第三章 ep.3
学園生活は、数週間のあいだ平和に過ぎていった。
ミレイユは特にトラブルに巻き込まれることもなく、黙々と勉学に励んでいた。
今は、召喚術の授業が始まるところだった。
広い講義室。生徒はまばらに座っていて、どこにでも自由に座れるような雰囲気だった。
ミレイユは少し早めに来て、重たい教材を机に置き、席についていた。
座ったのは手前の席。よく「意欲のある生徒が座る」と言われる位置だ。
授業の準備をしていると、不意に人影が覆いかぶさり、視界が暗くなった。
一向に動かないその陰に、なんだろうと不思議に思って顔を上げると――
「……あ、ブレネさん、ですよね……?」
そこには、入学してから一度も会えなかった、クラリス・ヴェルセーヌが立っていた。
(え!? どういうこと?)
ミレイユは、心の中で混乱していた。
驚いた表情の彼女に、クラリスは気に留めた様子もなく、穏やかに口を開いた。
「私、クラリス・ヴェルセーヌです。ブレネさんとは一度お話してみたかったんです。お隣、よろしいですか?」
ミレイユは何がなんだかわからないまま、「どうぞ」と言ってしまった。
周囲では、クラリスが名乗ったことで
「彼の方がヴェルセーヌ嬢?」「初めて見た。あの人が聖女様か」
と、ざわざわと囁かれ始める。
彼女の意図は分からなかったが、共通点があるとすれば、共に貧民支援に取り組んでいることくらいだろう。
クラリスは授業が始まるまで、ただ静かに、にこりと笑みを浮かべているだけだった。
何が何だか、とミレイユが混乱しているうちに、教授がやってきて、そのまま授業が始まってしまった。
教授は生徒たちが席についているのを確認し、口を開いた。
「本日は、簡単な召喚術を行い、自然界に住む精霊を呼ぶ授業だ。では、教科書の67ページを開きなさい」
その言葉が聞こえた瞬間、すべての生徒から教科書をめくる音がこだまする。
教科書の67ページには、《召喚の基本紋》という項目があり、召喚術の基本魔法紋とその説明が記載されていた。
※読まなくても大丈夫です!
⸻
「精霊は古代より、自然が豊かであればあるほど活発化すると言われている。
森の中、山、川など、とりわけ美しい場所は精霊の棲家、または加護がある地と認識した方が良い。
我々人間は長居しない方が得策と言える。精霊の声が聞こえる精霊師は例外だがな」
教授は淡々と説明を続ける。召喚の基礎とされる魔法陣も、なかなかに緻密だった。
何人かの生徒たちは、眉をひそめている。
「今回行う召喚は、自身の魔力を供給する代わりに力を貸してもらう方法である。授業以外での使用は禁止とする。では、各自準備をして庭へ出るように」
教授の言葉に促され、生徒たちは次々に席を立った。
ミレイユも席を立つと、待っていたと言わんばかりにクラリスが話しかけてくる。
「あの、ブレネさんのことは父から聞いていました。独自に貧困対策をしているって。
私も教会でお祈りや支援をすることがあるので、いろいろお話できるかなと思って。ずっとお会いしたかったんです」
にこにこと、まったく敵意のない様子で話すクラリスに、ミレイユの警戒心が少し解けそうになる。
「そうなんですか……。お会いするのは初めてなので驚きましたが、確かにそうですね」
ミレイユは、少し苦笑いを浮かべながら返事をする。
「お父様は私をとても心配してくださっていて、教会の巡礼くらいしか家から出られなかったんです。だから、お友達がいなくて……。私、ブレネさんとお友達になりたいんです」
そう言って、さっきまで横並びで歩いていたクラリスは、タタッと軽やかに歩調を早め、ミレイユの前に出た。
そして、ふんわり――そんな言葉がぴったりな、天使のような微笑みを浮かべて立ち止まる。
ミレイユもつられて、足を止めた。
「私でよければ、授業が一緒のときにでもお話しましょう」
その笑顔に警戒心が緩んでしまったのか、ミレイユは自然とそう口にしていた。
その言葉を聞いて、クラリスは今度は少女のような、あどけない笑顔を浮かべた。
「嬉しいです! よろしくお願いしますね?」
二人はそのまま雑談を交えながら、学園の庭へと一緒に向かっていったのだった。
庭に着くと、すでに数人の生徒が召喚魔法の実技に取り組んでいた。
教科書で見たかぎり、初級とはいえ魔法紋はなかなか複雑そうだったが、どうやら発動率は高いらしく、およそ八割の生徒が成功しているようだ。
庭の中央に立つ教授に声をかけ、魔法紋を描くための特別な紙を受け取る。
召喚の手順は、次のとおりだ。
まず、専用のインクに自分の魔力を込めて魔法紋を描く。
このとき、魔力量は最小限に抑えること。力を込めすぎると紋が暴走したり、いたずら好きな精霊が魔力を求めて召喚に応じてしまう可能性があるからだ。
