17
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美味しそうな香りがする。
甘い声がする。
柔らかい温もりがする。
嗚呼、コレが欲しい
懐に納めたい。
貪りたい。
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腕から痛みが走った。
急な勢いに反応ができず、そのまま前にあるものに倒れ込む。
何が起きているのか。
頭が状況を飲み込めずに固まった。
何かに拘束され、身動きが取れなかった。
感じることしか許されていない。
体から伝わったのは強い鼓動と嗅ぎなれない鋭い匂いと耳元に入る荒い息遣い。
そして、身を焦がすほどの熱。
「……旦那様?」
彼を呼ぶと、首当たりから熱の籠った吐息を感じる。
人間の体から出るものだと思えないくらい、熱かった。
この様子は明らかにおかしい。
どうしよう……体調不良なのか? いや、もしかすると竜の血に関係する症状だろうか?
とりあえず、早くニコルに知らせないと。
「旦那様、離れてくれませんか? ちょっと、ニコルに、ひっ!」
いきなり、首から一線を描いた生ぬるい感触伝わった。
熱と一緒に、複数の尖ったものが皮膚の表面を刺激する。
それは、何回も何回も、だ。
その感覚があまりにも気持ち悪くて、背中から鳥肌が走る。暗闇が余計にそれを際立たせた。
体を切り離したかったが、無意味に終わった。むしろ、拘束する力が強くなるだけだった。
わけのわからない状況に、危機感が増した。
「だ、旦那様? 何を、何をしているのですか? は、離して、いたっ!」
今度は、何回も何回も嬲られた場所から痛みが走った。
今まで体験したことのない、鋭い痛み。
この時、目が暗闇に慣れたことを少し呪った。
だって、顔を上げたら、彼がどんな表情で私を見つめているのかが、はっきり見えるから。
とろりとした金色の瞳が淡く輝いている。
薄暗さの中でも見える、赤らんだ頬。
彼の薄い唇の周りが汚れて見える。
舌でそれを舐めまわした後の表情は、不気味なほど恍惚を表すようなものだった。
ああ、これは駄目だ。
食べられる。
直感がそう私に告げた。
彼が再び私の首に顔を埋めた。同じ行いを繰り返そうとした。
「やめて」と抵抗しても、彼はやめてくれない。力いっぱい叩いても、彼は微動もしない。
知らない彼を目の当たりにして、私はあまりにも無力で、ただただ怖かった。
このまま、本当に食べられるのだろうか。
食べられるって、どういう感じだろうか。
想像もできない痛みに対する恐怖で口の奥がガタガタと震えている。
一体、どれくらい時間がたったのか、もうわからない。
何回も何回も抵抗を試みても、全部無駄に終わった。
体力と精神だけが削られただけ。
抵抗する気力するもう残っていない。
自業自得だ。
好奇心に負けて、旦那様とニコルの忠告を破ったからこうなった。
いっそ、このまま彼に食べられてもいいかもしれない。
彼に食べられたら、嫌なことから、押し付けられた役目から解放されるのかな? そう思うと、少し魅力的な提案に聞こえる。
もう、見知らない人のために頑張らなくてもいいのかな。
でも、そんなの、できないよね。
『民の夢と希望を守るために。坊ちゃまはそれを理解した上に、背負うと決めました』
現状ですら私が蒔いた種なのに。その上に私の我が儘を上乗せするなんて、おこがましいことだ。
そんな私でも、彼の覚悟を無駄にしてはいけない。
もし、彼が本当に私を食い殺すのなら――。
(彼は世間に、なんと言われるのか容易く想像できるわ)
なんとか、あんな最悪の可能性を阻止しないと。痛みに耐えながら彼の行為に甘んじて、一点の隙を狙う。
彼の顔が私の首から少し離れた、この瞬間だ。
唯一自由に動かせる左手を使って、彼の口を塞いだ。
力がまともに入らないそれで彼を押したが、案外あっさりと退かしてくれた。
私たちは左手の厚みで隔たれている。
至近距離から見る彼の瞳は、やはり美しい。そんな、場違いな感想を抱いた。
静寂の中に、私の吐息だけが煩く響いている。
彼から動きがないと確認して、深く息を吸う。
だけど、それを声と一緒に吐けなかった。
彼が、少しずつ私から離れたから。
支えを失った左腕がストンと、そのまま床の上に落ちた。
「だんな、さま?」
「何故、君が……」
言葉を発した彼に肩から力が抜けた。
「よかった、です。旦那様……無事に戻ってくれました、ね?」
「俺は、一体、君に何を……うっ」
「旦那様!」
呻き声と同時に、彼は前のめりに倒れた。
彼を受け止めたが、彼があまりにも重くて私も倒れた。
苦戦しながら、なんとか座り直せた。
「旦那様……どうしよう」
彼は私の膝の上に脂汗を流しながら眠っている。眉間に深い皺が刻まれて、時折辛そうな声を噛み殺している。
彼のあまりにも悲痛な姿に泣きそうになった。
試しに誰かを呼ぼうとしたが、声が枯れたせいか、誰も来てくれなかった。
「旦那様……」
涙を堪えながら震える手で、彼の黒髪を撫でる。
お願い、せめて。
せめて、今回だけ。
『妖精、痛み、隠す』
お姉様が教えてくれた妖精言語を拙く唱えてみた。
だけど、何の変化も訪れなかった。
(私は、お姉様だったら……)
少しくらい、彼の役に立てるのかな?
