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ルカ視点です
温室の中に、コスモスが健気に咲いている。
見頃な一輪を選び、ハサミを入れる。
(すまない……ありがとう)
切られてもなお瑞々しく咲いているコスモス。それを見て、彼女の顔が脳裏によぎる。
コスモスのように笑う、彼女の笑顔。
あの日から、彼女の笑みは少し変わった。言葉にするのは難しいが、確かにそう感じた。
彼女の変化に、何故か喜んでいる自分もいる。そしてその都度、思わず彼女に触れてしまった。想い人のある女性にしてはいけない行いだ。
反省しているはずなのに、一度触れれば次を欲しがってしまうせいで中々上手くできなかった。
夫婦になれなくても、俺たちはいい関係を築いている。俺はそう思う。
知らないことがあれば聞き、伝えたいことがあれば話す。
きっかけを与えてくれた彼女に、心から感謝している。
でも最近は、彼女の様子がおかしい。おかしいというよりは彼女は少し昔のように戻ったと言ったほうが近いかもしれない。
笑顔は相変わらず綺麗だが、仮面のような平淡なものになった気がする。
だが、完全に戻ったというわけではない。
時折、急に顔を赤らめて、俺が贈ったリボンを左手で弄る。その後、高確率で彼女は俺の前から逃げる。彼女のその仕草、その表情は、俺の胸をかき乱す。
その小さな背中を追いかけたい。捕まえたい。あの表情を、もっとじっくり見たい。
その猟奇的な衝動をなんとか我慢した。ぐっとこらえることができて、本当によかった。
もう二度と、彼女にあんな思いをさせるわけにはいかない。
思えば、いよいよ冬が本番になった。王都はゼベランの南にあったとしても、フルメニアの冬よりは寒い。ここに来てから一年も満たない彼女がそれで体調を崩したのではないかと思うと、背中に冷や汗が流れる。
ソフィに彼女の体調について聞くと、問題ないという返答と何故か残念な生き物を見ているような目で見られた。
混乱したあまりに、思わず真夜中に見舞いしに来た幼馴染でもある騎士団長に相談を持ちかけた。
色々誤魔化しながら話すと、彼が「何だよ、ただの惚気かよ! 真面目に聞いて損した!!」と大声を上げたのも理解できない。
問題はそれだけではない。
微笑んでいながらも、強く握られた左手。噛まれる唇と皺を寄せる眉間。
小さな変化だったが、俺の心に鮮明な爪痕を残した。
彼女に訳を聞いても、笑顔で誤魔化された。それでも聞きだそうとしても、彼女の態度が固くなり、より辛そうにしてるだけと、経験から学んだ。
彼女を問い詰めたいわけではない。だから、途中でいつも諦めた。
現状がもどかしくて、やるせなかった。
(あの頃、彼女もこんな気持ちになったのだろうか)
過去に今の彼女のような態度を取ったことは、今でもまだ覚えている。
彼女にもこれと似たような心境にさせたと想像すると、申し訳なさ胸を重くさせる。
ため息を吐き、下処理をしたコスモスを持って屋敷に戻る。
「ソフィ」
「おはようございます、坊ちゃま。あら、これは今日のお花ですか?」
「ああ」
花をソフィに渡したら、彼女は素直にそれを受け取った。
最初は「自分で渡しなさい」と呆れたソフィだが、近頃当たり前のように花を届けてくれた。むしろ、「もうすぐ枯れるから、次を用意した方がいいではありませんか?」と催促するようになった。
そんな頼りになる幼馴染には、いつも感謝している。
「坊ちゃま」
ニコルと話すためにそのまま書斎に向かおうとしたら、ソフィに呼び止められた。
最近、にやけながら頼み事を聞いてくれたソフィだが、今日の表情は少し曇っている。
「最近、奥様の様子が少し変です……坊ちゃま、心当たりとかはありますか?」
「それは……」
「もしかすると、坊ちゃまがまた前みたいに奥様に変なことを言って困らせたりしていますか?」
「……いや、そんなことは……しない努力はした」
俺の返事にソフィは疑いの目を向けた。それに耐えて何秒、彼女は小さくため息をつく。
「奥様が嫁いでから半年くらいたちまして、ようやく私たちに心を開いてくれたのに……ここはご自分の家だと伸び伸びと寛げたと思い矢先、またぎこちなくなりまして……振り出しに戻ったまではいかないけど、このままでは……」
ソフィがぐっと顔を歪ませる。
「胸がざわついてて、不安になります……」
前向きな性格をしているソフィから出る言葉だと思えないくらい弱弱しい声色だった。
「……では、これから奥様を起こしにいってきます」
