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 私が反応するよりも早く、カレンは立ち上がり、私たちの間に割って入ってきた。


「ロートネジュ夫人に対してその態度は不敬よ」

「……すみませんでした」

「貴女、名前は?」

「……アーリャです。寮の掃除婦をしています」


 背中を見れば伝わるほど、カレンは警戒している。

 今、食堂には私たちしかいなかった。でも、いつ誰が来るのかは分からない。

 第三者がいないことに、介入できる人がいないということ。いたらいたで、人の目を気にしないといけない。特に、彼らに関することは。

 だからなのか、カレンはあまり身動きが取れなかったのだろう。


 女性は謝ったが、それでもそこから去らなかった。

 その赤い目は無言で私を見つめるだけ。

 彼女の視線に、見覚えがある。過去によく向けられる視線に似ている。


 椅子から立ち上がり、社交界に出る時に見せる笑顔を作った。

 手が思わず扇子を広げようとしたが、ここに持ってきないと思い出し、内心少しだけ笑った。


「はい、自国ではそういう風に呼ばれております。まさか、ゼベランにまで届くとは、全く思っておりませんでした」


 人を見た目から判断したくはない。

 だが、服装や彼女の所作から見ると、おそらく平民だろう。貴族が平民に丁寧語で喋るだなんて、フルメニアではとんでもないご法度だ。

 だが、ここは社交界ではない。だから、大丈夫でしょう。


「私に何か御用などありましたか?」


 そう聞くと、彼女の眉間に出来たしわが深くなった。

 それを見て、先ほどの懐かしさの理由がわかった。


 ファルク様の婚約者になった日から、いや、その前からでも味わったものだ。

 嫉妬や怒り。そんな黒い感情が籠った視線は十歳の時から思う存分浴びた。


 あの家は、心地よすぎるのだ。

 彼らが私に与えた優しさはそんな記憶を薄くした。

 だからなのか、忘れてしまった。全員フルメニアの存在を受け入れたわけではないんだ。目の前にいる彼女のような人もいると、生きた証明が提示された。


 警戒しながら、カレンの後ろから彼女の様子を伺う。質問をしてから少しはたったが、彼女は動き一つも見せてくれなかった。

 この場から離れるなら、今だろう。カレンに合図を出そうとしたら、耳が小さな声を拾った。


「……満足ですか?」


 それは、酷く低い声だった。

 女性はその栗色の髪を震わせながら、私を睨む。


「ルカ様の妻になって、彼の足手まといになって、満足ですか? と聞いています」


 急な指摘に私は瞠目しかできなかった。何故、急にここで彼の名前が?

 私の反応を見て、彼女は鼻で笑った。


「当たって答えも出ませんでしたか? そうでしょうね。私はわかっていますからね。「妖精姫」なんて自国でもてはやされた挙句、こちらではロートネジュ夫人と呼ばれて気持ちいいですか? 自尊心が満たされて嬉しいでしょうね」


 沈黙を是と受け取ったのか、彼女の言葉は次々と羅列されている。

 早口で紡がれた言葉の意味はあまりにもでたらめで、思考が停止してしまった。


「貴様!」


 急に動きだそうとしているカレンのおかげで、目が覚めた。

 今にもスリガルの女性を取り押さえようとしたが、ぎゅっと彼女の服を握る。


「カレン、駄目」

「ですが、奥様」

「何? 怒ったの? 事実だからでしょう?」


 勝ち誇ったように、彼女は胸を張って、笑みを深める。

 私達、いや、私に反論をする意図がないとわかったからなのか、彼女は更に畳みかけた。


「それだけではなく、ルカ様のお金も沢山使ってるでしょう? 私は知ってるよ、貴女がよく城下町で買い物をしてたことを。どうせ、今着ている立派なコートだってその金で買ったでしょう? ……何が『妖精姫』だ、ただの見た目だけの金食い妖精じゃありませんか」


 長年の経験から、このような方には沈黙が一番いいと学んだ。

 好きなだけ言わせて、満足させれば、その後枯れた花を捨てるように立ち去るだろう。

 その間に笑顔を纏い、耐えればいい。これは荒波が一番立たない方法だ。


 例え、彼女が言ったことが全部でたらめだとしても。


 呼び名なんて自尊心が満たされたどころか削られただけ。

 お金なんて、いつも皆と話し合ってから最低限しか使わない。孤児院や病院などに寄付する物を買うために城下町に行った。このコートだって、ゼベランの冬に耐えられず、体調を崩すのが心配で母が新調してくれたもの。


(見た目だけで、足手まといのところは、合ってるけどね……)


