「最終話」あしたのパンを、きみに。」(結婚後、家族の風景)
焼きたてのバターロールを、ちいさな手がトングで持ち上げる。
「できたよー!」
パンを並べる台に、コロン、と転がるパン。
「おお、じょうずじょうず。トングの使い方、ママより上手になってきたな」
「えっ!? うそー、まけないもん!」
朝のパン屋は、今日も賑やかだ。
---
わたしと彼は、数年前にこの小さなパン屋で結婚式をあげた。
特別な式場なんてなかったけど、町の人たちがパンを持って集まってくれた。
「愛と小麦と、ちょっぴりのバターの誓いです」
そう言って、彼は笑った。
今思えば、あれが一番、わたしたちらしい誓いだったと思う。
---
ふたりで始めたパン屋に、もう一人家族が増えた。
彼に似たおだやかな目と、わたしに似た食いしん坊な笑顔。
休日の朝は、お手伝いと称してパンのつまみ食いが止まらない。
「ちょっとだけ、味見だもん」
口の端にチョコをつけながら言うその姿に、彼は笑って首を振る。
「そうかそうか。じゃあパパも味見するか」
「だめーっ!」
笑い声がふわっと店に広がって、
焼きたてのパンの香りといっしょに、あたたかく溶けていく。
---
わたしたちは、きっと特別じゃない。
ただ毎日を、大切に焼き上げていくだけ。
けれど、誰かの「おいしいね」の一言や、
「また来るね」と手を振ってくれる常連さんたちの笑顔が――
日々を、少しずつ、特別なものにしていってくれる。
午後2時に止まっていた時間は、
もうずっと前から、動いている。
午後7時を過ぎても、午後10時になっても、
また朝が来て、パンを焼いて、笑って、暮らしていく。
小さな手が、きょうも言う。
「ママ、あしたはチョコパン、つくろう?」
「もちろん。ママの得意パンだもん」
彼が笑う。
「じゃあ、明日はチョコパンまつりにしよう」
家族のパン屋は、きょうもやさしく、
明日を焼いている。
---
おしまい。