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 手には年季を感じさせる毛皮のコート。

 周りには声を上げながら剣や槍、弓を使い練習をしている殿方たち。

 熱気的な雰囲気に圧倒されそうだが、なんとか笑顔を保つ。


 私は、知らない世界の入口を潜った。

 ニコルのような大人しい殿方はまだしも、血気盛んな方にはあまり慣れていない。

 一歩踏み出せない気持ちと未知の世界に対する好奇心が相まって私をわからなくさせる。


 目の前に立っている背の高い殿方は固まった私に構わず、


「貴女はルカの奥さんか?」


 満面の笑みを浮かべながら言った。


「お噂はかねがね伺っていますよ、ロートネジュ夫人」


 ……本当に、どうしてこうなったのだろうか。

 そう思うと、脳内に約二時間前の記憶が蘇った。




* * *




「旦那様の荷物を?」

「ええ。昨日から急に冷え込んでおりましたので。それに、空模様を見ると、いつ雪が降ってもおかしくはありません」


 それがニコルの『頼み事』だった。

 どうやら、私にだけではなく、旦那様はニコルにも手紙を送ったようだ。

 その内容は着替えやコート、冬用の装備品を城に届けてもらうという指示だった。

 騎士団はそういうものが支給されず、いつも自前の物を用意しないといけなかったらしい。


「最近、このニコルも年をとったせいか、寒さが骨にまで沁みました。この寒さで外に出ると骨が折れてしまうでしょう。ですので、私の代わりに坊ちゃまに荷物を届けに行ってまいりませんか?」


 彼は大袈裟なほどに体を震わせる。

 彼の言葉と身振りを見ると、思わず口を尖らせた。


 ニコルって、本当に口が回る人だな。

 昨日、二階の窓から見た。薄着で外の掃除をしている彼の姿。室内で目撃したにもかかわらず、思わず体を擦る程の寒そうな格好だった。


 そんな私を見て、ニコルは再び笑った。


「奥様、会いたい気持ちには特別な理由なんて必要ありません。ですが、会いに行くための理由が必要とされる場合もあります」


 私は、そんなにわかりやすいのだろうか?

