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大学時代に大失恋した僕が、5年後にある人と結婚した

作者: hamham

 朝の光が徐々に濃くなる慶應大学・日吉キャンパス。銀杏並木を白っぽく染めながら、日の出が始まっていた。

 新名透にいな・とおるは、耳には何も音楽が流れないイヤフォンを差したまま、早足で歩く。無音にしたイヤフォンは、騒音をシャットアウトするためだけのもの。音楽すら聞かず、足音さえも静かに感じたい。昔から何かと落ち着かない心を持つ透には、この“無音”が一種の心の拠り所になっていた。


「……今日も天気はいい、か」

 透は誰にともなく呟く。もうすぐ始まる一限には間に合いそうだ。時刻はまだ八時半にも満たない。キャンパスは早朝の爽やかな空気のなかにありながら、遠くの方では部活やサークル活動の学生がちらほらと姿を見せはじめている。

 胸の奥で何かがざわめく。今日も“いつもの日常”が始まる、そんな予感があった。


 一限目の講義は哲学。早めに教室へ入り、一番後ろの席に腰を下ろした透は、講義が始まるまでセネカの文庫本を開いてみる。

 そこには「人生で最も大切なのは〈心の平静〉」と記されていた。

 音が途切れたイヤフォンを外し、しんとした教室の空気に耳を傾けてから、透は心のなかで繰り返す。


「〈心の平静〉って何だろうな……」

 忙しなく時間に追われ、日々の雑務で気持ちがかき乱される大学生活のなかに、そんな静けさなどあるのだろうか。今の透にとっては、ただの理想論にしか見えない。

 透は眉をひそめ、セネカの言葉にピンと来ないまま本を閉じた。


(学食にて)

 一限が終わり、透は学生食堂で親友の西村凌にしむら・りょうとテーブルを囲んでいた。凌は同じ経済学部のクラスメイト。口数は少ないものの、透が気兼ねなく話せる相手だ。

「透、おまえ最近また変わったイヤフォン使ってる? 音楽聞かないのに買ったのか?」

 凌が笑いながらからかうように言う。

「これは……ちょっとな。俺にとっての落ち着きアイテムみたいなもんだ。何も聞かなくても、イヤフォンつけてると気持ちが落ち着くんだよ」

「へえ、変わってるな。まあ、おまえは昔から“繊細”って感じだったし。気持ちは分かる気がする」

「繊細って……」透は苦笑いする。「そういうおまえは相変わらずテニス漬けか?」

「まあな。部活じゃなくてテニスサークルだからそこまでガチじゃないけど。飲み会とかのイベントはそこそこ盛り上がるから、良い気分転換だよ」

 そう言ってパスタをずるずるとすすった凌は、人懐こい笑みを浮かべている。テニスサークルは美男美女が多いらしく、凌も透も何度か足を運んでいた。


(カフェのバイト)

 午後、透は日吉にある小さなカフェへ出勤する。店の名は「カフェ・ヴェルデ」。古いけれど居心地のいい、学生たちの憩いの場だ。


 店内のカウンターに立っていたのは先輩スタッフの沙智さちさん。透より二つ年上で、カフェの常連たちが “日吉の看板娘” と噂するほどの美貌と、ガラス細工のような透明感を備えた、しっかりとした女性だ。

「新名くん、今日も遅番よろしくね。オーダー取り、しっかりやってちょうだい。特に新作のケーキは説明が面倒だから、お客さんにちゃんと説明するのよ」

 すらりとした指先でメニュー表を押さえながら、沙智がきびきびと話す。

「了解です、沙智さん。今日もよろしくお願いします」

 最初は少し怖そうと思っていたが、慣れてくると面倒見のいい先輩だと分かった。透はどこか安心している自分に気づく。

「ふふ、ちゃんと“沙智さん”って呼ぶのね。」

「なんか、最初はついそう呼んじゃって……。でも最近ようやく慣れてきました」

「そう。……あ、それとテーブルの拭き上げもよろしく。忙しくなる前にやっときなさい」

「あ、はい」

 透は慌てて雑巾を取りに向かった。きびきびと働く沙智に背中を押されるかのように、今日のバイトシフトが始まっていく。


 数日後の金曜日、凌に誘われてテニスサークルの新歓飲み会に顔を出すことになった。場所は日吉駅近くの居酒屋。大人数がぎゅうぎゅうに詰められた座敷で、コールやら自己紹介やらで大盛り上がりしている。

