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 いや、獣と呼んでもいいのだろうか。

 だけど、私にはそう呼ばざるを得なかった。

 獣よりも、禍々しい言葉がわからないからだ。


「くそっ、これは駄目なやつだ……おい、お前ら! まだ残っている人達の避難に徹底しろ!!」


 目の前に起きていることから、視線を逸らせない。

 何が起きているのか。状況が呑み込めず、前を見ている。


 吹き飛ばされた方には、旦那様がいない。

 あるのは、大きな大きな生き物だ。人間の何倍もある大きさだ。


 大きな翼、大きな目、大きな口。その中から覗く鋭い牙。

 顔には複数の角が生えて、全身が真っ黒な鱗で包まれている。

 口から出た唸り声がとても低くて、とても不気味だった。

 その生き物から溢れだす魔力はあまりにも濃くて、息が詰まる。


 獣は首を天に伸ばし、空気を震わせるほどに大きく吠えた。


「ちっ、奥さん、後ろの方に避難するぜ!」


 私を引っ張る力に抵抗もできず、そのまま身を任せた。

 途中で何回か足が絡んだ。

 転びそうになっても、視線は暴れ始める獣に釘付けられた。


「よし、とりあえずこれぐらいの距離なら攻撃と魔力に当てられずに済むだろう。おい、奥さん、意識はあるか?」


 誰かが私の頬を軽く叩いた。

 そのおかげで、意識が解放された。


「……アベル、様?」

「おう」

「……あれは?」


 なんとなく、答えがわかった。だけど、それを正解にしたくない。だから質問をした。

 図鑑などで、その生き物に似た絵を見かけたことがあった。

 そして、ゼベランで、その生き物と縁がある人物は一人しか思い浮かばない。


「……ルカだ」

「何で……竜になれるなんて、聞いたことは……」

「ゼベランの秘匿情報だからな。揉み消しに揉み消しをした結果、国の上層部と極僅かの人しか知らないんだよ」


 ため息を交えながら、アベル様は説明を続ける。


「俺が知る限り、ロートネジュの奴らは全員体を部分的に竜化できるんだ。あいつも任務でよくやったし。だが、こうやって全身が竜になるのが、先祖返りが成せる技だろうな」

「でも、どうして、旦那様が急に……」

「ああ、それは俺もはっきりと分からない。こんな騒ぎで暴走するような柔い男じゃないはずだが……っておい!」


 アベル様は私を見ると、突然彼が顔をしかめる。


「奥さん、服についている大量の血はなんだ!? もしかすると、怪我してんのか!?」

「えっ、血?」


 指摘された途端、鉄の香りがする。

 下を見ると言葉を失くした。胸の部分に未だに新鮮な血が大きく広がっている。

 この血は誰の血なのかを思い出すと、体が震え始める。


「え、あ、……これは、旦那様が、私を庇って、手から血が出てて……それで、突然吐血してっ」

「そうか、あいつのか。しかも吐血か……いや、今それを考える場合ではないか」


 アベル様は頭を掻きながら、再び大きなため息を吐いた。


「あくまでも推測だが、おそらくあいつは勘違いしたんだろう。奥さんが大怪我をしたってな。今の状況に相まって、それで感情の手綱を手放してしまったのだろう」

「私が? 何で……」

「はぁ? あー、そうか、そういえばそうだったな。全く、似たもの同士つーことか」


 大きな音が轟いている。竜となった旦那様は今でもまだ暴れている。近くにある建物が壊れ、植物が悲惨な状態になった。

 アベル様は警戒を解かずに、旦那様がいる方向を睨んでいる。腰にある剣を握りしめながら立ち上がった。


「アベル様、もしかすると……」

「そのもしかすると、だ」

「でもっ!」

「こうするしかねぇんだよ。六年前、あいつが暴走した時も、師匠が……先代ロートネジュ公爵がこうやってあいつを止めたんだ」


 よくよく見ると、何人かの騎士が旦那様を囲い込んでいる。いや、既に応戦している方もいる。その光景の先には、最悪な結果が待っているという予感がした。

 駄目だ、絶対駄目だ。どっちも駄目だ。

 その気持ちは私を奮い立たせた。


「待ってください!」

「奥さん? 時間がないんだ。これ以上放置すると被害がどれくらい広がるのか想像したくないんだ。……ルカはそれを一番望んでいないことも、あんたもわかるだろう?」

「わかってます!」


 そして、おそらくそれをやってしまうよりも彼は討伐されることを選ぶだろう。

 震えている足に力を入れて、なんとか立ち上がった。

 それでも考えて。方法を考えて。提案を考えて。絶対ではなくても、可能性のあるものを……!


