第二章 ep.3
お茶会から数日後、執事のレオールがミレイユの父に進言した。
「ミレイユ様のために、王国の基礎知識と教養を学ぶ機会を設けてはどうでしょう。」と。
こうして、“家庭教師が見つかるまで”の間、レオールが授業を担当することとなった。
もちろん、実際に家庭教師が雇われる予定などない。使用人たちは皆、仲間であり協力者だ。
貴族としての基礎知識は、ミレイユにとってすでに前世で得た知識がある。
その為、しばらくはレオールによるミレイユの地位を上げる為の本格的な授業が始まる。
その日のレオールは、いつもの燕尾服を脱ぎ、椅子の背にかけていた。
服の襟元をゆるめ、主の前では見せないような砕けた雰囲気で、何かの書類をじっと眺めている。
(顔は同じでも、仕草でずいぶん印象が違うのね……)
以前ソフィアに感じたのと同じことを、ミレイユはまた思った。
やがてレオールが顔を上げ、静かに口を開く。
「さて、ミレイユ様、貧困はなぜ起こると思いますか?」
突然の問いに、ミレイユは目を瞬かせた。
「え、えーっと……仕事がないから? それとも、給料が少ないとか? 急に言われても、よく分からないわ」
「なるほど」と、レオールは頷いた。
「では、まず貧困の主な原因をお話ししましょう」
そう言って、指を一本立てる。
「一つ目は、領主による搾取です。税が重すぎると、民は生きるための資源すら失い、地域全体が貧困に陥ります。ちなみに、ブレネ領は該当しません」
「二つ目は、農作物の不作。食料が足りなくなり、健康を損ねて働けなくなる。結果、収入が絶たれて貧困になる」
「三つ目は、身体や心、教育など、何らかの障害によって働けない場合ですね」
「もちろん他にも要因はありますが、代表的なのはこの三つでしょう」
「……教育がないと貧困になる、ってどういうこと?」
ミレイユは素朴な疑問を投げかけた。
「簡単に言えば、搾取されていても気づけないからです」
レオールは即答した。
「文字が読めなければ、何が売られているかも分からない。契約書が読めなければ、不利な条件でも働くしかない。計算ができなければ、相場より高い値段で物を買わされる」
「知識とは、己の価値を上げ、不当な条件を拒むための“武器”なのです」
その言葉に、ミレイユはふと父の姿を思い浮かべた。
旅商人として各地を巡り、見聞を広め、知識を武器にして貴族にまで登りつめた人――。
文字を読み、数字を理解し、必要なことを身につけて、自らの手で未来を切り拓いた父。
「……お父様って、やっぱりすごい人なのね」
ミレイユが小さくつぶやくと、レオールは肩を少しすくめて言った。
「もっと儲けようと思えば、まだまだやれる方ですけどね。最近はその“武器”を鞘に収めておられるようで」
「ううん、お父様はそういうところが素敵なのよ」
ミレイユはふふっと笑った。
その後も、レオールと共に「自分たちにできる貧困対策」について考えを巡らせていたが――
「ねえ、レオール。私、孤児院って行ったことないから、実際に何をすればいいのか、分からなくなってきたわ」
腕を組んで唸るミレイユに、レオールは静かに提案する。
「でしたら、まずは実際に見てみましょう。商人の基本は、相手の“需要”を見極めることですからね」
「先ずは貴族の施しという形で、食料を持って訪問してみるのが良いでしょう。旦那様にご相談してみます」
――その日の夕食時。
お父様が真剣な表情で、ミレイユに声をかけてきた。
「ミレイユ、レオールから、孤児院の支援をしたいと聞いた。本当か?」
「はい。授業で貧困について学ぶうちに、私も何かしてみたいと思ったんです」
しばらく黙っていたお父様は、やがてカラトリーを置いて頷いた。
「わかった。食料と石鹸を持っていくといい。私から孤児院に手紙も出しておこう」
「ありがとうございます!」
ミレイユは元気よく頭を下げ、その日の夕食を嬉しそうに頬張った。
そして――ついに、孤児院訪問の日がやって来た。
ブレネ領内にある「レクトゥリス孤児院」は、どこか寂れた佇まいをしていた。
傾いた屋根に、風が吹くたびガタガタと音を立てる窓。
初めて目にするその光景に、ミレイユは思わず息を呑む。
隣に立つソフィアが、小さくつぶやいた。
「……中々、管理が行き届いていないようですね。」
その声には、呆れよりも、深い憂いがにじんでいた。
ミレイユが扉をノックすると、ギィ、と軋む音を立てて開いた。
中から現れたのは、質素なドレスに白髪混じりの髪をひとつにまとめた中年の女性。
丸眼鏡が印象的で、どこか厳格な雰囲気をまとっている。
だが、ミレイユたちを見ると、ふわりと微笑んだ。
「ブレネ男爵令嬢様でいらっしゃいますね。ようこそお越しくださいました。院長のマチルダと申します。」
彼女はそう名乗り、ミレイユたちを客室へ案内した。
部屋は、建物の外観に比べて驚くほどきちんと整えられていた。
しかし、椅子やカーテンの縫い目に残る手作業の跡が、この部屋だけが丁寧に整えられていることを物語っている。
マチルダは温かいお茶を出し、自身も椅子に腰掛けた。
「このたびは、食料と石鹸のご寄付をいただき、大変助かりました。」
そう言って、深々と頭を下げる。
「いえ、こちらこそ急なお申し出を受け入れてくださって、ありがとうございます。
今日は……少し、お話を聞かせていただければと思って来ました。」
ミレイユは慌てて頭を上げるように促す。