 その喧騒のなか、一際大きな笑い声が聞こえる方へ目をやると、透と同じ新入生らしい女性が座っていた。

「えーと……桜さん、ですよね?」

 軽く自己紹介を済ませたとき、その女性はニコッと笑って「あ、そうそう。早川桜はやかわ・さくらです。よろしく」と手を振った。銀色に反射する耳飾りが、黒髪のサラサラ感を際立たせている。くるくる変わる表情に、なぜかこちらの気持ちまで明るくなるような気がした。


 しばらく飲み会が進むと、二人同士の会話は止まらない。

「ねえ新名くん、何の本読んでるの? こないだちらっと見たけど、『心の平静について』って……?」

 桜が好奇心いっぱいの目で訊ねる。

「ああ、授業でね、セネカっていう古代ローマの哲学者の本を買って読んでるんだけど、正直まだよく分からなくて」

「ふーん、哲学かあ。なんだか頭良さそう」

「そんなでもないよ。これ読んだからって特に何か悟れたわけでもないし。まあ興味はあるけどね」

 そう言うと桜は「へえ」と楽しそうに笑った。

「私も読んでみようかな。読んで何か分かったら教えてよ。……あ、新名くん、呼び方固いね。透くんって呼んでもいい?」

「い、いいよ。じゃあ俺も“桜さん”って呼ぶよ」

 呼び方が決まった瞬間、二人の間の距離は少しだけ近づいた気がした。


 飲み会の翌週あたりから、透は桜のことが気になって仕方ない自分に気づいた。サークルの活動も顔を出してみれば、桜の姿をつい探してしまう。

 あるとき、学内のベンチで桜とおしゃべりする機会があった。昼休みのわずかな時間、二人でお弁当を食べながら他愛ない話をする。

「ねえ、透くんはどうして“心の平静”に興味を持ったの?」

 桜が小首をかしげながら言う。彼女は小さめの弁当箱を抱えていた。

「いや……俺はもともと考えすぎる性格で、どうにも落ち着きがないんだ。だから平静ってどうやったら保てるんだろうって思って」

「そっか。私も……まあ、ちょっとだけ分かる気がする」

「桜も悩みごとあるの?」

「まあ、ね。いろいろ……。でも、そんな大したことじゃないよ」

 そう言って曖昧に笑う桜を見て、透は胸の奥がかすかにうずくのを感じた。彼女の笑顔には、どこか儚さがあるような気がする。


 同時に透は、思う――人に“心の平静”なんて説けるほど、自分は立派じゃない。セネカの言葉を読んでも腹に落ちず、流されるままに生きている。そんな自分が、桜に近づく資格が本当にあるのか。

 しかし、桜の楽しそうな顔や、その一瞬垣間見える影を知りたいという気持ちが日に日に強くなっていくのであった。


 ある日曜日、桜から「映画見に行こうよ!」と誘いが来た。ちょっと意外だった。

「『人生フルーツ』っていうドキュメンタリー映画が渋谷のミニシアターで上映してるんだけど、観たいなって思って。良かったら一緒にどう?」

「あ、いいね。映画館は久しぶりだから楽しみ」

 渋谷の小さな映画館は落ち着いた雰囲気で、席もゆったりしている。作品は高齢の夫婦が手作りの暮らしを楽しみながら人生を重ねる姿を追ったドキュメンタリーで、シンプルな生活が描かれていた。

