風の吹きまわし
その日は朝から、いつもとは違う風が吹いていたように思う。
朝の食卓につくと、いつもは半熟の目玉焼きの真ん中を箸で突き破ってから食べる父が、白身から黄身の周囲を丁寧にくり抜いてから口に運んでいた。どういう風の吹きまわしであろうか。
ちなみに父の右のほっぺたにはそこそこ大きなほくろがあって、その中心からは一本の毛がにょろりと生えている。わたしはそれを「父が目玉焼きの目を突きすぎてきたことによる呪い」であると考えてみたりもしてきたのだが、だとしたら今朝のような食べかたを続けていればほくろが丸ごとぽろりと剝がれ落ちる日がじきに来るのかもしれない。ほくろを黄身、その周辺の地肌を白身に見立てるとそういうことになるのだが、あるいはそういう明確な狙いを持って、父が風を吹きまわしているのであろうか。
母は母でこの日からはその材料をいつもの白い殻の卵ではなく、こっそりとレンガ色の卵に変えていた。その違いはもちろん、実際にその殻を割った母にしかわからない。とはいえそれを知っている母自身でさえ、いくら味わってみても両者がどう違うのかはさっぱりわからないのだった。そして母がそれを知ったうえでなお卵の色を変えていたのだとしたら、これはいったいどういう風の吹きまわしであろうか。
そういえばわたしの幼少期、寝る前に母はよく『三匹の子ぶた』の絵本を読み聞かせてくれた。そして話が終盤に差しかかると決まって母は、「レンガの家って、そんなに丈夫なのかしら?」と呟いていたものだった。といってもそれを聞かされているわたしのほうは、藁の家に続いて木の家までもがオオカミに吹き飛ばされてしまったあたりですでに眠りに落ちているのだが、しかし母のこの言葉だけはこれが睡眠学習というものなのかなんなのか、強く記憶に残っている。
だとすれば母は割る卵をレンガ色に変えることによってレンガの強度を確認しておきたいとでも思ったのか、あるいはレンガをもぶち壊せる自分こそがオオカミよりも強いのだ、オオカミなんて怖くない、と確信してみたかったのか。いずれにしろ母はそういった自らの強い意志によって、風を吹きまわしているのかもしれなかった。
いつもどおり一番遅く起きてきた高校生の姉は、当然のように準備に大わらわだ。にもかかわらず姉が目玉焼きにいつもの醤油ではなく、わざわざ自らの通学鞄から取り出した卓上サイズの新品を開封してまでソースをかけたのは、どういう風の吹きまわしであろうか。
姉は口の端をソースで汚しながら朝食をかき込むと、そのまま蓋をしたソースを自然と鞄に戻して家を出ていった。しかしそこまでして、この先いったい何にソースをかけるつもりなのか。母が作った弁当に入っている何かにかけるつもりなのかもしれないが、だとしたらいまかけていけば済む話ではないのか。むろん食べる直前にかけたいという程度のこだわりはあるかもしれないが、それは対象ができたてのあつあつでなければ有効でないような気もする。
しかしこのように狭い考えでは、自由に吹いてまわる風など摑みようがないだろう。もう少し食べ物から離れて考えてみれば、姉は近ごろしきりに髪を染めたいとこぼしていた。しかし姉の通う高校では、校則により染髪は禁止されている。
だが教師はなにをもって生徒が髪を染めたと言い切れるのか。それが染料によって染められたのであれば間違いなく染めたことになるはずだが、たとえばソースによって染められた場合、それはある種の「汚れ」と見なされるのではないのか。ソースというのは不思議なもので、食べ物にかけた場合にそれを「汚れ」とみなす者はいないが、服や身体に付着した場合それはたちまち「汚れ」ということにされてしまう。
ならばそれを逆手にとって、髪についたソースを「汚れ」と言い張ってみれば通るのではないか。髪を染めてはならないという一方で、身体についた「汚れ」を取らなければならないという校則はないのだから、授業中どんなに香ばしい匂いを周囲に振りまいていたとしても、髪を洗わないことによって停学などの処分を喰らうことはないに違いない。
姉はそのように考えた結果として鞄にソースを忍ばせているのかもしれず、だとしたらこれもまた姉が自ら吹きまわしている風ということになる。
さてわたしはこれから、どんな風を吹きまわしてやろうか――。そんなことばかりぐるぐると考えているうちに、わたしは大いに朝のレースから出遅れてしまった。このままでは世紀の大遅刻になってしまう。
しかしこういうときは、他人が吹きまわしている風に次から次へと乗って乗って乗り継いで、風に背中を押してもらいながら錐揉み状に進むことだ。風はそこらじゅうどこにでも吹いているのだから、それに乗らない手はないだろう。わたしは家族の中で唯一、風を吹きまわす側の人間ではなく、風に吹きまわされる側の人間であるのではないかと思った。