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『ロートネジュ夫妻の結婚式 大型ワイバーン襲撃』
『カリオール王弟殿下 暗殺』
『国民の声 フルメニアは暗躍している』
ソフィが渡した新聞を見て、私はため息をついた。書かれた記事は晴天を曇らせるほど酷いものだった。
この三日間、新聞記事はこの三つの話題に埋め尽くされている。増える紙の厚みに比例して、私の心の淀みも深くなっている。
あまりにも複雑な心情だ。
どの記事でも目立つ言葉の寄せ集めで、ありもしない内容が書かれている。
私がワイバーンに付き従うだの、それを使ってゼベランをかき乱すだの、今度はフルメニアが裏でルナードと手を組んでいるなど。
見出しを読むだけで、頭が痛くなる。
これから、同盟がどうなるのか。上層部の見解がわからず、首が絞められる日々が続く。
唯一ほっとしたのが、旦那様について全く書かれていないことだ。不幸中の幸い、どうやら旦那様の竜化した姿が大型ワイバーンに見えたみたい。
……アベル様の言葉を思い出すと、それ以外の可能性も脳裏に浮かんだが。
「奥様、今日も坊ちゃまのところに?」
「……うん、そうする」
「……奥様も、もう少しお休みになられたらはいかがでしょうか? この三日間、起きている間はいつも坊ちゃまの付き添いなんですよね?」
「私は、大丈夫。確かに体がまだ少し痛いけど、それだけ。私のことよりも、旦那様が心配なの……」
結婚式の日から、旦那様はずっと眠っている。
あの日、私の膝の上に頭を預けた直後、彼は人間の姿に戻った。それを見たアベル様は至急に屋敷まで私たちを送ってくれた。
宮殿から旦那様のかかりつけ医が彼を診てくれた。どうやら、今彼は魔力枯渇状態に陥って、それを回復するために深く眠っているだけ。そして、魔力の循環がよくなり次第、自然と起きるのだろう、と。
そう言われて三日間が経ったが、旦那様は今でもまだ目を閉じている。
彼が眠るベッドの近くにある椅子に腰を下ろし、彼の顔を覗き込む。確かに、昨日よりは顔色がいい、と思う。
それでも、微動もせず、目覚める気配は全くない。
この状況は私の胸を強く締め付ける。
もし、彼がこのまま眠っていたら?
ここに座って数日間、その最悪の可能性が何回も脳裏に浮かんでは消えた。
「奥様、坊ちゃまにお客様がいらっしゃいます」
ノックの音とソフィの声で無意識に握った拳から力が抜けた。
(お客さん? 誰だろう)
今日はそんな約束はないはずだ。
だが、ニコルが屋敷に入れてくれた上に、ソフィの声はいつも通りだ。二人を信じて、そのまま入室の許可を与えた。
「よう、奥さん。見舞いに来た」
「アベル様?」
事件の次の日、アベル様がこの屋敷に訪れ、アーリャさんについて報告した。
牢屋から出て、彼女は一文無しの状態で北部に戻されたはずだった。騎士団はちゃんとそれを最後まで監視した上に追跡魔法も掛けたが、それを潜り抜けてどうやって王都に戻ったのかはまだ定かではない。
どうやらあの日、彼女が私を狙ったそうだ。そして、彼女が持っていたナイフには毒が塗られていたみたい。
驚くことに、その毒は瀕死になったワイバーンから検出されたものと酷使している。濃度がその何倍もあったらしいが。
どこからそれを手に入れたと聞いても、彼女は「わからない」や「知らない人から貰った」としか答えなかった。
そんなアーリャさんは現在、殺人未遂の罪で牢獄に入ることになった。
その牢獄の中で、彼女はどのような扱いされたのかは、聞いてもアベル様は沈黙を貫き通しただけだった。
その日から間を空けずに再び訪れる理由に見当がつかず、首を傾げた。
「いらっしゃいませ、アベル様。あら、今日はお連れの方も――」
扉から現れたアベル様の後ろにもう一人の男性がいる。
その男性に、見覚えがある。
急いで、カーテシーを取った。
「陛下、ご機嫌麗しゅう」
「謁見ぶりね、ロートネジュ夫人。だけど、堅苦しい挨拶はいいよ。今日は「国王」としてではなく、ルカの「幼馴染」として来ただけだから」
陛下、いいえ、ヴィルト様は私に座るようにと促した。正直、足には鈍い痛みがまだ残っているからとてもありがたい。
素直に座り直すと、ヴィルト様とアベル様も用意された椅子に座った。
「ルカはずっとこんな感じ?」
ヴィルト様の質問に私は小さく頷いた。その受け答えで部屋の雰囲気が重くなった気がする。
「……ヴィルト様は何故ここに?」
「そうだね……結論を言うと、貴女に頼みたいことがあるんだ」
国王が自らの足でだけではなく、部下の妻に頼み事をするだなんて。想像もできないで、首をかしげる。
「どこから話せばいいのかな……まず、貴女はロートネジュの子孫には早世する傾向があることは知ってるか?」
場にそぐわない質問に私の表情が硬くなった。いや、むしろこの状況だからこそ投げられた質問だろう。
「前線で戦う、というのも理由……いや、要因の一つだね。だが、それだけではないんだ」
ヴィルト様は深く座り、ひじ掛けに手を置いた。
「竜の血によって、彼らは莫大な魔力と竜化できるようになった。そして、問題はその竜化にある。それを使う度に体が脆くなるんだ。例えると膨れ上がった風船から空気が抜けても、空気を入れたことのない風船には戻れない。薄くなった膜が割れる時を待つだけだ、そんな感じだ」
眠っている旦那様を見つめながら、ヴィルト様は説明を続ける。