 何故か、ニコルに心の底まで見抜かれた気がする。

 今、私の顔は絶対赤いだろう。だって、ものすごく熱いんだから。


「まあ、急なことでもありますので、坊ちゃまが城にいるかどうかわかりませんが……どうでしょうか、奥様?」


 こんな魅力的な誘い文句に、私は頷くことしかできなかった。




* * *




 その後、ニコルはテキパキと準備を進めた。

 気が付けば、ここに嫁ぐ前に母が新調してくれたうさぎの毛皮のコートに袖を通して、そのままカレンと一緒に馬車に乗った。

 城との距離が縮めれば縮める程、心臓が煩くなる。

 それを誤魔化すために、馬車の窓から景色を眺めている。何故かわからないが、カレンがとてもニコニコしている。

 城に辿り着き、城門で検問を受けたらあっさりと入る許可が下りた。

 勝手を知るカレンに案内され、訓練所を通り抜け、騎士の方々が住む別棟に向かい――。


 そして、今に至る。


 好奇の眼差しを向けられたこと自体は慣れている。実際、ここに着いた瞬間から視線を感じている。

 だけど、この距離間では初めてだ。

 あまりにも近くて、反射的に笑顔で自分を守る。


「ちょっと、お兄ちゃん! 奥様から離れてくださいよ! 自分のがたいの良さを自覚してください!」

「おっと、それはすまない」


 カレンが割って入った瞬間、肩から力が抜けた。

 呼吸を整える隙が出来て、ようやく余裕を取り戻せた。


「カレン、この方は?」

「あ、そうですね。奥様、こちらはゼベランが誇る騎士団の団長、アベル・ヴェセリーです。ついでに私の兄です」

「おう、よろしく」


 彼――アベル様は白い歯を見せながら大胆に笑った。その笑みは、どこか人懐っこさを感じさせる。

 栗色の髪に黒い瞳。彼を見上げる時の首の角度からすると、旦那様よりも身長が高い気がする。


「さてっと、奥さんとカレンは何でここに? 宮殿はまだしも、騎士団に用とかあるのか?」

「あれ? お兄ちゃんは閣下から聞いてませんか? 閣下の荷物を届けに来たんですよ!」

「荷物? ……ああ、なるほどな」


 カレンが持っている大きなトランクを見て、アベル様は納得したかのように頷いた。


「でも、残念だな。あいつは今ここにいないよ」

「そう、ですか」


 ほっとしたと同時に肩を落とした。

 やはり、そうは上手くいかないものだな。


「ではアベル様、旦那様の荷物を誰に預ければいいのでしょうか?」

「旦那様って、おい、マジかよ……これは聞いてないな」

「アベル様?」

「あっ、ああー、なんでもない。荷物は俺が預けるか。……いや、ちょっと待ってよ」


 アベル様が何かを考え込んでいるように口に手を当てた。

 真剣そうに眉間に皺を寄せていると思いきや、急ににやつき始める。


「なあ、奥さん、あいつの部屋まで荷物を運ぶのを手伝ってくれないか?」

「えっ、旦那様の部屋、ですか? そ、そんなの駄目ですよ!」


 部屋なんて、とんでもない。個人的な空間で、他人が無闇に入ってはいけない領域だ。

 屋敷での彼の部屋ですら、今まで二回しか入ったことがない。一度目はどうしようもなくて、二回目は不可抗力で。


「いいって、いいって。団長がいいって言ったから。ほら、こっちだ」

「あ、待ってください、アベル様!」


 私の制止を気にせず、アベル様は身を翻し、そのまま歩きだした。

 嵐が過ぎ去ったかのように、私は言葉をなくしたまま立ち尽くしている。


「こうなると、兄は人の話をあまり聞きませんので、素直に諦めましょう、奥様」


 若干諦めた気味のカレンが進むように促した。

 一方、アベル様がある程度距離が離れるとその歩みを止めて、私達の方に体を向かせる。


 前門のワイバーン、後門のウルフにならず、前門の騎士団長、後門の護衛騎士。

 逃げ場をなくした私は前に進むことしか出来なかった。


 カレンの元気な説明を受けながらアベル様を追いかける。あまり言動不審にならないように意識して歩くと、長い廊下の終わりにたどり着いた。


「ここはルカの部屋だ」


 迷う暇も与えず、アベル様は扉を開ける。

 その中から、私がよく知る森の香りと花の香りが混じり漂っている。

 扉の向こう側はとても殺風景だ。寝泊まりをするための必要最低限の家具しか置いていない。


 だが、そんな灰色の空間の中に、所々鮮やかな色が咲いている。


「うそ……」


 小さな机の上には本がある。その本からはみ出したのが、押し花で作られた青いリボンがついている栞だった。

 それだけではない。

 試しに作った黄色い押し花の手芸品が額に入れられて飾られた。

 ベッドの上には紫の刺繍した袋で作られたサシェが置いてある。香りなんて、もうしないはずなのに。だって、これは何ヶ月も前に贈ったものなんだから。


 私が贈ったものが、彼の空間の中に溶けこんでいる。

 その事実は私の心をいっぱいにさせる。


 嬉しくて恥ずかしくて。でもやっぱり嬉しい。

 こんなに、大切にしてくれるなんて。

 どんなに祝福をかけようとも失敗しているものばかりなのに。

 私から零れ落ちたものを大切にしてくれる彼への気持ちが大きくなるばかりだ。


 もうこれ以上この空間の中にはいられない。

 このままだと、更なる深い沼に溺れそうで怖い。せっかくある程度落ち着きが取り戻せたのに、全部台無しになっちゃう。

 急いで彼のベッドにコートを畳み、部屋から出た。


「どう? 来てよかった?」

「……アベル様って、団員の方々によく意地悪と言われたりしますか?」

「おっ、よくわかるな」


 熱くなった顔を見られたくはなくて、早足で外を目指す。

 カレンの慌てる声が聞こえるが、それに構う余裕なんてなかった。

 行儀悪く広い場所に辿り着くと、曇天から真っ白い粉雪が降っている。


 よかった、ちゃんと荷物を届けた。

 これなら、彼が冬の寒さに苦しめられずに済むでしょう。


 久々に見たそれに惹かれて、手を伸ばす。

 体に落ちる雪はとても冷たくて、私の熱を流す。

 このまま真っ白い粉雪が私の気持ちも覆い隠してくれたら、どれくらい楽になれるだろうか。





「シエラ!」


 耳に馴染む声が私の名前を呼んでいる。

 声が聞こえる方角に視線を向けると、あの人がいる。


「旦那様……」


 彼の姿を確認した後、自然と足が動いた。早く次へと次へと踏みたくなる気持ちを堪えながら、彼との距離を縮める。

 彼も急いで私の方に歩み寄った。


 ああ、どうしよう。

 一週間ぶりの彼だ。出迎える時のためにセリフを散々用意したのに、彼を見ると全部彼方に飛ばされた。

 「お帰りなさい」とか「無事でよかった」とか、色々あるじゃない。


「何故、君がここに?」

「旦那様の荷物を、届けに来ました」

「荷物? ……ああ、ニコルに頼んだ物か。でも、何故君がっ」


 質問の途中で、彼は目を大きく開いた。

 急なことに小首を傾げる。

 そんな私に、彼は苦い顔をしながら手を伸ばす。


「髪に雪が……」


 彼は私の頭に積もった雪を優しく払う。

 そして、温めるかのように、両手で私の冷えた頬を包む。それは酷く優しいものだった。


「それに、頬が赤い。耳まで……」


 彼の指は私の琴線を揺らす。

 彼の部屋、彼の温もりは私を大胆にさせる。

 そっと、彼の手の上に私の手を重ねる。

 大きな手のひらに頬をぐりぐりと当てる。手袋越しでも、とても暖かい。


「ゼベランの雪が、とても冷たいですから」


 赤くなったのが寒さのせいなのか、彼のせいなのか。

 そんなのがわからない。

 だけど、雪が降ってくれた。

 それが、一つの答えなのではないだろうか。


 自分を正当化し、彼の熱を堪能する。

 胸の中に抱えている塊が止めどなく「好き」と響いている。口から想いが零れそうで、我慢するのが難しくなる。

 ここまでだ、これ以上は駄目だと自分を律して身を離そうとしたら――。


「ルカ卿?」


 その声は心に真水を浴びさせた。

 知っている声だ。今でも、時々まだ夢に現れる人の声。

 彼はここにいるはずがない。

 だって、彼はフルメニアにいるはずなんだから。

 恐る恐ると、声が聞こえる先に視線を移す。


「……シエラ?」


 彼は確かにそこにいる。


「ファルク、様?」




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