こうした場での礼儀も、まだ前世から経験のないことばかりだ。
マチルダは「もちろんです」と頷き、丁寧に聞く姿勢を見せてくれた。
ソフィアと目を合わせながら、ミレイユは語りかける。
「孤児院や、貧しい領民の方々のことで、お困りのことがあれば教えてほしいんです。
何かお手伝いできることがあるなら……支援をしたいと思っていて。」
しばらくの沈黙のあと、マチルダは静かに立ち上がる。
「――実際に、ご覧いただいた方が早いかもしれません。
お嬢様、子どもたちと、会っていただけますか?」
◆
子どもたちが暮らす部屋の扉をくぐった瞬間、ミレイユは再び、言葉を失った。
薄暗い部屋の中。何人もの子どもたちが、それぞれ静かに動いている。
──古びた布を繕う少女。
針の動きは幼いながらも慣れていて、色褪せた服は継ぎ接ぎだらけだった。
──床を黙々と磨く少年。
肩を動かすたび、肉の薄い背中に肩甲骨が浮かび上がる。服もほつれており、関節の出っ張りが痛々しいほどだ。
──小さな子どもを膝に抱え、あやす少女もいた。
年はミレイユとさほど変わらないのに、その表情には疲れと諦めの影が滲んでいる。
──そして、部屋の奥。
粗末なベッドには、蒼白な顔をした子どもが寝ていた。
薄手の毛布の下、痩せた腕が震え、空気には薬草のかすかな匂いが漂っていた。
「……っ」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
誰ひとり、笑っていない。
けれど、誰ひとり、手を止めることもない。
生きるために――その一心で、黙々とやるべきことを続けている。
(……私、こんな世界を、何も知らなかった。)
数人がミレイユたちに気づき、駆け寄ってくる。
「マチルダ先生、お客さん?」
「ええ、そうよ。みんな、ご挨拶なさい。」
「こんにちはー!」
それは、貴族の作法からは遠く離れた、無垢な挨拶だった。
その瞳には、警戒、好奇心、そして羨望が入り混じっている。
ミレイユはその空気を感じ取り、少し緊張しながらも笑顔を向けた。
「こんにちは。私はブレネ家のミレイユ。
今日は、食料と石鹸を持って来たの。喜んでくれたら嬉しいわ。」
ミレイユがどれほど笑顔を作れていたかは、正直わからなかった。
けれど、「じゃあ、今日はパンとスープ以外にも出るんだね!」と、一部の子が嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえてきた。
その中で、一人の少女がミレイユの前に出てきた。
「……せっけんって、どうやって使うんですか?」
ミレイユは一瞬、言葉を失った。
石鹸の使い方――
そんなことすら、知らない子がいるなんて、想像したこともなかった。
「これは……手を洗うためのものよ。」
「手を洗う……?」
不思議そうに首を傾げる少女に、ミレイユは石鹸を一つ取り上げて言った。
「見せてあげる。こっちへ来て。」
子どもたちは興味津々で、水汲み場へとついてきた。
「食事の前にね、手をこうして泡で洗うの。
そうすれば、“菌”が落ちて、体調を崩しにくくなるのよ。」
両手を泡立てる仕草を見せると、子どもたちはじっと見つめていた。
やがて、ひとりがぽつりと尋ねる。
「……きんって、なに?」
ミレイユははっとし、固まった。
(あたりまえじゃないんだ……
この子たちは、本当に、何も知らないんだ。)
けれど、「菌とは何か」をうまく説明する言葉が見つからない。
そのとき、ソフィアがふわりと微笑んで助け舟を出してくれた。
「菌というのはね、ご飯を食べた後にお腹が痛くなったり、熱が出たりする元になるものですよ。
だから手をきれいにしておけば、そういうことが起こりにくくなるんです。」
「へぇぇ……!」
「じゃあ、こうやって、もこもこすれば、お腹痛くならないの?」
「すごい!」
子どもたちは目を輝かせ、泡立つ石鹸に歓声をあげた。
そのとき初めて、ミレイユはここで――
子どもたちの笑顔を見た。
けれど、胸の奥は重い。
(……ただ“知らなかった”だけなんだ。
それだけで、病気にもなるし、不幸にもなる。)
レオールの言葉がよみがえる。
――教育がなければ、搾取されても気づけない。
(本当に、その通りだわ……。)
彼らは、ミレイユの言葉ひとつで信じてくれた。
もし、間違ったことを教えていたら?
そのまま、間違いを“正しい”と信じて生きていったかもしれない。
(私がしっかりしなきゃ。
正しい知識を伝えることが、未来を守ることになるのだから――)
水汲み場から聞こえる「見て!ふわふわしてる!」「気持ちいい~!」という声に、ミレイユはそっと微笑んだ。
けれどその胸の奥では、自分の地位のためではない、
「誰かの未来を開くための支援をしたい」という、確かな想いが芽生えていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます!
自分自身、孤児院とはなんぞや、と思考をめくらせながら書いてありました。ミレイユが始めた支援が、巡り巡って子供達の未来に繋がるといいですね。
孤児院のシーンは私も結構ミレイユに感情移入しておりました。
【次回予告】
支援を開始し始めたミレイユ。その規模は徐々に大きくなっていって、領地が少しだけですが活性化します!
すると、ある一通の手紙がやってきてー??
次回更新予定 2025/07/03/18:00〜