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 息が上がった。足から力が抜けていく。それでも、私は走る。

 ありったけの力で重い扉を開け、月の光を頼りに温室の中に迷い込む。

 こういう時ですら、リュゼラナの香りが鼻をくすぐる。


「奥様、落ち着いてください!」


 温室を一周しても、彼はいない。残っているのは、あの空間だけだ。


(お願い……!)


 浅はかな希望を抱きながら、蔦のカーテンを退かせようとした。

 だができる前に、そのカーテンが急に開かれた。

 そして、カーテンの隙間から現れた人物を見た瞬間、体から力が抜けた。


「奥様!」


 崩れそうになった瞬間、体が温もりに包まれている。耳をすませば、規則正しい鼓動が聞こえる。

 顔を上げれば、この三日間も見られなかった蜂蜜色の瞳と目が合った。


「何があった?」


 その声を聞くだけで、それを見るだけで、涙腺が緩んだ。


「旦那様、旦那様……」


 生きてる。彼は、まだ生きている。

 それを実感して、私は涙を止めることができなかった。


 彼の前では私はよく感情的になる。

 溜めに溜めた涙が全部溢れそうな勢いだ。

 頭が優しく撫でられたのが、余計にそれを誘う。


 その間に、彼と私を追いかけたソフィが会話をしていた。いや、ソフィに叱られたと言った方が正しいかもしれない。

 どうやら、起きたばかりで、鈍った体を動かすために散歩をしていた。

 だが、時間がもう遅いため、寝ている皆を起こさないために、徹底的に足音を消したそうだ。

 それを聞いたソフィの声色が怒りから呆れになった。そして、私が落ち着いたらちゃんと屋敷に戻るようにと言い残して、温室から出た。


 泣いてからしばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した。

 顔をあげるには顔が熱すぎて、それを隠しながら彼から離れた。


「すみません……」

「いや、俺の方こそすまない」


 静寂が今この場に私たち二人しかいないことを意識させる。あえて、このまま何も言わず、屋敷に戻りたい。


 だが、月はそれを許さなかった。


 暗かったせいか、その中に差し込む光が異様に目立った。意識がそれを捉えた瞬間、今一番見たくないものが視界の中に入った。


 肩に力が入った。

 何故なら、テーブルの上にあの号外新聞が置いてあるからだ。

 屋敷に置いてあるそれが温室にある。


 この場所に、あの号外。

 導かれる答えは、一つしかない。


 別に、隠したいわけではない。遠回しにしたかっただけだ。

 いずれ、絶対彼の耳に入るのだ。彼は騎士だから。

 今日、それに触れたくないのは私の弱さ、私の我が儘の証だ。今日くらい、他のことを考えずに彼の目覚めを喜びたい。そんな、自己中心な想いだった。


 その思いが彼のと違うだけ。それだけ。

 彼が無情なほどに私の逃げ道を断った。


「……旦那様は、戦争に参加するつもりですか?」

「ああ」


 即答だった。わかり切ったことだ。


「……前線で、ですか?」

「おそらく。だが、それはアベル次第だ」


 月明りに照らされた彼の表情には迷いの一つもなかった。

 彼らしい。非常に彼らしい。胸が痛くなるほど、彼らしい。

 ねえ、ヴィルト様。こんな彼に「戦争に行かないで欲しい」なんて、頼めるわけがないではありませんか。

 それは鳥に飛ばないようにと頼むのと同じくらい酷なものではないだろうか。


(そんなの、私には無理だよ)


