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『なんでいつもシエラ様がもてはやされてるのかしら』
ああ、これはいつもの夢だね。
『容姿だからでしょう? 逆に言うと容姿しかないじゃない?』
『ですが、シエラ様だって頑張っているんですよ?』
『……それでも、周りに「妖精姫」とまで呼ばれて。調子に乗ってるのでは? 彼女よりは妖精の言葉を受け継いだロディネ様の方が相応しいでしょう? ……ロディネ様はあんなに国のために頑張ってるのに!』
言われなくても分かる。誰よりも分かっている。
私は、いつも寝る暇も惜しんで頑張っているお姉様の背中を見ているから。
そう、誰よりも、だ。
だから、はやく、めをさまして。
『所詮、見た目だけでしょう』
目を開ければ、最初に襲ったのは虚しさだった。
今日の目覚めはいつもよりも酷かった。
頬が濡れて、頭も目も痛い。
そして、ベッドから起き上がるための理由を見つけることができなかった。
探す気力すら残されていない。
「……ベッド?」
そう思うと、違和感を抱いた。
昨日、ベッドに入った覚えはなかった。何にせよ、最後に鮮明に残った記憶は無我夢中に泣いていたことだった。
時間と共に朦朧としている意識から霞が少しずつ消え去る。
上半身をブランケットから出して、周りを見渡した。
案の定、見慣れない部屋の中には私しかいない。
ベッドを一瞥し、清らかな朝にそぐわないモヤモヤが私の胸にこびり付く。
この小さな屋敷では私をベッドまで運べる存在がおそらくたった一人しかいない。
(いっそ、そのまま床の上に放置すればいいのに)
そうすれば、運良く風邪を引き、それを理由にして部屋の中に閉じこもれるのに。
好意を素直に受け止められないまま、再びベッドに体を沈めた。
静けさが昨日の記憶を呼び起こす。ふかふかなブランケットで身を包んでいるのに、それでも体の芯から寒い。
皮肉なことに、それがベッドから起き上がる理由になった。
身を起こせば、私の体から無数の青い花びらが床に落ちた。それを踏もうとしたが動きが固まった。
花びらを避けながらベッドから降りようとしたら、ノックと開かれた扉の音が聞こえた。
「奥様、おはようございます」
「……おはよう、ソフィ」
「もう、起きますか? それともまだ、休みますか?」
心なしか、ソフィの声が少し躊躇っているように聞こえた。
彼女の提案に小さく首を振った。
「ううん、起きるわ。でも、もう少しだけ待ってくれる?」
「奥様……かしこまりました。部屋の外でお待ちしますので、準備ができたらお呼びください」
それ以上何も追求せずお願いを聞いてくれたソフィでよかった。
今の自分の顔を他人には見せられないものだとわかっているから。
その様子を確認するために、設置された姿見に身を運ぶ。
そこに銀髪と青い目をしている女性が映っている。
私は無表情な私を見つめる。
相変わらず、寝起きは酷い顔をしている。
皆が求めている「妖精姫」の欠片はどこにも見当たらない。
いつものように、私は鏡に映っている自分の姿に手を差し伸べて、触れる。
熱がまだ残っている目を閉じ、額を合わせる。
「私は、アルブル家の次女であり、フルメニアの貴族。今はゼベランのロートネジュ公爵の妻でもある。そう、どんな形であっても」
妻は夫の一歩後ろにいて、彼の背中を支える。間違いがあれば彼を正し、正しくあればそれを支持する。
跡継ぎは分家が務めてくれると彼は言った。
確かに直系から、というのは理想的だが、それは別に必須ではない。
公爵であり夫である彼の選択肢であるため、それを優先するのが無難だ。
問題はない。どこにもないはず。
『取り乱した時、事実を並べてみて。それを優先順位の順番で並べれば自然と思考が落ち着くよ』
お姉様の言う通りだ。
昨日、それで取り乱した己を思い出すと嫌気が差すほど恥ずかしい。
(でも、そうすると「私」がここにいる意味は……)
鏡に額をぐりぐりし、一瞬だけ湧いたいらない思考を掻き消す。
(彼に謝らないと)
謝罪して、これからのことを確かめないと。
そのために、まずはこの部屋からでないといけない。
その使命感だけが私の重い全身を動かした。
目を優しく拭きながら顔を上げて、もう一度鏡を見つめる。
あそこには美しく微笑んでいる「妖精姫」がいる。
* * *
その後、何事もないかの如く朝の支度をした。
フルメニアより少し厚みのあるドレスに着替えて、ダイニングに案内された。
彼はもうそこにいる。
一番会いたくないが、会わないといけない。