 それでも、私は言葉を全部呑み込み、嘲笑を綺麗な笑みで覆い隠す。

 いつものように、だ。


「でも」


 先ほどの興奮気味な圧力が幻かのように、その声が小さくなった。


「でも、その代わりに、ルカ様が変わってしまった、変になってしまった」


 その女性、アーリャさんは震えながら言葉の続きを吐き出した。


「物憂げにため息を吐くなんて、彼らしくない。大怪我を負うなんて、彼らしくない。それで一ヶ月も休暇を取るなんて、彼らしくない!」


 段々と声の大きさが増し、最後は叫びになった。


「私は知ってるもん! あの日から六年間、遠くから彼を見たんだから!」


 そう叫び、顔にあらゆるシワを寄せながら私を指差した。


「全部、全部! あんたのせい! あんたがルカ様を変にさせた!」


 その悲痛の叫びを最後にして、アーリャさんは激しく肩で息をしている。

 全部出し切ったからなのか、それ以上何も言わず、食堂に静寂が訪れる。


「なんて、馬鹿な……」


 カレンは、どんな顔で言ったのだろうか。

 私は、気づかずに笑顔を保てなくなった。


 この時、心の中にどんな感情が流れているのか、正直わからない。

 喉まで湧き上がる不快感があったが、二、三回深呼吸をすればそれが和らぐ。


 アーリャさんの嗚咽が聞こえる。

 それに対して、驚くほど心が響かなかった。


「返して……昔のルカ様を、返してよ……」


 その言葉は引き金となった。


「旦那様は、ただの人間です」


 我慢できなかった。できなくなった。

 それでも、冷静に、そして感情的にならないように努力する。

 左手で拳を握り、再び微笑を作る。


「だから、失敗も犯しますし、怪我をしたら休息を取らないといけません」


 その失敗を否定することは、それを改善しようとしてる彼の努力を否定するのと同意義だ。


「ここでご飯を食べるように、悩む時だってあります」


 悩みながら、前に進む。そんな彼の強さがとても眩しかった。

 疲れている時もあり、趣味を嗜む時もある。

 身内を愛し、守る。そんな男だ。


「そんなことは、私よりも長年彼を見ている貴女の方が知っているはずです」


 彼はどこにでもいる、人間だ。

 たまたまロートネジュ家に生まれて、竜の血を濃く継いだ、ただの人間だ。


 何故、こんな当たり前なことを彼女に言わないといけないのだろうか。

 その事実はとてもやるせなくて、胸が苦しい。


「違う、そんなの知らない……そんなの知らない!!」


 いきなり、アーリャさんが大声で叫んだ。

 顔を上げて、今でも涙を流している目でこちらを睨んでいる。


「あんたこそ、何がわかるの!」


 その言葉と同時に、彼女は私に突進した。

 カレンは盾になってくれたため、彼女の手は私に届かなかった。


「六年前! 彼があの荘厳な姿であいつらを殺してから! いつも見ている! いつも想っている! 私が、私が想う彼は! そんなことはしない! 決して!!」


 乱れた息に、憎しみが籠った赤い瞳。

 それに伴い、支離滅裂な言葉を吐き出した。


「何事だ」


 未だに暴れている彼女をカレンから剥がした存在がそう短く問う。

 その姿を確認すると、自然と肩から力が抜けた。

 彼の後ろにはアベル様やファルク様、何人かの衛兵や騎士がいる。


「旦那様」

「っ! ルカ様!」


 アーリャさんは私に固定された視線を外し、旦那様の方に向く。

 彼女の姿を見て、彼は瞠目した後、眉間にシワを寄せた。


「……どういうことだ? 何故掃除婦がシエラを……?」

「閣下! こちらの女性は奥様に無礼を働こうとしていました!」

「違う! 違います、私はただ!」


 二つの主張を前にして、旦那様は私に視線を送った。

 口では答えられず、彼から顔を背ける。


「とりあえず、この女性を取り調べ室に。まず、そこで話を詳しく聞いてくれ」

「はっ!」


 アベル様は周りにいる衛兵に指示を出した。旦那様から離れた彼女は否定の叫びをあげながら衛兵たちと一緒にこの場から去った。

 彼女のその姿を見て、思わず憐れだと感じた。


「……何か、されたのか?」

「……いいえ?」

「……」

「本当ですよ? それに、カレンがちゃんと守ってくれましたよ?」


 ありはしないことを告発されるのはもう慣れた。

 だから、何とも思わない。


「旦那様や皆様は、何故ここに?」

「衛兵に、食堂で君が人に絡まれたと報告を受けたから」

「そう、ですか」


 目撃されたことは、仕方ないことだ。だが、大事にならずに済みそうでほっとした。

 そのせいなのか、体から緊張が解けてしまった。


「あれ?」


 頬に何かが流れる。

 それを手で拭うと、手袋の色が少し濃くなった。


「あれ、おかしいなぁ」


 拭いても拭いても、新しい涙が流れてくるだけ。

 泣くつもりなんて、全くなかったのに。本当に、なんとも思わなかったのに。


「ちょっとだけ、待ってくださいね。大丈夫、大丈夫です。時間がたてば――」


 「自然に止まるはず」、そう言いたかった。

 だが、それを言う前に、衝撃がそれを止めた。

 温もりが私を包み込む。それを感じて、何が起きているのか理解した。


「旦那様……」


 呼びかけても、彼は無言を貫いた。

 返事の代わりに、彼は優しく頭をポンポンと撫でてくれた。


 本当に、彼はズルい人だ。拙い仕草でいとも簡単に私の心を揺さぶる。


 悔しい。

 やっぱり、納得できない。

 全員ではないと、わかっている。でも国民は、こんな優しい人に何ということを押し付けたのか。

 今までは知識として知ったとしても、実際生きた証拠を突きつけられると現実味を浴びる。


 守らないといけないはずの民への怒り。

 それを受け止めらる広い心を持たない自分への怒り。


 その気持ちは涙に変わった。

 結局、彼にそれを受け止めさせてしまった。




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