 理解できない、そうだとしても止めるべきだ。死ぬよりはいいのではないか。彼を延命する方法があるかもしれないし、死ななければそれが試せるではないか。

 そっちの方が正しい、かもしれない。


 だけど、しょうがないじゃない。

 その真っすぐで無謀な所も含めて、彼が好きなんだもの。


「……温室の中は暖かくても、外は結構冷えるだろう。屋敷に戻ろう」

「……はい」


 彼の背中を追いかけながら、温室の扉を目指す。

 この状態を不思議に感じる。その違和感を抱えながら歩くと、彼の背中は徐々に暗闇の中に溶け込んでいく。


 その光景は、彼の結末を暗示するようなものだと、そんな感じがする。

 胸の中に眠っている不安が再び起こされた。

 焦燥が燃料となり、私の体を支配している。


 小さく走って、彼の背中の服を強く掴んだ。その広い背中に、額を預ける。

 あ、そっか。私は今までいつも彼の隣を歩いていたんだ。だから、彼の背中を見ながら歩くのに違和感を抱いたんだ。


「っ! ……どうした?」

「少しだけ、このまま……」


 今は彼に顔を見られたくない。絶対、貴族の、騎士の、そして彼の妻として一番相応しくない表情をしているから。


 ああ、胸が重い。この気持ちを言うべきか、言わないべきか、今でも悩んでいる。

 だけど、この感情は確かに存在している。そして、その宛先は彼しかない。

 こうやって、彼の存在を感じてしまうと、その感情が膨らんで破裂しそうになる。


 迷惑をかけたくない。これは真実である。

 伝えたい。これもまた、真実である。


 だから、ごめんなさい。

 どうやら、今日の私はいつもよりも弱いみたい。


「……行かないで」


 ここだけの、温室の中の二人だけの秘密にして。


「旦那様は、死ぬつもりで出陣しますよね?」


 答えこそはない。だが、びくっとした背中がその代わりになった。

 そうだよね、自分自身の体だもんね。誰よりも、理解しているでしょうね。


「行くと決心した旦那様にこんなことを言うのは、迷惑だとわかっています。ですが……」


 彼の服を掴む手に力が入った。息を吸って、覚悟を決めた。


「行かないで欲しい。旦那様が死ぬのが嫌です。……生きて欲しいです」


 これを言うと、彼に嫌われるのかな? 呆られたのかな?

 もし、そうだとしたら、私は立ち直れるのかな……。

 なら、そうなる前に、これも伝えないと。


「でも、それと同じくらいに、胸を張って、いってらっしゃいを言いたいです」


 これもまた、私の本心である。

 その選択こそが、彼を彼にするのだから。


「貴方にそれを、知って欲しいだけ、です……」


 矛盾している真実を彼に託した。

 せめぎ合う感情は私の胸を辛くさせる。止まったはずの涙が再び流れ始めた。

 嗚咽が溢れないように、強く唇を噛む。


「……振り向いても、いいか?」

「だめ、です。今、人に、旦那様に見せられない、顔をしていますから……」

「見たい、と言ったら、君は怒るか?」


 彼の言葉に一驚したせいか、手から力が抜けた。

 その機会を逃さずに、彼はすぐに振り向いた。


 私に伸ばされた両手は緩やかなものだった。だけど、何故だかそれを避けることができなくて、固まったままそれを受け入れた。


 片方は私の頬を包み、片方は私の涙を拭う。

 手付きも、微笑みも、とても柔らかくて暖かい。

 彼の優しさを甘受し、心が切なくなる。


「ありがとう」


 前から思っていたが、この人は本当にお人好し過ぎる。

 感謝されるところなんて、どこにもなかったのに。


「俺も、言っていいか?」

「なん、ですか?」

「……君に、フルメニアに戻って欲しい」


 私は言葉をなくした。

 驚異のあまりに、呼吸が難しくなった。

 駄目だったのか? やはり、言わないべきなのだろうか?