 透と桜は映像に見入る。庭いじりや季節の野菜、そして夫婦のやり取りの柔らかな空気……。観終わって外に出ると、渋谷の雑踏が一気に押し寄せた。

「何だか静かな気持ちになったよね」

 桜が感想を口にする。

「うん。すごく丁寧な暮らしだった。あれこそ、〈心の平静〉みたいなものなのかもなあ」

「かもね。二人が一緒に生きていくって、ああいうふうに寄り添うことなのかもしれないなあ……」

 桜の言葉が、ひどく胸に沁みた。恋と自己改革の幕開け――そんな予感めいたものを、透は感じずにはいられない。


 映画を観た帰り、宮下公園のベンチで休憩することになった。透は胸が高鳴っているのを抑えられなかった。

 夕暮れの空はオレンジ色から紫色へ移り変わり、街の灯りが少しずつ色づきはじめる。

 桜が紙コップに入ったカフェラテをすすり、ほっと息をつく。何度かデートらしきこともしたし、今日こそ思い切って気持ちを伝えよう。そんな決心が透の中で固まる。

「桜。あの……、俺、桜のことが好きなんだ。もしよかったら、俺と……その、つきあってくれないかな?」

 あまりにも率直な言い方になってしまった。けれど、誠意は伝わるはずだ。透は心臓がはち切れそうなくらい緊張する。

 すると、桜は少し俯き加減になりながら、ぽつりと呟いた。

「……ごめん」

 透の視界がぐらりと揺れた気がした。

「友達でいてほしい、透くんには。これからも一緒に映画とか行きたい。でも……ごめん。今は恋人とかそういうのは考えられないんだ」

 桜は困ったような笑みを浮かべる。

「そっか……。うん、分かった。友達のままでいい。いや、ありがとう。気持ちは……伝わった?」

「うん。嬉しかった。ありがとう」

 そう言って、桜はちょっと目を潤ませて笑った。

 街灯がともりはじめる宮下公園。人々の足音と車の音が遠く聞こえるなか、透は小さく息を吐き出した。これが失恋というものか――胸にぽっかり穴が空いたような虚しさを抱えながら、二人は静かに駅へ向かった。


 その後、透と桜は気まずくなることはなかったが、やはり以前のように二人きりで会うことは減っていった。サークルの場では笑顔を交わす程度で、友達として適度な距離を保っていた。

 凌もそんな様子を遠巻きに見守っていたし、周りからも「桜と最近どう? あんまり話してないみたいだけど」と透に訊ねてくることがあった。

 透は「まあ、色々あってね」とはぐらかすしかなかった。

 そうして大学生活はさらさらと流れ、やがて卒業の日を迎えることになる。


 それから五年が経過した。

 透は大手銀行の営業職として働き、スーツ姿で丸の内界隈を走り回る日々。慌ただしいが、それなりに充実している。同期の凌も同じ銀行に勤務し、いまは少し離れた部署で忙しくしている。


 ある日の夜、取引先との会食を終えた帰り、三越前駅の近くを歩いていると、ふと見覚えのある横顔を見つけた。

「……沙智さん?」

 その女性は、コートを羽織りきれいなパンプスを履いている。間違いなく、大学時代のバイト先の先輩・早川沙智だった。

「新名くん? 久しぶり」

 沙智は驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。

「お久しぶりです。こんなところで会うなんて……。今は丸の内で働いているんですよね?」

「そうそう。商社関係の会社で人事をやってるの。ちょうど残業が終わって帰るところ。……元気にしてた?」

 沙智の声は昔よりも落ち着いていて、大人の余裕を感じさせる。

「ええ、まあ。銀行の仕事で毎日バタバタですけど。沙智さんこそ、すごくお綺麗になりましたね」

 思わず口に出た言葉に、沙智は「何それ」と照れた様子を見せる。


 こうして運命的な再会を果たした二人は、自然な流れでインスタを交換し、週末に食事に行くようになった。互いに社会人として成長した姿に惹かれあい、いつしか交際を始めるようになる。


 それから約一年後、透はディナーの席で意を決して指輪を取り出した。

「沙智さん……。いえ、沙智。これからもずっと、一緒にいてくれませんか?」

 その瞬間、沙智の瞳に涙が浮かぶ。

「……はい。もちろん、よろしくお願いします」

 店内のシャンデリアの光が、ふたりを優しく包んだ。


 婚約が決まると、両家への挨拶が待っている。週末に沙智の実家を訪れた透は、玄関で深く頭を下げる。

 沙智の父と母は穏やかな人柄で、「沙智をよろしくお願いします」と笑顔で迎えてくれた。

 しばらく談笑していると、居間の奥にある仏間へと案内される。

「亡くなった祖父と……あともう一人、私の妹の遺影があるの」

 沙智は少し沈んだ表情を見せるが、透は“妹”という言葉にハッとして仏間を覗く。そこに飾られている遺影――それは、大学時代に出会った早川桜だった。


 脳裏が真っ白になる。

「さ……桜、だよな……?」

 だが、問いかける声は震えて、正確には言葉にならない。

「ええ、桜は大学二年のときに心臓の病気が悪化して亡くなったの。ずっと持病があったんだけど、周りには言わずに通院してたみたい。……ごめんね、言ってなかったわよね」

 沙智の母も「まさかあなたが桜とお知り合いだったなんて……」と動揺している。透はただ唇を噛むことしかできない。


 その衝撃は家を出たあとも続いた。夜の街を歩きながら、透は凌に連絡し、深夜近くにようやく捕まえた。

「凌、桜……桜が死んでたなんて、知ってたのか?」

 電話の向こうの凌の声は重たかった。

「……ごめん、実は俺知ってた。大学のあと半ばくらいに、桜本人から打ち明けられたんだ。もう長くないかもしれないって。だけど“透には言わないで”って口止めされて……」

