は翌朝、何もなかったかのようにそこを通り過ぎる。
⸻
レンはその紙を、母と一緒に見つめていた。
彼らの家の扉に貼られていたそれを。
母は弱々しく笑った。
「きっと、すぐに剥がせるわ」
その声は優しかったが、震えていた。
レンは答えられず、ただ頷いた。
家の中は薄暗く、冷たい風が隙間から忍び込んでくる。
テーブルの上には、昨日のスープがそのまま冷めていた。
スプーンの柄に、白い花びらが一枚、落ちている。
レンはそれを指先で摘み上げた。
母と一緒に広場で拾った花びらだった。
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夜。
母が咳き込む音が止まらなかった。
レンは布団を握りしめ、眠れぬまま朝を迎えた。
病院の窓口は、白い光に包まれていた。
無機質な光。冷たい匂い。
受付の女性は無表情で、書類を机に置いた。
「寄付が足りません。治療はできません」
レンは財布を差し出した。
ありったけの硬貨と紙幣を並べる。
「これじゃ……だめですか」
「不足です」
機械のように返される言葉。
その冷たさに、レンの喉が乾く。
「でも……母は、もう……」
受付は首を横に振るだけだった。
その後ろで、群衆が寄付証明書を掲げて叫んでいる。
「昨日はこれだけ寄付したんだ! 見てくれ!」
「我が家は毎月、目標額を超えている!」
それは誇りの証明だった。
だがレンには、ただの呪いにしか見えなかった。
⸻
レンはミナに導かれて、街の外れの小さな丘に立った。
遠くに広がる街の灯りは、赤と金に輝き、白い箱の影が、まるで夜空に浮かぶ星のように見えた。
ミナは静かに言った。
「覚えてる? 子どものころ、箱ごっこして遊んだこと」
レンは指先で空中をなぞる。
幼い頃、二人で拾った白い花びらを木箱に入れた記憶。
あの時、二人は何も知らずに笑っていた。
「はい、寄付するよ」
「ありがとう。これで街が守られるんだ」
風に溶ける声。
レンは思わず笑みを浮かべたが、すぐに消えた。
⸻
「ねえ、レン。お金がなくても寄付できる方法、知りたい?」
レンは頷く。
胸がざわつき、手が震えた。
「自分を、寄付するの。
そうすれば、家族や友達に、たくさんのポイントが与えられる。
病気だって治せるし、赤い札も消える」
レンの目が見開かれる。
風が強く吹き、丘の草が揺れた。
月光に照らされたミナの表情は、穏やかで、悲しげだった。
「でも……寄付した人は?」
ミナは沈黙した後、静かに答えた。
「帰ってこない」
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レンは手の中の花びらを握りしめた。
小さく震えながら、目の奥に幼い日の二人の笑顔が浮かぶ。
街の灯りが遠く揺れる。
白い箱の存在が、冷たく光っていた。
⸻
祭りの日、街は光と音に包まれていた。
赤と金の旗が風に揺れ、群衆の声が空を震わせる。
白い箱は中央に鎮座し、月光に照らされ、生き物のように光っていた。
司会者が叫ぶ。
「今年最大の寄付は――匿名!
すべてを捧げる寄付です!」
歓声が夜空を裂き、花火が打ち上がる。
群衆は手を叩き、声を張り上げる。
誰も、何を失ったかなど気にしない。
⸻
レンは群衆の中でミナを見つけた。
彼女は笑っている。
幼い日の花びらを握りしめたまま。
その笑顔の奥には、わずかな悲しみが潜んでいた。
レンは一歩前に出る。
胸の奥で、母とミナを守る決意が燃えた。
白い箱の前に立つと、群衆の歓声は遠くなる。
月光が箱の蓋に当たり、暗い穴が口を開ける。
レンは手を伸ばす。
白い花びらを一枚、箱に落とす。
そして、自分の体を――心を――差し出す覚悟を決めた。
⸻
箱は静かに光り、レンの足元から手へ、体へと吸い込むように呼ぶ。
風が巻き上がり、群衆の声は遠く、低く、音楽のように変わる。
花火の光がレンを照らす。
その瞬間、街の灯りの色が赤から金へと移ろい、白い箱がすべてを覆った。
レンの視界に、母の笑顔が浮かぶ。
そして、ミナの瞳。
彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
レンは目を閉じる。
静寂と歓声が交差する中、手も足も、体も、意識も――溶けていく。
⸻
群衆の歓声が消えた瞬間、白い箱の蓋がゆっくり閉じられる。
暗闇の中で、わずかに聞こえる音――
泣き声か、笑い声か、それとも――
誰にもわからない。
⸻
街は静まり返った。
昨日の熱狂は、風に溶け、空気に染み込んだまま、誰の記憶にも残らない。
ポスターの中の笑顔は、色褪せず、輝き続ける。
ミナの瞳も、少年の姿も、まるで永遠にそこにあるかのようだ。
レンはもう、誰の目にも映らない。
けれど、白い箱の中で、微かな鼓動が響く。
泣き声か、笑い声か、それとも――
誰にもわからない。
⸻
丘の風が、街をそっと撫でる。
小さな白い花びらが一枚、レンの記憶から零れ落ち、
ミナの手にそっと触れる。
彼女は一瞬、目を伏せる。
でも、声は出さない。
笑顔だけが、そこにある。
⸻
街の中央、白い箱は今日も立っている。
光を反射し、影を落とし、何も語らずに人々を見つめる。
箱の奥から、小さな音が絶え間なく響く。
それは誰かの祈りか、悲しみか、喜びか――
風と混ざり、街の空気に溶けていく。
レンの存在は消えても、
彼が守った母も、幼馴染のミナも、
街の記憶の中で、かすかに息づいている。