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ファルク様がここにいる理由が全く見当がつかず、固まってしまった。
彼も驚いたからなのか、目を大きく開いた。
先ほど感じた熱が一気に消え去り、雪が降る音だけが聞こえている。
「奥様?」
後ろからカレンに呼びかけられた。そのおかげで、他の人もここにいると思い出した。
旦那様から一歩下がり、ファルク様の方に体を向ける。
「ファルク殿下、ご機嫌麗しゅう」
カーテシーを取ると、後ろから金属の音がする。おそらく、一緒にいるカレンやアベル様も礼をしているのだろう。
「皆、顔をあげて」
その言葉に奥歯を噛み締める。
許しを得たが、正直顔を上げたくない。どんな顔をすればいいのか、全くわからない。
だけど、顔を上げないといけない。
(なら……)
深呼吸をし、姿勢を正す。
「ご寛大な心、誠にありがとうございます」
口角を僅かにあげて、目元の力を緩める。
やり過ぎないように意識し、相手に目線を合わせる。
幼い頃から徹底的に仕込まれた「妖精姫」らしい笑顔。彼の隣に堂々と立てるように身につけた笑顔。
結局、この場を凌げるための逃げ道はこれしかなかった。
「ルカ、早く戻ったな。今日は殿下の視察を護衛するのではなかったのか?」
「いつ大雪が降ってもおかしくないくらい雲が低かったから、宮殿に戻るように推薦したが、殿下が騎士団をご覧になりたいと仰った」
「今日は」という言葉がとても引っかかった。つまり、ファルク様は数日間ゼベランに滞在した、それとも滞在する予定ということだろうか?
もしかすると旦那様はこの数日間、ファルク様の護衛を務めたからなのでは? だから帰れなかったのか?
目を泳がすと、隣に立っている旦那様と目が合った。何故か、彼は気まずそうにわざとらしく視線を逸らした。
その反応は疑問を抱く私からすると、回答のように見えた。未確定な答えは私の首を絞めている。胸が痛くて、小さく深呼吸しても治ってくれない。
憶測にすぎない。それはわかっている。
ファルク様のような重要人物の護衛任務を秘匿する必要性もわかる。
だが、それとは関係なく、何故か不安が私の胸に絡みつく。
旦那様が、私から目を逸らす理由が思い当たらなくて、胃が重くなった。
だって、全部隠したはずなのに。
過去の想いも、今の想いも、全部。
万が一。万が一知られると、私は……私は――。
「奥さんもどうだ?」
「えっ」
視線を上に向けると、アベル様がじっと私を見下ろしている。
「……アベル」
「別にいいだろう」
旦那様が不服そうな低い声で名前を呼ばれたのに、アベル様はへらへらとそれを躱した。
「あの、どうって、なんでしょうか?」
「ん? 聞かなかったのか? 先ほどファルク殿下が騎士団を見て回りたいと仰ったから、これから殿下を案内するところだ。それでだな、せっかくだから奥さんもどうだ? と聞いてるところ」
「旦那の職場、気になるだろう?」とアベル様は笑いながら追加した。
そう言われて、私は唇を噛みながら目を逸らす。
私は、そんなに顔に出るのだろうか? 本心は、とても気になる。騎士団なんて、フルメニアにいた頃から無縁な場所なんだから。話を聞いたことがあったとしても、直接見たことがない。
ゼベランだけではなく、間接的にもフルメニアを守ってくれる方々は、どんな生活をしているのか。どんな方々がいるのか。
そして、その中で彼はどういう風に過ごしているとかも。
重さはまだ残っているが、胸の中に好奇心がそうはしゃいでいる。
最高責任者である団長の案内付きなんて、こんな機会はあまりないだろう。
だけど、先ほどの旦那様の態度を思い返すと胸の高鳴りが静まり返った。言葉にはしないが、どうやら彼はあまり賛同していないみたい。
「……旦那様はどう思いますか?」
「……気になるのか?」
その質問に素直に頷いた。
「そして、ここは食堂です。三食ここで食べることになります」
「外食などは?」
「外で任務がある場合か休暇を除いて、待機している団員は基本ここで食べます。まあ、休暇中でも結局ここで済ます奴らも多いですけどね」
「なるほどね」
後ろからファルク様とアベル様のやり取りを見守っている。
時折ファルク様の存在が気になって、ついついと盗み見した。彼の横顔が元気そうで、安堵を感じる。
そして、そんな落ち着きがない私の隣には旦那様がいる。
内部ではない人がいるからなのか、いらっしゃる団員の方々からの視線を感じる。
慣れているはずなのに、何故か今回はものすごく居心地悪かった。
「旦那様も、いつもここで昼食を?」