「どうして言ってくれなかった……? 友達だろ? 俺はずっと……」

「桜がそう望んだんだ。透の気持ちを考えると、俺は今でも正しかったのか分からない。でも……ごめん」

 その言葉に、透はやり場のない怒りを胸に抱えたまま黙り込む。目の前の街の風景が揺らいで見えた。〈心の平静〉などというものは、一瞬で粉砕されたのだ。


 その日を境に、透の日常は急速に乱れていった。

 婚約者が、かつて思いを寄せた桜の姉だった――しかも桜は大学生のときに亡くなっていた。透の胸には、消えない未練が芽生えている。いや、未練というよりは、やり場のない悲しみと後悔だ。

 「桜が病気を隠していたなんて。どうして俺は何も気づかなかったんだ……」

 テニスサークルで一緒だった凌は、その事実をずっと知っていて黙っていた。親友として信頼してきたが、今は裏切られたような感情が拭えない。

 さらに、沙智への申し訳なさが募る。自分は彼女の妹に想いを寄せていたのだ。婚約までしておいて、この胸の痛みをどう扱えばいいのか。


 仕事場でも集中力を欠いた透は、取引のミスが続発し、上司から叱責を受ける。かつては安定していた心が、今はどこにもない。コーヒーを注ぐ手が震え、書類にコーヒーをこぼしてしまったりもした。

「落ち着け、落ち着け……」

 何度呟いても頭のなかのノイズは消えない。かつて「静寂」を求めて無音イヤフォンを付けていた自分は、もうどこかへいなくなってしまったかのようだった。


 挙式の日取りは近づき、式場も決まり、忙しくも幸せなはずの結婚準備が進んでいく。沙智は資料を片手に、ドレスや引き出物の打ち合わせをしていた。だが、透の表情が常に暗いことを感じ取っているようだった。

 ある晩、ふたりは都内のファミレスで打ち合わせの帰りに軽く食事をすることになった。沙智がドリンクバーのコーヒーを啜りながら、意を決したように口を開く。

「透……ずっと聞きたいことがあったの。あなた、桜のこと……どう思ってたの?」

 一瞬、呼吸が止まった。透は逃げようのない視線を沙智から感じる。

「それは……」

「妹が大学の途中で亡くなったことを知ってから、あなたずっと悩んでるみたい。もしかして……桜のこと、好きだった?」

 透はしばらく黙り込んだあと、声を震わせながら答えた。

「……ああ、好きだった。大学のときに告白してフラれたけど、俺は本気で好きだったんだ」

 正直に言葉を吐き出すと、沙智の表情が曇る。ファミレスのざわめきが遠く感じられる。

「どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」

「言えなかった。自分でも気持ちの整理がつかなくて……。沙智に対しても後ろめたい気持ちがあった。ごめん、本当にごめん……」

 透の目から涙がこぼれる。思いがけず自分でも驚くほど、感情が込み上げてきた。

 沙智は俯き加減に席を立った。

「……私、先に帰るね。ごめん」

 そのまま店を出て行く沙智の背中を、透は何もできずに見送るしかなかった。


 独りきりの部屋。乱雑に置かれたスーツと資料。テーブルの上には、あのセネカの文庫本が転がっている。

 透は失意のままページをめくる。そこには、かつては理解しきれなかった言葉があった。


 「人はただ自分自身の利得だけを顧み、万事を私益に引き寄せるようでは幸福に生きることはできない――自らのために生きたいのなら、相手のために生きねばならない。」

 黒インクの一行が胸の奥に火花を散らす。

 ――自分のために生きたいなら、相手のために生きろ?

 ページの余白を親指でなぞりながら、透は静かに息を吸い込んだ。


 「……そうか。苦しみって、抱え込むほど重くなる。だけど――他人と分け合えば、その分だけ軽くなるのかもしれない。たったひとりで耐えるんじゃなくて、痛みごと差し出して、支え合うことでこそ〈平静〉は生まれるんだ。」

 今まで自分は誰かを遠ざけ、心を閉ざすことでしか“落ち着き”を手に入れられないと思っていた。桜にも本当の意味で向き合えなかった。沙智にもきちんと打ち明けられず、傷つけてしまった。

