第二章 ep.4
孤児院から帰って自宅に戻ったミレイユは、胸に渦巻く感情をどうしても吐き出したくて、勢いよく父の執務室へ飛び込んだ。
「お父様ーっ!」
「ミレイユ? 孤児院に行っていたのでは?」
父は驚いた顔で書類を置き、すぐに立ち上がる。
ミレイユは、何も言わずにふくよかな腹に飛び込んだ。
怒りでも悲しみでもない。けれど、心の中がぐちゃぐちゃだった。
使命感と無力感。知識のなさに対する悔しさが波のように押し寄せてきて、自然と涙があふれていた。
訳もわからず泣き出す娘に、父は目を見開いた。
(……孤児院で何か辛い事があったんだろうか…。)
動揺しながらも、娘を膝の上に乗せ、背中をとんとんと優しく叩いてなだめる。
しばらくして、ミレイユがぽつぽつと話し始めた。
「……思っていたよりも、孤児院はずっと大変で。今日持って行った石鹸の使い方も、ほとんどの子が知らなかったんです。
“なんで手を洗うの?”って聞かれて、私、“菌を落とすため”って言ったんだけど……今度は“菌ってなに?”って聞かれて……。ソフィアが助けてくれたけど、私……もっとちゃんと説明できるようになりたいって思ったの……」
父は静かに話を聞いていたが、ふと「ふぅむ……」と唸った。
「私もてっきり、伝染病の流行が収まったことで、石鹸なんてもう普及しているものと思っていたが……。
ミレイユ、気づかせてくれてありがとう。自分の知識の足りないと感じて悔しかったんだね。」
そう言って、大きな手でミレイユの頭を撫でた。
予想していなかった優しい反応に、ミレイユはぽかんと口を開けてしまう。
そして、父はミレイユを膝から下ろし、大袈裟に両手を腰に当てる動作をする。
「さて、ミレイユ。今日のことを踏まえて、君は何がしたい?」
やけに乗り気に見える父に、少し困惑しつつもミレイユは言った。
「孤児院の子どもたちに、教育を受けさせたいです。
読み書きや計算ができるようになって、自分で知識を得られるように――」
父は、どんと胸を叩いた。
「よし、まずは手の届くところからだ。うちの使用人たちは、好きに使いなさい。
うちは小さな領地だ、少しくらい手が減っても回るさ」
そう言って、豪快に笑った。
「ありがとう、お父様!」
ミレイユは、再度、そのふくよかなお腹に飛びつき、その温もりに笑顔を取り戻すのだった。
◆
あれから――
ミレイユと父、そしてレクトゥリス孤児院の院長マチルダとの話し合いを経て、まずは週に二回、レオールとソフィアが孤児院で午前中の授業を行うことが決まった。
ミレイユも毎回同行し、レオールやソフィアから「人に教える技術」を学びながら、子どもたちと同じ目線で過ごした。
授業は、数字の認識から始まった。
子どもたちは買い物の経験などで数字の感覚はあったが、それを“文字”として結びつけるのが初めてだった。
レオールは持参したトランプを使い、指を使って数字を数えさせたり、10の組み合わせを見つけるゲームをしたりと、遊びながら楽しく学べるよう工夫した。
トランプは、文字と数字が一緒に書かれているため、読み方を覚えるにもぴったりの教材だった。
文字の授業では、まず「自分の名前」を書くことから始めた。
ソフィアは一人ひとりの名前を聞いて、目の前で丁寧に紙に書いてみせた。
次に「お互いの名前を書けるようになろう」と提案し、教え合いの時間を設けた。
ミレイユも積極的に輪の中へ入り、子どもたちの名前を覚えようと走り回る。
中には「ミレイユ様のお名前の文字も教えてください!」と、嬉しそうに声をかけてくる子もいた。
子どもたちは、最初に見せていた陰のある表情を忘れたかのように、学ぶことに夢中になっていた。
――半年後。
基本的な読み書きや計算ができる子が増え、年下の子どもたちに教える姿も見られるようになった。
これを機に、基礎の授業はその子たちに任せ、意欲のある子には少し難しい内容を教えることにした。
「絵本を読んであげたい」
「働きに出るとき、計算ができた方がいいと思った」
――そんな声が子どもたちの口から自然とあがるようになった。
ミレイユが寄付した紙芝居や絵本は自分で読んだり、子供達に読み聞かせをする等で大人気教材である。
次第に子どもたちは“今を乗り切るため”だけでなく、“未来の自分”を思い描くようになっていった。