いや、そもそもお姉様がこんな状況を招かないだろうね。
でも、今は卑屈になっている場合ではない。
自分の弱みに酔う場合ではない。
手の甲でごしごしと頬に流れる水滴を拭き取る。
少しでも、彼が心地よく眠れるように彼の態勢を整える。
(旦那様……)
彼の額から溢れる新しい汗を拭いながら、心の中で彼を呼ぶことしかできなかった。
* * *
頬から、温もりが伝わる。
肌に馴染むものだった。
それをもっと感じたくて、それに頬を押し出す。
これは、知っている。
いつもとちょっと違うけど、知っている。
この温もりの正体は、誰だろう。
お母様? お姉様? それともファルク様なの?
それとも――。
いきなり、温もりが肌から離れた。
その変化は私の胸を切なくさせる。
何で離れるの? 何でもっと触れてくれないの?
この温もりは、大好きなのに。
その暖かさを手放したくない。
捕まえるために、手を伸ばした。
「いたっ」
左肩から鋭い痛みが走る。
そのおかげで、朦朧とした意識がはっきりした。
「あれ、私……?」
床で、旦那様の看病――と言えるかどうか少し疑問だが――をしてたはずなのに。床って、こんなに柔らかいのでしたっけ。
周りを確認するために起き上がろうとしたが、右肩に置かれた手に止められた。
「大人しく寝ろ」
「旦那さま」
彼の顔を見て、意識が途切れる直前に起きたことを思い出した。不安になり、目の前にいる彼をじっと見つめる。
「……君の傷に響くから」
続きを促したと勘違いされたからなのか、彼がそう付け加えた。
……私が知っている彼で、本当によかった。
「旦那様、ここは?」
「……俺のベッドだ」
よくよく見ると、彼は今ベッドの縁に座っている。
「何故私が旦那様のベッドに……」
「君を、床に寝かせるわけにはいかない」
「そう、ですか。ありがとうございます」
会話がそこで途切れて、気まずい空気がこの場を包み込む。
「君は、何故俺の部屋に入った」
「えっと、それは……」
先ほどのこともあるし、言いつけを破ったこともあって、すごくいたたまれなく感じる。彼の顔を見る勇気なんて、どこにもなかった。
言い淀めば、彼は軽いため息をついた。
「いや、すまない。今話すことではないな。君を休ませることを優先しなくては」
「ごめんなさい……」
彼はいつもこうだ。今までは甘やかされすぎだと感じて罪悪感を抱いたが、今夜だけは素直に甘えさせて欲しい。
素直に言葉に従った私を見て、彼は目を細めた。いつも見る表情で心が落ち着いた。
だけど、彼は直ぐに起き上がろうとした。
その行動に、私の胸の奥が凍り付いた。
「待って」
離れないように、彼の服の袖を握る。
暗闇からでも分かる。彼の顔には動揺の色が彩れる。
でも、私も同じくらい動揺している。
「ご、ごめんなさい」
「……いや」
謝罪の言葉と共に頼りなく握ったそれをそっと離した。
私は、どうしたんだろう。
何故、私が焦ったのか。
何故、彼を止めたのか。
私は、彼と離れたくない。そう、思っているのか?
あんな、怖い体験をしたばかりなのに?
「だ、旦那様は休まないのですか?」
答え合わせをしたくない自問自答から逃げるために話を逸らした。
脈略がないからなのか、彼は少しだけ瞠目した。
「……これからするつもりだ」
「あ、すみません。では、私は隣の部屋に戻りますね」
この場から離れる言い訳を手に入れたこともあり、私は急いで起き上がろうとした。
だけど、左肩の鋭い痛みと足の鈍い痛みがそれを許してくれなかった。
「い、痛い……」
「だから、大人しくここで寝ろと言っただろう」
「ですが、そうるすと旦那様は休まれないのではありませんか?」
よくよく見ると、彼の服の隙間から包帯が見え隠れている。それだけではなく、月明りのせいでもあるかもしれないが、彼の顔色もいつもよりも真っ白だ。
もしかすると、今回の遠征で彼は酷い怪我を負って、先ほどの状態に陥ったのでは。
そうなると、ああ、駄目だ。
私よりも、彼を早く休ませないと。
でも、私は彼のベッドの上から動けない。
彼も、譲ってくれなさそう。
そうなると、選択肢は一つしかない。
「旦那様」
そう、これしかない。
「一緒に寝ましょう」