 凌に対しても、桜の秘密を守り続けたことを責める前に、自分が抱えていた感情を言葉にすべきだったのかもしれない。

「……ごめんな、桜……。沙智……」

 透は声にならない声で呟き、目を潤ませる。


 翌週末、透は意を決して沙智に連絡を取った。

「会って話がしたい。大事なことを全部、打ち明けたいんだ」

 場所は青山一丁目にある、かつて学生のころには訪れなかった少し大人びたカフェ。ガラス張りの店内からは街路樹と行き交う人々が見える。

 先に着いた透は、窓側の席に座ってソワソワしていた。やがて、黒のコートを着た沙智が扉を開けて入ってくる。透はすぐに立ち上がり、椅子を引いた。

「……ごめんね、忙しいのに」

 沙智は緊張した面持ちのまま、透の向かいに腰を下ろす。

 カフェラテを注文し、一息つくのを待ってから、透はゆっくりと口を開いた。

「沙智、本当にごめん。桜のこと……ずっと好きだった。でも、大学を卒業してからは、俺はもう過去の思い出として整理していたつもりだったんだ。だけど、実は整理できてなかった。沙智と婚約して、突然あの事実を知って……どうしていいか分からなくなって……」

 沙智は下を向きながら、透の言葉を聞いている。その手が少し震えているように見えた。

「でも、もう逃げない。桜が亡くなったことはとても悲しい。俺はきっと、桜を心のなかにずっと留めていた。でも、今、本当に大切なのは……沙智、あなただ。あなたを失いたくない。だから、俺は全部、包み隠さず話すことに決めた」

 沙智は涙を浮かべながら、そっと口を開く。

「私……正直、すごく複雑だった。妹のことを好きだった人と結婚するって……どう受け止めればいいか分からなかった。でも、透がちゃんと全部話してくれたことは嬉しい。過去は変えられないけど、これからの未来は一緒に作っていけるよね……?」

「うん。そうだよ。俺たち二人で、痛みも悲しみも分かち合って、落ち着いた幸せを築きたい」

 透が手を差し出すと、沙智は涙を拭きながら、その手をぎゅっと握り返す。

「ありがとう、透。……私も失いたくない。結婚、ちゃんとしよう」

 その瞬間、透はやっと胸のつかえが解けた気がした。外の街路樹が風に揺れ、カフェの窓を優しく叩いている。


 それからしばらくして迎えた挙式の日。場所は格式ある東京會舘。厳かな雰囲気に包まれ、正面には純白のウェディングドレスを纏った沙智の姿がある。透は背筋を伸ばし、彼女の隣に立つ。

 たくさんの来賓や親族の前で、誓いの言葉を交わしたあと、披露宴が始まる。乾杯のスピーチが行われ、やがて新郎である透がマイクを握った。

「本日はお忙しいなか、お越しくださりありがとうございます。こうして皆様の前で、沙智と夫婦になれたことをとても幸せに思います」


 透は息を整え、ほんの少し間をおく。

「実は、私は大学生のころからセネカの『心の平静について』という本を読んでいました。そこに書かれた〈心の平静〉――かつては、自分ひとりの心を守ることだと思っていました。けれど、いろいろな出来事や、たくさんの人との出会いと別れを経て、ようやく分かったんです。心の平静は、愛を分かち合うことでしか得られないんだと」

 会場のあちこちから、温かい拍手が起こる。凌も列席し、真剣な眼差しで透を見つめている。沙智の目には涙が浮かんでいた。

「痛みや悲しみ、そして喜びや幸せ……それを他者と共有することを恐れず、一緒に歩んでいく。それが本当に安らげる人生なんだと、私は今、心の底から思います」

 透は深く一礼し、マイクを置く。大きな拍手のなかで、沙智が微笑みながら透の手をとる。

 フラワーシャワーを浴びながら、二人は新しい人生へと踏み出していった。


 挙式からしばらくたったある日の夕暮れ。新居のリビングは西日を受けて温かなオレンジ色に染まっている。

 大きめの窓からは町の景色が一望でき、その奥には沈みかけの太陽が街並みを優しく照らしていた。

 透はソファの肘掛けに腰を下ろし、ふと思い出したように言う。

「そういえば、最近イヤフォンが要らなくなってきたんだ。前はずっと無音イヤフォンをつけてないと落ち着かなかったのに」

 沙智は「へえ」と微笑んで、「でも今は心が落ち着いてるんでしょ?」と尋ねる。

「そう……なんだよな。いろいろあったけど、今がいちばん落ち着いてる。何より、この夕焼けが見られるのが好きなんだ」

 透は窓の外を眺めながら呟く。

「この落ち着きが一番好きだ」

 沙智は隣で穏やかに微笑んだ。そこには、かつての大学時代とは違う、どこか大人びた余裕が漂っている。

 ――こうして二人は、痛みも悲しみも共有したうえで得た〈共有された平静〉のなかに身を置いている。ほんのりとした幸福感が、静かに部屋を満たしていた。



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