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※少し加筆しました
※掃除婦の彼女についてさらに加筆しました(2023.07.18)
彼は私が落ち着くまで抱きしめてくれた。
私たちは今どこにいるのかと思い出して、顔を熱くしながら彼から離れた。恐る恐る、周りを一瞥する。
アベル様はニヤニヤしていて、カレンは顔を赤らめている。ファルク様は、何故か目を大きく開いて、驚いた顔をしている。
「ファルク殿下、アベル様、見苦しいことをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「あ、いや。……気にしないで」
その後はとんとん拍子で進んだ。
アベル様が取り調べ室に向かうため、案内が途中で中止となった。
私とカレンは取り調べのために残らないといけないが、ファルク様は宮殿にある客間に戻ることにした。旦那様は彼の護衛をしているため、そのまま一緒に城から宮殿に向かう。
彼と別れる前に、勇気を出して気になったことを聞いた。
今ではないと、機会を失くしてしまうから。
「旦那様、手紙を送ったのが邪魔になったりしませんか?」
私の質問に、彼は僅かに瞠目した。
少しだけ考える素振りを見せた後、私の髪に結ばれた黄色いリボンに軽く触れる。
「待っている」
それだけを言って、彼はファルク様がいる方に向かう。
頬を赤らめた私を残して。
* * *
この数日、雪が降り続ける。ハンナによると、どうやらここから冬が深める一方らしい。
窓から外を見ると、一面が真っ白な雪に覆われている。フルメニアでは一部の地域を除き、あまり見かけられない風景で、とても新鮮だ。
そんな中でも、私と旦那様の文通は途絶えていない。こんな真冬の最中でも、手紙を繋いでくれた方々に感謝しかない。
今日もニコルから手紙を受け取り、それを読むために自室に戻った。
前の手紙だとしたら、アーリャさんのその後も書かれたことがあった。公爵夫人に対する不敬罪により数カ月牢屋に入り、その後掃除婦の仕事を首になり、罰金と共に王都に立ち入り禁止になったそうだ。
実はそれと別に、アベル様から詳細が書かれた書類が送られた。
アーリャさんは北部出身で、六年前の事件で親を亡くした。その後、親戚の家に預けられたが、四ヶ月ほど前家出をし、王都に向かった。転々と日払いの仕事をし、その仕事っぷりでどんな縁の巡り合わせなのか、騎士団の掃除婦に斡旋されたのは最近のことだった。
そんなアーリャさんだが、彼女は異質なほどに旦那様を心酔している。家出の理由は旦那様の結婚を自分の目で確かめたいからというほどに。
報告書の最後にこれから採用する時、より精密に身辺調査をすることと、他国から嫁いだ私に対する謝罪も綴られた。
その件について、旦那様が何回も手紙で申し訳ないと謝罪をした。確かに、彼が理由になったのだが、別にそれは彼のせいではないのに。「気にしないで」や「気にしていない」と返事を書いても、その次の手紙にまた謝罪を匂わせる言葉が書かれている。
どうやら、彼は納得していないみたい。
今回の内容は前のものとほとんど変わらない。
私が書いた質問に対する返事、家の様子に関する質問、問題なく任務を遂行している。変わった所は、言葉は濁されたとはしても、その任務内容について少しだけ触れられるようになった。
ファルク様の護衛任務で家に帰れないが、彼は冬の寒さに負けず、無病息災に過ごしているみたい。
それを知るか知らないかだけで、一日が明るいものになった。
だけど、今日は少し違った。
彼の固い筆跡を追い、手紙を最後まで読むと息を呑んだ。
今までの手紙にはない追伸が書かれている。それを見つけた時に意外だと思ったが、その内容はより予想外だった。
『今年の冬は例年よりも早く深まった。明日から一時的に雪が止むと思われるために緊急、彼の方が帰国することになった。彼に会いたいか?』
何故、旦那様がこう問うのだろう。
もしかすると、ファルク様のことを好いていたことが彼に気付かれたのだろうか。
そう思うと、胸から胃にまで痛みが走った。
