21
想いが形になった日から、私はさらにおかしくなった。
本を読んでも、頭に彼のことがよぎる。刺繍を刺しても、彼の好きな色について考えてしまう。
彼と目が合うだけで頬が熱くなり、ついつい露骨に視線を逸らした。
夜も彼と共有している一日の記憶を辿りながら眠りにつく。夢にまで現れなかったのがよかったのか、よくはなかったのか。
いつも楽しみにしているご飯の時間ですら、楽しめなくなっている。
何故なら、噛んでも味があまりしないから。せっかくハンナが腕を振るってくれたのに、緊張と羞恥でとても苦しい。
申し訳なさで肩を落とし、小さくため息を吐いた。
ふっと、森の香りがした。
「何があったのか?」
「へっ?」
目を開けると、すぐそこに彼がいる。膝を折り、下から私の顔を覗いている。
「な、なんでもないです」
「……」
無言の威圧は心臓に悪い。まさか、こういう風にじーっと見つめられるのはこんなに辛いものだと知らなかった。
「……本当ですよ?」
精一杯元気な笑顔を作り、彼の問いを凌ぐ。
答えを変えるつもりはないという意思が伝わったのか、彼は立ち上がる。
逃がしてくれたことにほっと胸を撫でおろした。
だが、彼は簡単に私の期待を裏切る。
「今日も、付けてくれたのか」
彼の手は私の頬に、正確に言うと横髪に触れる。もっと正確にいうと、横髪に結ばれたリボンを。
「き、昨日、青の方にしましたので」
「そうか」
ようやく解放されるかと思ったのに、彼の手は未だにリボンに触れている。
空気の揺れからわかる。見なくてもわかる。
彼が時折そのリボンを軽く引っ張ったり、巻いたり、揺らしたり。
嬉しそうに細められた目を見ると、私の心は限界を向かえた。それが直接私に向けられなくても。
逃げるために言い訳を言うために、残っている声を絞り出した。
「あ、あの、旦那様、私っ!」
「…………すまない。温室に行く」
いってらっしゃいを言う隙も与えず、彼はずかずかと少し乱暴な足取りでダイニングを出た。
それを見守るしかできない私だが、背中から視線を感じる。
振り返れば、ソフィやハンナ、カレンやニコルがニコニコしている。彼らの笑顔は私の羞恥心に更なる刺激を与えた。
今度こそもうここにいるのが耐えられなくて、旦那様のように急いでダイニングから逃亡した。
ふわふわとした足でなんとか階段を登り切って、自分の部屋に戻る。
カレンを外に待機させたら、何故か生暖かい笑顔で了承された。納得できないわ。
それはそれとして、もう立てる元気がない。ソフィが整えてくれたベッドに思いっきり体を投げる。
暖炉が付けられていない部屋が少し冷えている。行儀悪く体を毛布で包まり、ベッドの上に転がる。今は別にいいよね。誰も見ていないから。
私は、彼が好き。ルカ・ロートネジュが好き。
この想いを自覚してから、母親に見せたくないくらい私の調子が狂った。笑顔も綺麗に作れず、先ほどみたいに逃げたりもした。勉強も頭に入らない。
彼の前では、いつも余裕を失くしてしまう。
こうやって部屋に逃げ込んだのは何回目だろうか。まだ両手で数えられるくらいの回数、のはず。
このままじゃ行けないと分かっている。これじゃ、まるで振り出しに戻ったみたいではないか。民の前でこんな恥を晒すわけにはいかない。もっと、仲睦まじい私たちの姿を見せないと。
(でも、結婚式か……)
ファルク様と挙げられない、結婚式。
今度こそ、好きな人と結婚式が挙げられる、かもしれない。
そう、一瞬気分が浮かびあがったが、すぐに萎んだ。
首だけ動かして、机に視線を向ける。
その上には、青い封筒が置いてある。
「……ねえ、お姉様。好きって、なんだろう」
天井に向かって呟いた。姉に問いかけても、答えが帰ってこない。
それは当然のことだ。だって、お姉様はここにいないだもの。
ただ、お姉様に問いたくなるほど、私は迷い込んでいる。
私は、六年間もファルク様のことを慕っている。だけど、その感情が一年も満たずに移った。
その事実は、私の心を揺さぶる。
不安なんだ。
六年は決して短い期間ではない。想い出だって沢山詰まっている。
あんなに大切に育てた気持ちのはずなのに、こうやって簡単に植え変えられるものだろうか。
(私って、本当にファルク様のことが好きなんだろうか?)
この疑問は頭に潜んで消えてくれない。
ちゃんと、好きだった。彼の隣にいる時の胸の高鳴りや幸福感は偽りではなかった。
そのはずなのに。
でも、それがこうやって変わった。これも紛れもなく事実なんだ。
信じていることと経験していることが矛盾して、蟠りが重くなるばかりだ。
だって、その疑問はそこで終わるわけではないから。
(それなら、私は本当に旦那様のことが好きなんだろうか……)
もし私は旦那様から離れて、他の男と過ごさないといけないとなれば? 彼もファルク様や旦那様のように私を大切にしてくれたら?
私はまた、心変わりするのだろうか? もしそうだとすると、私はこんなにも軽い女なのだろうか?
(もし、違うとしたら……)
私の六年間が否定された気分だ。そして、これからの気持ちともろともに。
そう考えると、どんよりと曇り空のような気分になる。
追い打ちをかけるように、もう一つ、私の不安を膨らませることがある。
妖精というのは、移り変わりやすい存在。その血を濃く受け継いだアルブル家の娘である私。
一方、竜というのは一途な存在。先祖返りによりその血が濃くなった彼。
(彼に知られたら、軽蔑されるかもしれない)
その可能性に辿りつき、額から冷や汗が流れる。
たかが可能性、されど可能性。
不確かなままであれば、その可能性は永遠に存在する。
では、確認するのが一番いい答えではないか。
彼と話し合って、白黒をはっきりさせればいいのではないか。
(でも……)
確認したものの、本当に軽蔑されたら? 軽蔑されるまま彼の隣で生きていけるのか?
(私は……)
視界の隅には黄色いリボンがみえる。彼の瞳を想起させる色。
あの瞳が軽蔑の色に染められると想像するだけで、手がこんなに震えている。
「……ふふ」
私はいつもこうだな。
気になるのに、確かめる勇気がない。傷つくのが怖くて、いつも「でも」や「だって」、言い訳ばかり並べている。
あの祭りの夜、彼は私に心の一部をみせてくれたのに。私は未だに、それを隠し続けている。
本当に、私は臆病で身勝手で我が儘。
そんな私が選べる選択肢なんて、一つしかない。
隠すしかない。
彼に気付かれないように、上手く笑顔で覆い隠すしかない。
(好きな人と結婚できるとか、そういう問題じゃない)
この結婚式は、同盟にとって一つ大切な「催し」だ。
貴族として、それを完璧にこなさないと。
そう決心して、私は体を起こした。
気合を入れるために、両手で頬を軽く叩く。
「……よし!」
ベッドから降りて、扉に向かう。
(さあ、「普通」の日常に戻らないと)
意思を固めて、私は扉を開く。