動悸と頭痛が相まって、気を逸らすために笑顔を装う。
「おはようございます」
「……ああ」
それ以上何も言わず、私たちはハンナが用意してくれたご飯を食べ始めた。
朝食はとても美味しかった、と思う。
何にせよ、緊張しすぎて味が分からなかった。
だけど、フルメニアにもよく見かけた料理が並んでいる。食文化が似ているとはいえ、北の方では入手困難な食材が数多くある。
その気遣いは私の胸に温かく滲み込んだ。
だからこそなのか、背中が押されたような、そんな気分になった。
食器がぶつかる音が完全に止み、部屋が重い空気に包まれる。
気が付くと、ハンナもソフィの姿はどこにも見当たらない。
ここに私と彼だけが残されている。
言うなら、今しかない。
「旦那様」
唇を噛み、左手で軽く拳を握った。
罪悪感や恥、緊張などが全部私の胸を重くさせる。
「昨夜、取り乱してしまい本当に申し訳ありませんでした」
顔を背けながら謝罪を告げた。私には、彼の瞳を見つめる勇気がなかった。
だが、沈黙が重い。彼からの視線を感じるから余計に重くなった。
喉が絞められたみたいに呼吸が難しくなった。
「……気にするな」
「ですがっ」
あまりにも簡潔な返事に、声と一緒に顔を上げた。
まっすぐな視線と目が合ったせいで、体の動きが封じられた。
やはり、彼の瞳が、少し苦手だ。
「俺は気にしていない。だから君も気にする必要はない」
「はい……」
これ以上の返答を許さない言葉だった。
ほっとする一方、胸の中に靄が残っている。
「それより」
その言葉は、私の心を痛めた。小さな針が刺さったままのように痛い。
表情を保ちつつ、彼の言葉の続きを待つ。
「その『旦那様』という呼び方は……いいのか?」
まさに、藪から棒。
昨日のことといい、今日といい。彼は本当に予想を超える言葉ばかり口にしている。
「昨日、私たちは結婚しましたのでそう呼ばせていただきますが……あ、もしかすると嫌でしょうか?」
「いや、それはない。ないが……」
「ないが?」
「……いや、なんでもない」
彼の小さなため息に顔を顰めそうになったが、なんとか堪えた。
「あの、それと旦那様。これからの話について話したいですが……今は大丈夫でしょうか?」
「ああ、大丈夫だ」
「昨夜、答えたように、私の意志はそのままです。旦那様の意向に従います」
「……感謝する」
ほっとしたみたいに、彼の肩から力が抜けた。
それを目にして、胸に刺さった針がより深くねじ込まれた。
(そんなに私と子供を作るのが嫌だろうか……)
いらない感情がそれ以上長く続かないように深呼吸をする。
気にならないと言われたら、それはとても気になっている。
だって、これでおそらく二、三年後の社交界で私は「石女」と呼ばれるかもしれない。
でも、今優先すべきことはそれではない。
これは、国同士が決めたことだったため、関係がないかもしれない。
いらない確認だろうね。
それでも、私は保険が欲しい。
「そして、もう一つです。『同盟は守る』という旦那様の言葉を信じてもいいのでしょうか?」
「!!」
私の言葉に、彼は目を大きく見開いた。
彼はそのままずかずかと私に近づき、そして跪いた。
急なことに頭が真っ白になって、上手く反応できなかった。
唖然とした私をよそに、彼は流れるように私の右手を取り、手の甲を自分の額に当てる。左手は己の心臓の上に置きながら、凛とした声でそう告げた。
「誓う。国に、君に誓う。竜と騎士の誇りにかけて」
この光景は、どこかで見たことがある。
ああ、あれか。幼かった弟によく読み聞かせた絵本の挿絵みたいだ。
騎士が王や姫に忠誠の誓いを立てるシーンだ。
(はは、おかしいな……)
内心で笑った。その笑い声は乾いているように感じる。
だって、しょうがないでしょう?
昨日、彼と私は夫婦になったはずなのに。
「だから安心してくれ。ここで君がしたいように自由に過ごしても構わない」
「……ありがとうございます」
できるだけ綺麗な笑みを作り、「夫は妻に跪いてはいけません」と彼が立つように急かした。
そして、私は逃げるように自分の部屋に戻った。
部屋に辿り着いて、鉛みたいに重い体を行儀悪くベッドに投げた。
(私は、一体何を期待しているのだろうか)
目を閉じれば、仲睦まじく並んでいる親の姿が脳に浮かんだ。
(私って、本当に我が儘だな……もっと残酷な政略結婚があるのに)
それ以上余計なことを考えないように、私はぐっともっと強く目を閉じた。
心の奥底から湧き出る気持ちに蓋をする。
そうすれば、今までのように全部うまく行く。
熱くなった瞳の奥も、傷む胸も。
全部全部、ただの気のせいだよね。