『奥さんが大怪我をしたってな』


 可能性は、一つある。


「私が行きます」

「はぁ??」

「原因が私なら、私が行きます」

「おいおい、奥さん……さっきも言ったけど、可能性にすぎないだよ?」

「わかってます。……わかってます」


 左手を握りながら、視線を逸らした。

 そんなことは、ないと思うから。だって、もしそれが本当だとしたら、まるで、まるで。


(まるで、彼にとって私は大切な存在みたいじゃないか)


 それでも。


「可能性があれば、試さないのが勿体ないではありませんか?」


 精一杯の強がりの笑顔を見せる。アベル様は口を開けながら瞠目した。


「この身は同盟の証であることを自覚しております。危険や無理だと思えばすぐ諦めます。ですが、せめて試す機会を与えてください」


 アベル様は威嚇するように私を睨むが、纏う笑みを深くした。こちらは引くつもりはないという意思表示。

それを読み取ってくれたのか、彼は大きく息を漏らした。


「……危険だと感じれば、すぐ引き返せよ? それと、俺は後ろについているからな」

「っ! ありがとうございます!」


 よくよく見ると、何人かの騎士がもう戦闘態勢に入っている。

 これ以上時間を無駄にしてはいけないと思い、走り出した。


「奥さん!」


 アベル様の声に、私は振り向いた。

 その切羽詰まった表情で頭を下げた。


「俺の幼馴染を、頼む」


 私は深く頷いた。そして、そのまま前に進む。


 そんなに距離がないはずなのに。でも、何故か走っても走っても彼の元に辿り着かない。

 私の足が遅いからなのか、それとも彼の魔力に飲み込まれまいと体が無意識に抵抗していたからなのか。どちらかはわからないが、それでも私は足を動かした。


 だけど、ある程度距離を縮めると、結局足が言うことを聞かない。

 足だけではない。体全部が固まってしまった。


 彼の周りは、あまりにも悲惨だった。

 倒れる騎士たちが何人かいる。生きているかどうかもわからない。距離を取っている騎士を警戒しているのか、彼は頭を低くしながら唸っている。


「ば、化け物だ……!!」


 怖がって、そう声をあげている人達もいる。

 仕方のないこととはいえ、やはり心が痛い。


 両手を握り、私は息を深く吸う。

 こんなことをしても、何になるだろう。あの夜だってあんなにやっても、何の効果もなかった。

 だが、試す以外の選択肢なんてない。


「旦那様!」


 私の声は周りの喧騒に飲み込まれた。

 彼が一人の騎士を投げ飛ばした。


「旦那様!!」


 大きく声を張っても、周囲の叫び声に掻き消された。

 同僚を威嚇する彼の姿を見て、涙が出そう。


「ルカ様!!!!」


 ありったけの声を全部彼の名前に変換した。


 静寂が訪れる。

 その静けさの中、竜はゆっくりと首を動かした。


 彼は、私を見ている。


 口の中に溜まった唾を飲み込む音も、カチカチと歯が鳴る音も頭の中に響いている。

 竜の瞳に睨まれるのが、とても怖い。まるで捕食者に狙われている獲物になった気分だ。


 だが、私はロートネジュ公爵の妻だ。目の前にいる竜の妻だ。

 だから、私は笑みを作った。余裕の笑みを作った。


「旦那様」


 彼を呼び、一歩進む。

 その代わりに、彼は恐る恐る一歩下がった。魔力も少し弱まった。

 その行動に私は驚いた。だって、この反応は、人間の姿でもよく見た反応だ。


「ふふ」


 何故か、それが面白おかしく感じて、思わず笑ってしまった。

 急に笑った私を見て、あの大きな蜂蜜色の瞳が大きく開いた。

 あっ、これもよく知っている反応だ。


 それを見て、ようやくこの竜は私の旦那様であると、実感が湧いた。


 慎重に、だけど確実に距離を縮める。

 最初は下がっている一方な彼だが、いつの間にか私が辿り着くまで大人しく待ってくれた。


 拳一つの距離まで縮めることができた。この時、魔力はもう全く感じられない。

 土の上に腰をかけ、自然と両手を伸ばす。


「旦那様」


 もし、もし本当に私のせいで暴走するのなら、これ以上壊さないで欲しい。

 私のせいで、彼が今まで築いたものを己の手で破壊しないで欲しい。いや、それと関係なく、壊されたくない。

 その想いを込めて、思いっきり彼の首を抱きしめる。


「私、ここにいますよ」


 竜の耳はどこにあるのかはわからない。だけど、少しでもはっきり感じられるように、できるだけ彼に体を寄せる。私の穏やかな心臓の音が、ちゃんと彼に伝わるように。


『シエラ』


 頭の中で、旦那様の声が私の名前を呼んでいる。

 それは、とても優しい声色だ。

 私がよく知っている声だ。


『シエラ』

「はい」


 撫でながら、それに応じる。


『……シエラ』

「なぁに、旦那様?」


 答えると、彼は頭を私の方にこすりつける。

 人間の姿では絶対に見られない、甘えている彼の姿。


 今まで彼が私を甘やかすように、今は私が彼を甘やかす番だろう。

 そう思いながら、彼が眠りに落ちるまで撫でる手を止めなかった。




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