4話「動き出す午後」(彼視点/再会→恋愛へ)
あの日以来、彼女は来なかった。
チョコクリームパンを2つ買いに来る女性。止まった時計をつけたまま、決まって午後2時に現れる、不思議な人。
その姿を見かけなくなってから、もう3年になる。
それでも午後2時になると、つい入口のベルが鳴るのを待ってしまう自分がいる。
癖みたいなものだと思っていた。
……今日までは。
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入口のベルが鳴った。
チリン。
その音がやけにやさしく聞こえた。
顔を上げると、そこに彼女がいた。
長くなった髪を耳にかけ、あのときよりも少し大人びた雰囲気で――でも、確かに、あの人だった。
「……いらっしゃいませ」
心臓が跳ねたのがわかった。声が震えなかったのが奇跡だ。
彼女は微笑んだ。
懐かしくて、でも、どこか決意のある笑顔。
「チョコクリームパン、2つですか?」
聞いたあと、自分で“これは変だな”と思った。
けれど彼女は、首を横に振って言った。
「今日は、1つだけ。私の分だけでいいんです」
……そうか。ようやく、時間が動き出したんだ。
その言葉だけで、なぜか目の奥が熱くなった。
「はい。チョコクリームパン、1つですね」
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パンを手渡すとき、彼女が言った。
「時計、動き始めたんです」
僕は少し笑って、答えた。
「よかった。……俺の午後も、動いてましたよ」
彼女は小さく笑った。時間がゆっくり、重なっていくような気がした。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「このあと、時間ありますか?」
言ってから、なんて唐突な――と思った。
でも彼女は時計を見て、優しくうなずいた。
「……少しなら」
それだけで、世界が少し明るくなった気がした。
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パン屋を閉めた後、近くの喫茶店に入った。
コーヒーの香り。昔より少しラフになった彼女の話し方。
笑いながら、「ここで話すの、なんだか不思議ですね」と彼女は言った。
そしてぽつりと、
「手紙、読んでくれたんですよね」
「はい。……いまも、ちゃんととってあります」
彼女は驚いたように目を見開き、少しだけ照れたように俯いた。
その仕草が、なんだか、ものすごく愛おしかった。
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それから、何度か会うようになった。
最初はパン屋の帰り、次は土曜の昼下がり。
季節が変わるたびに、僕の店のパンも変わっていったけど、彼女はいつもチョコクリームパンを1つ買った。
「これは、特別な味だから」と言って。
やがて、彼女が時計を見て言った。
「……もう、午後2時にこだわらなくてもいいかなって、思えるようになったんです」
僕は笑って答えた。
「じゃあ、今度は午後7時に。晩ご飯でも行きましょうか」
彼女は、少し目を丸くして、それからゆっくりと、うなずいた。
止まっていた午後が、ようやく今日に、そして明日に、つながった気がした。
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おしまい。