「あの事件以来、割れないように、今まで彼は気を付けながら能力を使った。……まあ、ルカのことだから、結構ギリギリまで攻めてるんじゃないかな。それでも、これに備えるために温存はしているはずだ。だけど、この前全身で竜化することで……」
ヴィルト様の視線は私に移った。その瞳はどんな感情を抱いているのか、私にはわからない。それがとても不気味で、これから告げられる言葉に危機感を抱く。
「彼はもう潮時だ」
その言葉に、私は息を飲んだ。床が崩れたかのような錯覚に陥った。
こぼれ落ちた言葉はあまりにも短くて、あまりにも重い。一瞬、呼吸ができなくなるほどの重さだった。
「使わずに戦う分には問題ない。魔力もそうだ。別に、彼が弱体化したわけではないからな。だが、竜化はもう駄目だ。それと、大怪我もね。すると竜の血が本能的に魔力の循環を強めて、無理矢理回復させようとするからね」
「……ヴィルト様は、何故それを私に?」
何故か、彼の説明を周りが口説くように感じる。情報を与えたが、確信である何かをまだ明かしてない。彼のその態度は余計に私の不安を揺さぶる。
彼は私の前まで歩き、懐から取り出した紙束を差し出した。
それは、新聞の号外だった。
そこに書かれた文章を見て、私は大きく目を開いた。
「ルナードが、ゼベランに宣戦布告……?」
「自国の王弟殿下の暗殺と遺体が行方不明になったことを理由にして、な。暗殺が、自分でやったにも関わらず」
「まあ、王弟はどちらかという僕たちと繋がっているからね。そもそも、確かに彼は重症を負ったが、命を取り留めた。向うに回収されたら確実に殺されるから、我々が秘密裏に彼を匿っている」
「結婚式の件もそうだが……六年前といい、今回といい、開戦する理由とあわよくばゼベランとフルメニアの関係を悪化させようとして、本当に回りくどいことをする連中だ」
宣戦布告。即ち、ゼベランとルナードが戦争する。
(そうなると)
首が自然と旦那様の方に向いた。
そうなると、目を覚ますと彼はこの戦争に参加するだろう。体が限界に向かっているにも関わらず。
それでも、ヴィルト様がこうして話した理由がわからない。物事の間に糸が繋がっておらず、目を揺らしながらヴィルト様の様子を窺うことしかできなかった。
「そこで、だ。貴女に彼を前線に参加しないように、説得して欲しい」
「私が、旦那様を?」
「ああ、そうだ。これからゼベランはルナードと戦争する。そこで、彼が竜化しなければいけない場面に出くわすかもしれない。そして、必要であれば、僕は躊躇いもなく彼に命令する。「僕たちのために死んでください」、とね」
背中から緊張感が走る。
それを言った彼は人の上に立つ人の目をしているからだ。
「だが、彼の幼馴染として、彼に死んで欲しくないと思う気持ちも確かだ。可能性が極めて低いが、力を使って生き延びても、おそらくもうそう長くは持たないだろうと、医者がそう診断した。……彼に、戦争が終わるまで眠ってもらえるのが一番いいかもしれないが、おそらくそれはないだろう」
戦争、潮時、長く持たない。
残酷な言葉が次々と増えている。
「確かに彼がいれば、ゼベランの被害が抑えられるだろう。だが、我々はいつまでも竜に縋ってはいけないと思ってね」
「まあ、そのために俺たちは色んな準備をしたんだな。あいつは全く気付いてないようだが」
説明が終わったからなのか、二人の視線の矢先は私に集束した。
その視線と誰も何も言わない空間は非常に居心地悪かった。
彼を説得する? 私が? 遠くからあんなに愛しそうに城下町を眺める彼を?
「多分……いいえ、きっと、無駄だと思います」
「君なら可能性があると思うけどね……それに、「可能性があれば試さないのが勿体ない」、でしたっけ」
「っ!」
「……急なことだけど、考えてみて。どんな結果になっても、僕たちは受け入れるつもりだ。それは貴女とルカが選んだ選択肢だから」
ヴィルト様はポンと軽く私の肩を叩き、そのまま退室した。
部屋の中に、私と眠っている旦那様二人だけが残されている。
結局、その夜眠気が訪れなかった。
頭と体が疲れているはずなのに、目だけが冴えている。
どうしても、今日の出来事がぐるぐると頭の中に回って止まってくれない。
胸が重くなるばかりで、横になるのが辛くなっている。
重くて重くて、不安になった。
旦那様は本当に良くなっているのか。今、彼はまだ息をしているのか。彼の姿をすぐ確認できなくて、不安が弾けた。
暗闇が後ろ向きな感情を強くさせる。これ以上の苦しみに耐えられなくて、体が勝手に動いた。
一目だけでいい。彼がちゃんと息をしていて、あそこにいることを確認したいだけなんだ。そう思いながら、私と彼の部屋を繋ぐ扉を開く。
足音を隠しながら、彼が眠るはずのベッドに近づける。
だけど、そこに彼の姿はない。
呼吸が。頭が。全部痛い。震える手でベッドに触れる。冷たい、温もりを感じない。
彼が目を覚ましたの? そして部屋の外に出たのか? だけど、そんな音は全くしなかった。
どうしよう。彼はどこにいるの?
部屋を出て、廊下を歩いて、下に降りて。
慌てる私の物音に気付いたからなのか、家の皆が起きてしまった。
屋敷中探しても、彼の姿はどこにもなかった。
探していない場所は、残り一つ。
皆の制止を気にせず、私はそのまま本能に従って走った。
ヴィルト様は「もう潮時」と言ったけど、もしかすると彼の体が消えたりとか、そうなってしまうのか?
だったら、さっき確認を取ればよかったのに。
自分自身を責めながら、私は温室に向かう。