「……ああ」
私たちの間に交わされた会話はそれで終わった。
アベル様が施設の説明をしたあと、それについて彼に問う。彼がそれに短く応えて、そして終わる。
まるで、彼と結婚した直後の会話だ。その逆戻りは更に私を落ち込ませる。
もしかすると、呆られた、のだろうか。許可をしてくれたとはいえ、最初はあまりよく思っていないみたいだから。もしそうだとすると、我が儘なんて言わずに、誘われた時点で屋敷に戻ればよかったのに。
空気が吸い辛くて、胸が苦しい。
いつもよりも苦しい。
彼への想いを自覚してからこうだ。
体を固まらせる緊張も、日々膨張する不安も、首を絞める恐怖も。彼の隣にいるだけで私は苛まれる。
時折、知らないままでいれば、そう思ってしまう。あの塊を形を成さないまま、友情や親愛などのような布で覆いかぶせたらどれ程よかったのか。
そうすれば、こんなに苦しまずに済む。
罪悪感なんて抱えず、彼の隣で笑えるのに。
「奥様」
カレンの声で、深く潜った意識が浮上した。
気が付けば、私はカレンと二人だけ食堂の席に座る。
「あれ、皆様は……」
「今皆さんは浴室を見に行くところです。あの、男女別々ですので……」
「あ、なるほど」
そんな話、全く聞き覚えがなかった。
また、やってしまった。この、思わず考え込む癖を直すのが本当に難しい。お姉様はいい事だとよく褒めてくれたけど、これはさすがに駄目だ。
中々変わらない自分に呆れて、思わずため息を吐いた。
「奥様、疲れていますか? ここに着いてから立ちっぱなしなんですもんね」
「そう、だね。一度座ると疲れが一気に来た、という感じかな」
訓練所に、団員の寮、武器庫に厩舎まで。どちらも訪れることのない場所で、とても新鮮だった。
意図的に環境を整えすぎないように意識され、過酷な状況でも戦えるようにしているなど、戦が多い国ならではの発想だろうか。
男女も貴族や平民も隔たりなく所属し、皆が支え合いながら一体になる。そのような雰囲気を感じさせる。
そんな同僚達を眺めている時の旦那様の瞳もものすごく穏やかで、彼がどれ程この騎士団を誇りに思っているのが伝わった。
「この席は懐かしいなぁ。今奥様の護衛をしているから、あの昼食の風景を見る機会あまりなかったんですね」
「懐かしい?」
首を傾げれば、カレンが悪戯っぽくニヤッと笑う。
その笑顔はアベル様のそれととても似ているから、身構えてしまう。
「実はですね、ここは閣下専用の席ですよ」
「旦那様の?」
食堂の隅にある席。隣には大きな窓があり、外の景色が見える。
確かに、心地よい空間かもしれない。
「専用はちょっと言い過ぎかもしれませんが、大体はいつもここで座っています。団員の皆もそれを知ってて、閣下がいる時にいつもこっそりと空けるようにしてるんですよ」
「バレたら絶対嫌な顔をしてしまいますからね」とカレンは頭をかきながら言った。
そうか、彼がここに。
ここに座って、彼は何を食べたのだろうか。拘りはあまりないみたいだが、甘い物が好きだと知っている。
どんな気持ちで窓の外を眺めているのだろうか。窓の先に見える小さな自然を見て、それを堪能しているのかな。ここから日が差すと、さぞ心地よいだろう。
彼がここで生活していると想像するだけで、自然と頬が緩む。
それだけではなく、周りの皆も彼を大切にしてくれていると聞くと心が温まる。
彼への感情に苦しみが伴う。
でも、おそらく過去に戻っても結局私はこの感情を育てることを選ぶのだろう。
だって、こうやって彼のことを想うだけで、胸の中に開いた大きな穴が満たされるから。
(もう、後戻りなんかできないよね)
知ってしまったもの。苦しいだけではないと。
この感情の甘酸っぱさも暖かさも味わってしまったもの。
この二つのものは表裏一体で、片方だけ選べないことも。
なら、まとめて全部受け止めるしかない。
それだけ、だよね。
全部、私が選択をした結果なんだから。
「カレンは? 食堂ではいつも何を食べるの?」
「私はですね……」
カレンのおかげで、気分が晴れた。一緒に浮上したのが好奇心だった。もしかすると、彼女が私のことを気遣った上に話題を提供してくれたのだろう。
カレンの話に耳を傾き、気になるところに質問を投げる。彼女は嫌な顔を一つもせず、満面な笑顔で応えてくれた。
(ありがとう、カレン)
本当に、優しくて、春の太陽のような彼女に感謝してもしきれてないな気がする。
そうやって殿方達の戻りを待つと、突然影が差した。
その変化に気付き、顔を上げる。
そこには、一人の女性が私たちを見下ろしている。
「ね、貴女があの「フルメニアの妖精姫」なの?」