そろそろ寒さが堪える季節になろうとしていたので、
繕い物が得意な子どもたちが集まり、古布を使ったパッチワークのブランケットを手作りした。
中に詰めた綿は、温かさだけでなく“想い”も一緒に込められていた。
それは、子どもたちからマチルダへの贈り物だった。
ブランケットを受け取ったマチルダは、感激で言葉もなく、その場で子どもたちを一人ひとり抱きしめた。
――1年後。
孤児院から手伝いに来ている子や、買い物に来ている子を見た領民達がある事に気づいた。
「うちの子より、この子の方が字も計算もできる……」と。
その噂はすぐに広まり、ブレネ領のあちこちから「うちでも教えてほしい」という声が届くようになった。
しかし、すべての場所に通うのは難しく、当初は断らざるを得なかった。
けれど、住民たちの熱意は消えず、ついにブレネ男爵が動いた。
「商会の定期会合にしか使われていなかった集会所を、週に一度開放しよう」
そうして始まったのが、“誰でも参加できる読み書き・計算の学び場”だった。
講師は、レオールやソフィア、そして孤児院の子どもたち。
教える内容は集会所前の掲示板に貼り出され、気になる内容の日だけ参加するという自由な形式をとった。
最初こそ文字が読めない人のために、口伝でも情報が広まるよう工夫が必要だったが、徐々に「掲示板を読める人」から輪が広がり、毎回会場は大賑わいとなった。
そして驚くことに――
参加者の多くは、“大人”だった。
「孤児に教わるなんて……」と苦々しく言う者も現れたが、レオールがぴしゃりと一言。
「今のあなたより、彼らの方が知識を持っています。嫌なら来なくて結構です。」
その毅然とした言葉に、やがて文句を言う者もいなくなった。
やがて、こんな人々も現れるようになった。
「店に伝わるメモ、ちゃんと読み書きできるようになって見直してみたら、ちょっと違ってたよ」
「最近、帳簿が合わなくてさ。レオールさん、計算を見てもらえないか?」
「孤児院、ボロいよな? 今度補強しに行ってやるよ」
――ブレネ領の人々は、互いを“支える”ようになっていった。
そして、ミレイユが九歳になった年。
集会所での学びと交流は、ブレネ領に“助け合い”の風を吹かせていた。
計算ができるようになった者は商会の手伝いを始め、衛生意識や金銭感覚の向上によって、領民の暮らしは少しずつ――しかし着実に変わっていった。
こうしてブレネ領は、わずかながらも「豊かで、温かい場所」へと成長を遂げていた。
その噂が王都にも届いたのか、ある日、ブレネ男爵宛てにルサリエル公爵家の紋章入りの手紙が届く。
文面は、簡潔だった。
『ブレネ男爵
貴殿が力を注いでいる“民への教育支援”について、お話を伺いたい。
一度、ルサリエル家まで足を運んでいただけないだろうか。』
――そう書かれていた。
「ミレイユ、ルサリエル公爵が支援について話を聞きたいそうだ。一緒に行こう。」
突然の知らせに、ミレイユと父は急遽、ルサリエル公爵家を訪れることになったのだった。
「おお、よく来てくれたな、男爵。急に呼び立ててしまってすまなかった。」
「いえ、突然ではありましたが、ルサリエル公爵閣下のお声がけとあれば、すぐに駆けつけますとも。」
「ここは公の場ではない。気を張らずに楽にしてくれ。――どうぞ、座ってくれ。」
父と話している大柄なこの男性こそ、国王の“左腕”と称される武門の名将――レオンハルト・ルサリエル公爵。
プリメリアの父であり、ミレイユにとっても前世を含めて初めて対面する“本物の重鎮”だった。
「領地で行っている支援に興味があってな。詳しく話を聞かせてもらいたいと思ったのだが……ご令嬢も同行とは?」
公爵がミレイユの方へ視線を向けた瞬間、背筋に緊張が走る。
まるで肉食獣に睨まれたような、そんな圧を感じた。
「いえ、実はこの支援、発案者は娘でして。現地での指導も、使用人たちとともにこの子が主導してきました。」
「なんと……! 貴殿の娘が? それならば話は早い。」
驚いた公爵はふっと口元を緩め、側に控えるメイドへ声をかけた。
「――あの子を呼んできてくれ。」
そしてミレイユに向き直り、先ほどよりも穏やかな笑みを浮かべる。
「実はな、最初にこの話に興味を持ったのは、うちの娘のほうでね。
