5話「午後7時のはじまり」(交際スタート編)
午後7時。
パン屋のシャッターを下ろし終えた頃、彼女はもう、店の前に立っていた。
「こんばんは」
少し風が冷たくなってきた夜。
彼女の声は、春先の紅茶みたいに温かかった。
「お待たせしました。……今日は、パンじゃないですよ」
そう言うと、彼女はふふっと笑って、「晩ご飯ですよね」と、こくりとうなずいた。
歩きながら、今日のパンの話をする。
気になるニュースの話。最近読んだ本。
そうやって、自然に隣を歩いている時間が、ただただ心地よかった。
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静かなレストラン。窓際の席。
ちょっとだけ緊張した面持ちで、彼女はメニューを開く。
普段より少し華やかなワンピース。その袖口をそっと直す仕草に、ドキッとした。
食事が運ばれてきて、グラスを傾けるころ。
ふいに彼女が言った。
「……あのね。あの時計、もう止まってないんです。ちゃんと動いてる。毎日、時間を刻んでくれてる」
「うん」
「でも……どうしても、午後2時のことだけは、特別に思えてしまうんです」
僕はうなずいた。
「わかります。……あの時間がなかったら、今こうして話してないと思う」
彼女は照れくさそうに笑った。
「私、もう止まりたくないです。過去の場所に縛られたくないし、でも――」
そこで、少しだけ言葉を止めた。
そのままじゃ、終わらせたくない。
僕は、ゆっくり口を開いた。
「もし、よければ……その時計が進む先、俺と一緒に見てみませんか?」
彼女の瞳が、大きく見開かれた。
ほんの一瞬だけ、時間が止まったような気がした。
けれど、すぐにその目が、ゆっくりとやわらかく細められた。
「……はい。お願いします」
その返事だけで、心の奥のなにかが、じんわりとほどけていった。
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店を出ると、夜風がふっと吹いた。
自然に、彼女の手が僕の手に触れた。
僕は、その手をやさしく握った。
何も言わずに、ただ、確かめるように。
午後2時に止まった時計は、もう午後7時を過ぎている。
そしてきっと、明日も、その先も。
一緒に刻んでいける。
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それが、僕たちの恋のはじまりだった。
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おしまい。