ソフィを見送り、書斎の中に入る。
大きな窓の前に置かれた椅子に背中を預け、先ほどから我慢していた大きなため息を漏らした。
(変なこと、か)
ソフィの言葉に、晩秋祭りの夜の出来事が頭に浮かんだ。
あの話を、彼女にするつもりはなかった。
いや、もう知った以上、隠すつもりもなかった。だが、わざわざ彼女にゼベランの国民のやったことをできれば話したくないだけだ。彼女に、ゼベランのことを誤解をさせたくないからだ。
あの夜、あんな辛そうな声で問いかけられた。
それは、彼女がどれくらい納得できなかったのかを物語っている。
だから、誤解を解くために話した。
あの噂は、事実であると。
だから、そんな顔をしないで欲しい。
事実が知られたことに、彼女に怖がられることも考えてはいる。
だが、それに関しては大丈夫だろう。もし、怖がられても結婚式は上手くいくだろう。彼女のことを、信じているから。
そうなったとしても、俺が彼女から距離を取れば……。
そう思うと、胸が奥からチリチリと痛みだす。
同時に、彼女が真実を受け止めたことに俺がどれくらい安堵したのかを実感した。
ああ、そうか。あの時俺ははとても嬉しかったのか。
おそらく、彼女は納得できなかっただろう。それでも、彼女は俺の想いをそのまま受け止めてくれた。
哀れみや憂色を帯びていない表情で俺を見つめてくれた。
話を聞いた後の静かで柔らかい笑みで俺はどれくらい救われたのか、想像はできないだろう。
だからこそ、現状が余計にもどかしく感じる。
彼女の手助けになれなくて、すごく歯がゆい。
胸に溜まった蟠りを解くために、もう一度深いため息を吐いた。
「おや、坊ちゃま。とても長いため息ですね」
「ん? ああ、ニコルか」
気が付けば、ニコルは俺の隣に立っている。
そういえば、今後のことを話すために彼を呼んだ。悩みごとに囚われ、それを忘れた自分は本当にまだまだ未熟だ。
「ニコル、明日から俺は仕事を復帰する」
「それはまた……急なことでございますね」
「いや、昨日医者が完治と診断した。これ以上休む理由がない。それに、これ以上休むと勘が鈍る」
「左様、ですか」
診断結果も知っているはずのニコルは無表情な顔で頷いた。
長年彼と生きた俺にはわかる。こういう時、ニコルは納得できない感情を我慢する時の表情なんだ。
彼の表情を見て、気分が少し暗くなった。
俺にとって、ニコルとハンナは祖父母のような存在だ。そんな彼らをいつも我慢させたと思うと、罪悪感が募るばかりだ。
「では、明日坊ちゃまが登城できるように準備をいたします」
「ありがとう」
「それと、坊ちゃま。あの方からの手紙が届きました」
差し出された手紙には宛名など書かれていない。だが、僅かに漂っているヒノキの香りは差出人を暗示している。
手紙を受け取ると、ニコルはそれ以上何も言わず退室した。
一人しかいない空間の中で、もう一人の幼馴染からの手紙をペーパーナイフで開ける。
書かれた内容を読み進めると、自然とフッと笑う。
どうやら、俺が騎士団に戻ろうとしている所が読まれたみたい。
「僕の命令なら、家の人達は文句言えないよね?」という文章は、如何にも彼らしい。
実は、問題なく体を動かせるようになった直後、仕事に復帰したかった。今までそうしたように、だ。
だが、ハンナやソフィの心配そうな顔を見ると、反射的に口を閉じた。
無理もない。久々の大怪我だった。
それに、何年間も彼らを俺の我が儘に付き合わせた。そう思うと、言葉を飲み込むことしかできなかった。
そして――。
『旦那様』
彼女の声が耳の中に響く。
彼女と過ごす時間があまりにも心地よかった。
こんなに長時間彼女と時間を共有するのは初めてだった。
その時間はむず痒くて、暖かかった。
まだ、彼女の隣にいたい。ニコルの報告からだけではなく、近くから彼女の姿を見守りたい。
その温もりから離れないといけないのが、少し残念だ。
それに、今の彼女から距離を取るのはいいかもしれない。
周りから見ると、どうやら彼女の態度の変化は俺と一緒にいる時に顕著になるみたいだから。
「……」
嘲笑を浮かべながら、手紙に視線を戻した。
私信であるため、さほど重要なことが書かれていない。
いつも通りの愚痴や変哲もない話が綴られると思いきや、追伸をみた瞬間、俺の体が凍った。
『そういえば、妹の旦那さんが近いうち、ここに来る予定なんだ。なんかお前とお前の奥さんの様子が気になっているみたいよ?』
静かな書斎の中に、紙が擦れる音が嫌というほど響いている。