 嫌われるのは覚悟していたが、まさかフルメニアに帰れと言われるのは予想外だった。


「違う。……違う、そうではない」

「じゃあ、どうして……」

「これから、ゼベランは危険な場所になるから。……だが、それだけではない」


 彼は寂しそうに目を細める。


「俺は君の笑顔が好きだ」

「えっ?」

「……あの号外を読んで、俺は覚悟した。例え俺が命を落としても、それがゼベランのためになるのであれば気にはしない。それも、君の故郷であるフルメニアのためにもなるのであれば尚更だ。あの日、君に誓ったからな」


 あの日。初夜の翌日。

 確かに、彼は私に誓った。同盟を守るって。

 まさか、当時切羽詰まったからとはいえ、決定権のない彼にいらない覚悟を押し付けてしまったとは。


 そんなの、私が勝手に保身に走って、自分を慰めたいだけで誓わせたものなのに。

 彼は今でもそれを大切に守ろうとしている。


「……こうやって、君を悲しませることしかできない男だ。こんな俺は、君を笑顔にできない」


 溢れてしまう。

 この言葉は、私の心の壁を壊した。


「君の笑みには確かに寂しさがあれど、誇り高くて眩しかった。だが、何も飾らず笑う君の笑顔も俺の心を震わす。そして、できれば自分の手で君を笑顔にしたい。それが、無理だとわかっていても」


 私が身に着けた笑顔も、そのままの笑顔も、全部丸ごと。

 私ですら、時折どっちが本当の私であるかわからないのに。

 彼は、受け入れてくれたのね。

 全部、「私」だと思ってくれたのね。


 充分だ。これで充分だよ。

 私には、その言葉が充分だ。


 この人からこれ以上望めないよ。全部与えてもらったから。


「……これから死にに行く身として、身勝手なことだと分かっているが」


 彼は私の両手を取り、それを握りしめる。彼と私の額が触れ合う。二人で祈るような、手に届かない希望を願うような。


「君の幸せの形がわからないのに、君の幸せを願っている」


 その純粋な願いを耳にして、思わず小さく笑った。

 握られた両手を少しだけ引くと、それがあっさりと放された。


「旦那様、あの日何故私が「ありがとう」を言ったのかを、理由を聞きましたね」

「……ああ」

「ふふ、それはですね」


 今度、私は彼の懐に飛び込んだ。背中に手を回し、力の限り彼を抱きしめる。


「もう、充分幸せですから」


 フルメニアにいる家族、ゼベランにいる家族。

 そして、彼の存在によって。


「充分すぎる程に、です」


 「だから、ここにいさせて」と、か細い声で呟いた。


 彼は私を抱き返した。

 強く、強く。

 お互いにお互いの存在を刻み合うように。


 強く。




* * *




 数日が経ち、いよいよ彼が戦場に赴く日が訪れた。

 私も家の皆も全員、彼の見送りをする。

 彼は私の左手を握りながら、それを見つめる。


 時間が迫っている。

 外から彼を呼んだ声が聞こえる。彼は迷わず、私の手を放した。

 振り向こうとした彼を呼び止めて、懐に仕舞ったものを彼に渡した。


「旦那様、これを」

「これは?」

「晩秋祭りの時に買った、リュゼラナ色のリボンです」


 この数日、寝る前に持っている魔力の全てを注いだお守り。

 効果あるかどうかわからないが、せめて、私の一欠けらが彼と共に居られたらな、と。


「いってらっしゃいませ」


 あの日、彼は私を受け入れてくれた。

 なら、今度は私の番だ。


 胸を張って、笑顔で彼を見送る。それが、彼の妻としてやれる唯一のことだ。

 彼はリボンを握り、そしてポケットの中に入れた。


 そして、そのまま何も言わず、家を出た。


 扉が閉められた瞬間、ハンナが倒れた。ニコルは苦い顔で彼女を支えた。

 ソフィは顔を俯かせる。カレンは暗い顔をしている。


 私は、目の奥に溜まるものに耐えながら、ただただ前を見つめる。

 流すなら、今ではない。

 そんな気持ちで、自分自身を鼓舞する。


 そこからの日々は彼との別れに向けて、心積もりをするものになった。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] 飽きられる→呆れられる ではないでしょうか?この話以前にも同じ使われかたがありました。 違ってたらごめんなさい。
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