あんなに安心感を運んでくれた手紙が私を悩ませるものに一変した。文字情報しかない分、彼の意図を予測するのが更に難しくなった。
だが、彼の筆跡、言葉選び、書いた内容には軽蔑の色が全く含まれていない。そう、思いたいし、そう信じたい。
(だけど、ファルク様と……)
彼と会って、確かめられることがある。
機会は、今しかない。これを逃がすと、次はいつになるのかわからない。
迷いに迷って、万年筆に手を伸ばす。
唾を飲み込み、旦那様への返事を書き始める。
次の日、旦那様は緊張しながら宮殿に辿り着いた私を出迎えた。
いつもなら彼と会えたと胸が小さく躍るが、今日だけはそうはいかない。
夫が私を昔の想い人の元に案内している。
この状況で何をどう感じればいいのだろうか。
最小限に抑えられた会話を交わした後、私たちは沈黙を守りながら歩く。
そのせいで、心臓の音が嫌になるほど耳の中に響く。
思い切って会いに行くと決めたのはいいが、彼と対面する時に、何を言えばいいのだろうか。
そして、万が一、そう万が一。
(もし、ファルク様と話して、私の心がまた揺らいでしまったら)
その時、私は本当の意味で旦那様に軽蔑されるのだろうか。
ここまで来て、ようやくその最悪の可能性に気付いた。
唇を噛むと、彼と繋がれた手にも思わず力が入った。
それに反応したのか、彼は私の手を握り直してくれた。
「あの馬車だ」
宮殿の前に、一台の馬車が止まっている。
あそこに、ファルク様がいる。
「出発する前に少しだけ時間を頂いた」
そう言って、彼は私の手を離した。どうやら、ここから私を一人で行かせるつもりだ。
そのことが、何故か私の心を切なくさせる。
小さく頷いて、私は馬車を近付ける。
中にいるファルク様は私の姿を見かけると、すぐそこから降りた。
昨日はあまりしっかりと見れなかったが、よくよく見ると、彼は前より少し痩せた気がする。だが、リュゼラナの色をしている瞳は相変わらずキラキラと元気に輝いている。それを見て、私の胸が僅かに軽くなった。
「お久しぶりです、殿下」
「……ああ、久しぶりだね、ロートネジュ夫人」
先に会話を始めるのはいいが、これ以上何を話せばいいのか正直まだ思いつかなかった。睡眠不足になるまで考えたが、結局何も捻り出せなかった。
「最後、お会いした時からいかがお過ごしでしょうか?」
「そう、ね。忙しいには変わりはないが、充実に過ごしているよ」
「……お妃様も、フルメニアで快適に過ごしていらっしゃいますか?」
「アクイラか? 彼女はいつも通り元気だね。彼女も今回の視察に同行するつもりだが……」
ファルク様は少し口ごもってから、私を手招きする。昔からの癖で彼に近づくと、小声で秘密が共有された。
「彼女のつわりが酷くてね、それでなんとかフルメニアに止まるように説得した」
「まあ!」
「でも、まだ安定期に入ってないから、ここだけの話、ね」
ファルク様は口の前で人差し指を立てる。妃教育の合間、こっそりと私に飴を渡した時と同じ仕草で、自然と微笑んだ。
だけど、ファルク様とアクイラ様の間にお子様が、とは。とてもめでたい話に私の笑みが深くなるばかりだ。
「君も、元気そうでよかったよ」
ファルク様は優しく微笑みながら私の安否を気にしてくれた。彼のこの所は昔から本当に変わらないな。
「はい、私に至らない所が沢山ありますが、優しく受け入れて下さる方々ばかりです」
「そっか」
彼は満足そうに頷いた。
「ルカ卿とも上手くいったみたいでよかったよ。噂のこともあるからすごく心配したが、実際一緒に過ごしてみると、噂と違って穏やかな人だね」
「は、はい。本当に、私には勿体ないぐらいの、とてもお優しい方、です……」
他者が旦那様の内面を見てくれることに、無性に嬉しくなった。これ以上頬が緩まないように保つことが難しくなったが、やはり嬉しいことは嬉しいものだ。
一生懸命表情を直そうとしたら、「ふふ」とファルク様の笑い声が聞こえた。
「ロートネジュ夫人は顔に出やすいのが昔から変わらないね」
「えっ」
「本当にルカ卿のことが好きだね」
