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 想いが形になった日から、私はさらにおかしくなった。

 本を読んでも、頭に彼のことがよぎる。刺繍を刺しても、彼の好きな色について考えてしまう。

 彼と目が合うだけで頬が熱くなり、ついつい露骨に視線を逸らした。

 夜も彼と共有している一日の記憶を辿りながら眠りにつく。夢にまで現れなかったのがよかったのか、よくはなかったのか。


 いつも楽しみにしているご飯の時間ですら、楽しめなくなっている。

 何故なら、噛んでも味があまりしないから。せっかくハンナが腕を振るってくれたのに、緊張と羞恥でとても苦しい。

 申し訳なさで肩を落とし、小さくため息を吐いた。


 ふっと、森の香りがした。


「何があったのか?」

「へっ?」


 目を開けると、すぐそこに彼がいる。膝を折り、下から私の顔を覗いている。


「な、なんでもないです」

「……」


 無言の威圧は心臓に悪い。まさか、こういう風にじーっと見つめられるのはこんなに辛いものだと知らなかった。


「……本当ですよ?」


 精一杯元気な笑顔を作り、彼の問いを凌ぐ。

 答えを変えるつもりはないという意思が伝わったのか、彼は立ち上がる。

 逃がしてくれたことにほっと胸を撫でおろした。


 だが、彼は簡単に私の期待を裏切る。


「今日も、付けてくれたのか」


 彼の手は私の頬に、正確に言うと横髪に触れる。もっと正確にいうと、横髪に結ばれたリボンを。


「き、昨日、青の方にしましたので」

「そうか」


 ようやく解放されるかと思ったのに、彼の手は未だにリボンに触れている。

 空気の揺れからわかる。見なくてもわかる。

 彼が時折そのリボンを軽く引っ張ったり、巻いたり、揺らしたり。


 嬉しそうに細められた目を見ると、私の心は限界を向かえた。それが直接私に向けられなくても。

 逃げるために言い訳を言うために、残っている声を絞り出した。


「あ、あの、旦那様、私っ!」

「…………すまない。温室に行く」


 いってらっしゃいを言う隙も与えず、彼はずかずかと少し乱暴な足取りでダイニングを出た。

 それを見守るしかできない私だが、背中から視線を感じる。

 振り返れば、ソフィやハンナ、カレンやニコルがニコニコしている。彼らの笑顔は私の羞恥心に更なる刺激を与えた。


 今度こそもうここにいるのが耐えられなくて、旦那様のように急いでダイニングから逃亡した。

 ふわふわとした足でなんとか階段を登り切って、自分の部屋に戻る。

 カレンを外に待機させたら、何故か生暖かい笑顔で了承された。納得できないわ。


 それはそれとして、もう立てる元気がない。ソフィが整えてくれたベッドに思いっきり体を投げる。

 暖炉が付けられていない部屋が少し冷えている。行儀悪く体を毛布で包まり、ベッドの上に転がる。今は別にいいよね。誰も見ていないから。


 私は、彼が好き。ルカ・ロートネジュが好き。

 この想いを自覚してから、母親に見せたくないくらい私の調子が狂った。笑顔も綺麗に作れず、先ほどみたいに逃げたりもした。勉強も頭に入らない。


 彼の前では、いつも余裕を失くしてしまう。

 こうやって部屋に逃げ込んだのは何回目だろうか。まだ両手で数えられるくらいの回数、のはず。

 このままじゃ行けないと分かっている。これじゃ、まるで振り出しに戻ったみたいではないか。民の前でこんな恥を晒すわけにはいかない。もっと、仲睦まじい私たちの姿を見せないと。


(でも、結婚式か……)


 ファルク様と挙げられない、結婚式。

 今度こそ、好きな人と結婚式が挙げられる、かもしれない。


 そう、一瞬気分が浮かびあがったが、すぐに萎んだ。

 首だけ動かして、机に視線を向ける。

 その上には、青い封筒が置いてある。


「……ねえ、お姉様。好きって、なんだろう」


 天井に向かって呟いた。姉に問いかけても、答えが帰ってこない。

 それは当然のことだ。だって、お姉様はここにいないだもの。

 ただ、お姉様に問いたくなるほど、私は迷い込んでいる。


 私は、六年間もファルク様のことを慕っている。だけど、その感情が一年も満たずに移った。

 その事実は、私の心を揺さぶる。


 不安なんだ。

 六年は決して短い期間ではない。想い出だって沢山詰まっている。

 あんなに大切に育てた気持ちのはずなのに、こうやって簡単に植え変えられるものだろうか。


(私って、本当にファルク様のことが好きなんだろうか?)


 この疑問は頭に潜んで消えてくれない。

 ちゃんと、好きだった。彼の隣にいる時の胸の高鳴りや幸福感は偽りではなかった。

 そのはずなのに。

 でも、それがこうやって変わった。これも紛れもなく事実なんだ。


 信じていることと経験していることが矛盾して、蟠りが重くなるばかりだ。

 だって、その疑問はそこで終わるわけではないから。


(それなら、私は本当に旦那様のことが好きなんだろうか……)


 もし私は旦那様から離れて、他の男と過ごさないといけないとなれば? 彼もファルク様や旦那様のように私を大切にしてくれたら?

 私はまた、心変わりするのだろうか? もしそうだとすると、私はこんなにも軽い女なのだろうか?


(もし、違うとしたら……)


 私の六年間が否定された気分だ。そして、これからの気持ちともろともに。

 そう考えると、どんよりと曇り空のような気分になる。

 追い打ちをかけるように、もう一つ、私の不安を膨らませることがある。


 妖精というのは、移り変わりやすい存在。その血を濃く受け継いだアルブル家の娘である私。

 一方、竜というのは一途な存在。先祖返りによりその血が濃くなった彼。


(彼に知られたら、軽蔑されるかもしれない)


 その可能性に辿りつき、額から冷や汗が流れる。

 たかが可能性、されど可能性。

 不確かなままであれば、その可能性は永遠に存在する。


 では、確認するのが一番いい答えではないか。

 彼と話し合って、白黒をはっきりさせればいいのではないか。


(でも……)


 確認したものの、本当に軽蔑されたら? 軽蔑されるまま彼の隣で生きていけるのか?


(私は……)


 視界の隅には黄色いリボンがみえる。彼の瞳を想起させる色。

 あの瞳が軽蔑の色に染められると想像するだけで、手がこんなに震えている。


「……ふふ」


 私はいつもこうだな。

 気になるのに、確かめる勇気がない。傷つくのが怖くて、いつも「でも」や「だって」、言い訳ばかり並べている。


 あの祭りの夜、彼は私に心の一部をみせてくれたのに。私は未だに、それを隠し続けている。

 本当に、私は臆病で身勝手で我が儘。

 そんな私が選べる選択肢なんて、一つしかない。


 隠すしかない。

 彼に気付かれないように、上手く笑顔で覆い隠すしかない。


(好きな人と結婚できるとか、そういう問題じゃない)


 この結婚式は、同盟にとって一つ大切な「催し」だ。

 貴族として、それを完璧にこなさないと。


 そう決心して、私は体を起こした。

 気合を入れるために、両手で頬を軽く叩く。


「……よし!」


 ベッドから降りて、扉に向かう。


(さあ、「普通」の日常に戻らないと)


 意思を固めて、私は扉を開く。





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