少量の魔力に応えてくれる精霊は、人間好きか、この学園と契約している精霊だけなのだ。
描き終えたら、紋の外円に沿って静かに魔力を流す。
その流れが紋の中を巡ることで術式が起動し、自分にもっとも縁のある精霊が呼び出される――という仕組みだ。
ちなみに、魔力を多く込めて特定の精霊を召喚したい場合は、この基礎魔法陣にさらに呪文や文字を加えて、召喚対象を明確にしなければならない。
それは上級生や、召喚を専門とする者の領分であり、下級生には禁止されている。
ミレイユも過去の知識を総動員し、慎重に術式を発動させた。
すると、薄緑色の肌をした、15センチほどの人型の精霊を召喚することに成功した。
木属性の精霊だ。ミレイユの周りをくるくると舞い、小さなそよ風で彼女の髪をふわっと浮かせてくれた。
「ブレネさん、すごいですね。木属性の精霊です!」
クラリスは、ミレイユの精霊を見てはしゃいでいた。
それを見ていた教授も頷き、それが合格ラインであることを示していた。
ふとクラリスを見ると、彼女はまだ成功していないようだった。
「ヴェルセーヌさん、やらないんですか?」
気になって尋ねると、クラリスは少し困ったように眉を八の字にして頬を膨らませて見せる。
「中々、うまくいかなくて……。うーん……」
と、拗ねたように魔法陣を睨んでいる。
正確に描かれているように見えるけれど……と、ミレイユも首をかしげていたそのときだった。
「きゃーー!!」
突然、ただ事ではない悲鳴が上がった。
声の方を見ると、青白い顔で倒れている男子生徒、そのそばで怯えて座り込んでいる別の生徒、
そして皆の視線の先には――四つ足で大きな体躯、鋭い牙を持つ獣がいた。
倒れた男子生徒の近くで、魔獣は目に映るすべてに向かって威嚇していた。
「あの生徒、規定通りの魔力を流さなかったのか!!」
教授は憤りつつ、生徒たちのもとへ駆け寄ろうとする。
だが、魔獣と生徒たちの距離が近すぎる。
下手に動けば、死傷者が出る――。
そんな張り詰めた空気が場を支配していた。
誰もが息を呑み、魔獣の動きを見守っていた。
魔獣はゆっくりと辺りを見回し、そして――ミレイユの方を見て動きを止めた。
(なんで……。なんで、私の方を見てるの……?)
魔獣はミレイユを凝視しながら、グルル……と低く唸った。
その迫力に、ミレイユは思わず後ずさりし、靴と芝生が擦れる音がした。
その微かな音を合図にしたかのように、魔獣は一気にミレイユへと飛びかかってきた。
「ブレネくん!!」
教授の叫びが庭に響いた。
あまりに突然のことで、他の生徒たちは動けずにいた。
ミレイユには、すべてがスローモーションに見えた。
(もしかして、私、このまま……)
動くこともできず、ミレイユはこれから来る痛みに備えて目をぎゅっと閉じた。
しかし、待てども痛みはこない。
代わりに、「ギャンッ!」という獣の悲鳴と、何かが地面に落ちた音が聞こえた。
辺りがざわめき出す。
おそるおそる目を開けると、目の前には――すでに息絶えた魔獣が横たわっていた。
「……え?」
訳が分からず、呆然とするミレイユ。そこへ教授が駆け寄ってくる。
「ブレネくん、怪我はないか?」
無事を確認すると、教授は安堵の息を漏らした。
「……大丈夫です。先生が助けてくれたんですか?ありがとうございます」
ミレイユがお礼を言うと、教授はどこか罰の悪そうな顔を見せた。
「いや、私は何もできなかった。君が助かったのは――これのおかげだろう」
そう言って、魔獣の体から何かを引き抜いてみせた。
短剣のようにも見えるが、刃は両側に研がれており、柄には指をかけるための穴が空いている。
ミレイユには見慣れない武器だ。
「誰かがこの飛び道具を魔獣に投げたんだろう。急所を見事に射抜いている」
教授はその武器をしげしげと観察した。どうやら彼にとっても未知の代物のようだった。
教授はそれを手ぬぐいで包み、助手らしき人物に渡した。
騒ぎが大きくなっていたのだろう、他の教授や医務室の先生も駆けつけていた。
魔力切れで倒れた生徒や、ミレイユの様子を確認し、この日の授業は中止となった。
ミレイユは咄嗟に、近くにいたはずのクラリスを探した。
彼女は無事だろうか――。
目をやると、クラリスは少し離れた場所にいて、ミレイユと目が合うとにこりと笑って手を小さく振っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は魔法紋とかの説明があったので、挿絵を使ってみました!
クラリスさん、なんだか違和感を覚える行動してるな?と思ってもらえたら嬉しいです。
前までは次回更新日とか書いてましたが、私の筆の遅さにより、未確定な時は表示しないことにしました^_^;
また次回も楽しんでくださると嬉しいです。
よろしくお願いします。