その飾りのない指摘に、顔がさらに熱くなった。そういえば、距離があるとしても、旦那様はこの近くにいるよね。どうしよう、もし顔の熱で湯気などが漂ったりなどすると、どんな言い訳をすればいいのだろうか。
だけど、その熱は胸の奥に潜む不安を刺激する。
「そういう風に、見えますか?」
「「表」では上手に隠せたと思うけど、僕からするとそう見えるよ?」
ファルク様は少し、寂しそうな表情で答えた。両手で頬の熱を冷やしながら首を傾げれば、彼はすぐそれを笑顔で塗り替えた。
「今回の視察、収獲が沢山あって本当によかった」
背伸びをして、ファルク様は宮殿の方に視線を向ける。
「フルメニアが送った物資がちゃんと有効活用されてるし、騎士団まで見させてもらって、すごく面白かった。まさか利き手ではない手で練習を始めたとか。さすがゼベランだと関心したところだ」
それを聞いて、目を大きく開いた。まさか、本当に導入されるとは。
左手で拳を握り、彼の方に振り返りたい気持ちの手綱を握り締める。
「それと、君と再会できて、本当によかった」
「殿下……」
御者が座席から降り、ファルク様に何かを囁く。
それを聞き終わった彼は「そうか、わかった」と答えた。
「じゃあ、ロートネジュ夫人。僕は今から出発するね」
穏やかな笑みを浮かべながら、彼は再び馬車に乗り込んだ。
出発準備をしている馬車の姿を見ても、本当に言いたいことが頭に出てこなかった。
「ねえ、シエラ」
今まで「ロートネジュ夫人」と呼ばれていたのに、突然名前が呼ばれた。
彼の表情は「フルメニア第二王子」から、幼い頃私が好きになった「ファルク」という年上の男性に変わった。
「……あの時言ったら相応しくないし、その後色んな行事で忙しくなって身動きが取れなかったから、伝える機会を逃したけど」
彼は一瞬だけ、哀愁を漂わせた表情をした。目を閉じながら天を仰ぎ、白いため息をついてから視線を再び私に戻した。
「ありがとう、僕の婚約者になってくれて。君にとって辛い想い出の方が多いかもしれないが、頑張ってくれる君の姿を見る度に、僕も頑張れたよ。今の僕がいるのは、君がいるからと言っても過言ではない」
春の太陽のような笑顔でそう告げられた。
私の中に潜む暗闇が一つ、照らされて消え去った気がする。
軽くなった心は笑みを誘う。
「私もです」
あの頃、彼の隣に居られた時は、確かに私は幸せだった。
国のためにあちらこちらを飛び回る彼の姿を見て鼓舞された。だから、全部耐え抜けた。
物がなくても、記憶が残る。大切なものがちゃんと残る。
旦那様が、そう教えてくれたから。
「出発します!」
御者の声と馬の鳴き声が冬空の下に響く。
「結婚式、楽しみにしてる!」
ガラガラと馬車が揺らぐ音と共に、ファルク様は祝福の言葉を残した。
馬車が視界から完全に消えるまで見守ると、誰かが私の隣に近づいてきた。
結局、私は昔、ちゃんとファルク様を慕っていたかどうかを確認できなかった。
昔の感情を確認する術なんて、もう残らなかった。彼を諦めないといけないと決心した日に自らの手で全部燃やしたから。
だから今日、彼と会って確かめようとした。
馬鹿な検証をしようとした自分に呆れて、小さくため息を吐いた。
私は、隣にいる人の方に視線を向ける。
「旦那様、心遣い、本当にありがとうございます」
「……いや」
彼の意図を聞こうとしたが、思い止まった。
答えを聞くのが怖いのもあるが、何よりもまだこうやって彼の隣に立てるという事実を味わいたいから。
静かに時間の流れに身を任せると、冷たい冬の風が頬を撫でる。
小さなくしゃみをすると彼が優しく肩を抱いてくれた。
「君にはゼベランの冬がまだ早いかもしれない」
「そう、みたいですね」
昔の感情は記憶では覚えているけれど、もう二度と確認できない。
少なくとも、私が今感じている想いは確かであるだけは知っている。
彼の隣にいるだけで心臓が高鳴り、そこから温もりが広がる。
彼の魅力が他者に伝わったことに心が踊る。
彼に触れられるだけで、呼吸が苦しくなるほど緊張している。
こうやって隣にいるだけで、幸福で満ちている。
これは嘘ではないし、幻にしたくない。
そう思って、そう信じていると決めた。