“ぜひ取り入れたいから、詳しく話を聞いてきて”と頼まれていたんだ。
……まさか発案者が君だったとは、驚いたよ。」
「ありがとうございます……! まだまだ未熟で、父や使用人の皆に助けてもらってばかりですが、そう言っていただけて光栄です……」
地位ある人に褒められるというのは思った以上にくすぐったく、心がそわそわと温まっていく。
「……君は若くして注目を集める器を持っている。だがその分、妬みや嫉みを向けられることもあるだろう。
どうか、自分の信じる道を見失わずに歩みなさい。
他人の言葉に惑わされ、信念を曲げれば――きっと後悔することになる。」
ルサリエル公爵の声は、厳しくもあたたかかった。
ミレイユは小さく頷きながら、その言葉を心に刻んだ。
その時、コンコン、と扉がノックされた。
「お父様、プリメリアです。」
「入りなさい。」
入って来たのは、以前のお茶会のときよりも少し大人びた姿になったプリメリアだった。
ミレイユの姿を見つけると、驚いたように目を見開く。
「ブレネ男爵、ご機嫌よう。それにミレイユ嬢も。二年前のお茶会以来ですわね。」
「面識があったのかい?」と公爵が尋ねると、プリメリアは「お母様のお茶会で一度お会いしました」と答えた。
プリメリアが公爵の隣に座ると、話は本題へと移っていく。
「この前、君が気にしていた貧困支援の件だが――。
実は、ブレネ男爵令嬢が発案し、現地での実施も担っていたのだ。」
「そうなんですか!?」
「良い機会だ。色々と話を聞いてごらん。君と同じ年くらいだしな。」
プリメリアは目を輝かせてミレイユの方を見つめた。
「すごいですわ、ミレイユさん! ぜひ、詳しく聞かせてください!」
「え!?は、はい!」
そう言って手を引かれたミレイユは、そのままプリメリアの部屋へと案内された。
ルサリエル公爵は、2人の姿を微笑ましく見送り、そしてふと男爵の方へ視線を戻す。
「……すまなかったな、ブレネ男爵。あの子があんな子供らしい顔を見せるのは、久しぶりでね。
仲良くなれれば、いいのだが。」
「プリメリア様は五歳のときから王妃候補に選ばれたお方。
大人びた雰囲気でしたが、確かうちの娘と同い年でしたな。あの様子なら、きっと大丈夫でしょう。」
民を想う者同士、気が合うと思いますぞ、と男爵は冗談ぽく言った。
「はっはっは。男爵は肝が据わっているな。」
ルサリエル公爵は笑いながらも、すぐに話を切り替えた。
「――さて、実は個人的にも聞きたいことがあってな。最近、相棒が少し疲れているようでな。
根を詰めすぎている気がして、何か元気が出るものでも贈りたいのだが……ブレネ殿、疲労回復に効く品で何か心当たりはないか?」
それを聞いたブレネ男爵は、誰のことかすぐに察し、少し驚いたような表情を浮かべた。
「あの方が疲れを見せるとは……。そうですね…何種類かありますので、いくつかご紹介させていただきましょう。」
こうして、大人たちは静かに商談の話へと入っていった。
一方、子供たちはというと。
プリメリアは目を輝かせ、次々と質問を投げかけてきた。
「どうして支援をしようと思ったんですの?」
「なぜ物資ではなく、教育を優先したのですか?」
「領民たちの反応は? ミレイユさん自身も授業に参加してるんですか?」
質問は次から次へと止まらなかったが、ミレイユは一つひとつ丁寧に答えていった。
ミレイユは、憧れの人に質問され、緊張しながらも頭をフル回転させていたので、細かなやり取りはあまり覚えていない。
だが、プリメリアの満足そうな笑顔を見て、伝えたいことはちゃんと届いたのだろう。
そして、あっという間に時は過ぎ、空が茜色に染まる頃。
ミレイユたちはルサリエル家をあとにし、静かな興奮と少しの疲労を抱えて、帰路についたのだった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます!
第二章が終わりました。前世では幼少期関わりのなかったミレイユとプリメリアでしたが、今世ではミレイユが行った支援のお陰で会うことが出来ましたね。
次回から第三章が始まります!次章からは時が流れ、ミレイユが学園に入園するところから始まります。
どうぞよろしくお願いします。
次回更新予定 2025/07/05/18:00〜