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 夕焼けとは、不思議な現象である。

 茜色に染まる帰路は幻想的と同時に、僅かな不気味さを漂わせる。


 そんな気持ちで屋敷に辿り着き、流れるように自室に戻る。


 外出用のドレスを脱ぎ、身軽な室内着に着替えた。

 手伝ってくれたソフィが退室し、この空間の中で私は一人になった。


 一人になると頭がいらないこと、忘れたいことを思い出させる。

 当たり前の如く、今日市場で見た風景が勝手に浮かんだ。

 そのせいで、胸の蟠りが強くなる一方だ。


 英雄で、同胞殺し。

 そんな名前で呼ばれる人は、ゼベランの中では一人しかいない。


 私の夫である、ルカ・ロートネジュ。


 他国ではそういう風に呼ばれるのは知っている。

 だがまさか、ゼベランで彼がそう呼ばれる瞬間に出くわすとは。

 その上に、「妖精の飼い犬」なんて。巷ではそんな汚名が出回っているなんて、想像もしなかった。


 そして、ルナード国の目。すなわち、「赤い目」を指している。そう、今日ぶつかった女性と同じ色の目だ。

 北ゼベランという立地も合わせると、一つしか思い浮かばない。


(スリガルの方々……)


 ルナードが残した爪痕。

 ゼベランの特徴である栗色の髪や黒髪を持ちながら、赤い目をしている方々を示す呼称。

 端的に言うと、ゼベランとルナードの間に生まれた混血。

 各地にも定住しているが、主には国境である北ゼベラン、南ルナードにいる方々。


 どちらでもあり、どちらでもない、不安定な存在。


(旦那様が、彼らを――)


 火のない所に煙は立たぬ。

 つまり、そういうことだ。

 市場の殿方が言ったことは、完全に否定できない。


 それが、旦那様の役目だから。

 私の夫は騎士だ。血で手を染めないまま、役目なんて完遂できるわけがない。

 例えそれが獣の血であっても、人間の血であっても。


 分かっていても、胸にある重い違和感が消えてくれない。

 だって、私が知っている彼なら「無差別」に「無抵抗」な人の命など奪うような人ではない、はず。


 そう思うと、小さな嘲笑を浮かべた。


(私って、本当に都合がいい人だな……)


 何が「私が知っている彼なら」だ。

 前は、あんなに彼のことを怖がっていたのに。

 半年も満たない結婚生活の上につい最近ようやく彼とまともに話し合えた。

 そんな短い期間で、彼の何が分かるだろう。


 座る気力すら失くして、そのままベッドの上に身を投げる。


(気にならない、といえば嘘になる。でも……)


 時折、あの日彼が見せた辛そうな顔が脳裏に浮かんだ。

 踏み込んではいけない領域、乗り越えてはいけない境界線。


 そんな、気がする。




* * *




 胸に小さな蟠りを抱きながら日常を過ごした。

 時間がたてば薄れても、小さな切っ掛けで再び鮮明になるそれが、逆に忘れられなくなった。

 彼が戻ったあと、確認しよう。もちろん、教えるかどうかは強制などはしない。


 もし、その話が事実だとしたら――。


(せめて、彼の口から直接聞きたい)


 知らないまま勘違いするよりはまだいい。

 そう決心した数日後、彼は屋敷に帰還した。


 この日の空は雲がとても多かった。

 その隙間から見える夕暮れの茜色が幻想的だった。

 ソフィの知らせを受け、書きかけの手紙を置いて、部屋から出た。

 彼が無事であると知る安堵と目で確かめたい気持ちと共に早足で階段を降りた。


 でも、彼に近づけるよりも早く、カレンとソフィは体で私を庇った。


 鳥肌が立った。足も震えている。

 茜色の光を背後にする彼の姿は、とても恐ろしかった。


「坊ちゃま、お帰りなさいませ。浴室の準備などは――」

「いらない。誰も部屋に近付けるな」

「……わかりました」


 私とソフィに一瞥もせず、彼はそのまま階段を登る。

 彼が私の前を通った瞬間、嗅ぎなれない匂いが漂った。

 扉が閉められる音が、一階にまで響いている。


 重い空気の中、誰も動かなかった。

 口の中に溜まった唾液を飲み込み、先ほどのことを思い出す。


 彼の様子が、明らかにおかしい。

 いつもとあまりにも違うんだ。


 私たちの関係がまだ噛み合ってない時ですら、こうはならなかったのに。

 当時は気付かなかったが、いつも何か、言いたげな視線で私を見つめてから部屋に戻った。


 こんな、切羽詰まった姿は初めて見た。


「奥様」


 静寂を破ったのは、ニコルだった。


「本当に申し訳ございませんが、今日だけ別室で寝ていただけませんか?」

「ニコル? 何でそんなことを」

「それは……」


 ニコルは苦虫を噛み潰したような顔で言葉を止めた。

 よく見れば、ニコルだけではなかった。

 この場にいるソフィも、ハンナもだ。

 状況が飲み込めない私とカレン以外は、皆似たような表情を浮かべている。


「奥様はロートネジュ家の一員であり、坊ちゃまの妻であるため知る権利はありますが……カレンさん」

「あ、はい」

「申し訳ございませんが、貴女には退室してもらいます」


 穏やかなニコルから想像できないほどの、とても平淡な声だった。

 それは物事の重さを暗示した。


 迷った素振りを見せた後、カレンは頷き、静かに屋敷を出た。

 それを確認したニコルは、表情を全部そぎ落とした顔で説明を始めた。


「どこから説明をすればいいのでしょう……まず、結論から言いますと、坊ちゃまが先ほどの、いわゆる興奮状態で帰還したのが何度もありました。その状態になると普通の人間では手に負えないため、他人が自分自身に近づかないようにと強く命令されました。次の日は安静に戻りますので、奥様、安心してください」

「安心してくださいって、でも、そんな……」


 無表情で温度を感じない声で説明されても、ニコルの表情から苦痛が見え隠れしている。

 ハンナも、ソフィも、似たような表情をしている。

 皆にそんな顔されたら、納得できるわけがないよ。


「ロートネジュ家の方々がああして殺気と魔力を零しながら帰還する理由は、主に二つあります。一つは、戦いによる興奮が収まらない時です。もう一つは大怪我をして、強制的にそれを回復しようとしている魔力を抑えている時です」

「大怪我って……じゃあ、もしかすると旦那様は!」


 彼の部屋がある方向に振り向き、その向う側にいる彼の様子を想像すると、言葉が詰まった。


「坊ちゃまは、敵にも味方にも弱みを見せてはいけません。そう、先代から教わりました。……いいえ、ロートネジュの家訓と呼んだ方が相応しいかもしれません」


 ニコルは、淡々と続ける。


「竜の血は、凶暴なものです。人間にとっては手に負えない代物です。ですが、ロートネジュ家は人間でありながら、体内にその血が流れている。莫大な力の代わりに、様々な代償を払いました。ですが、今までゼベランはその血に頼り、英雄視、神聖視しています」


 竜のおかげで独立できた国、ゼベラン。

 竜の寵愛で自由を得た国、ゼベラン。


 そんなの、歴史書に沢山書かれている。でも、その事実と、旦那様の行動に結びつけることができなかった。

 私は納得していない顔をしているからなのか、ニコルは目を少し伏せた。


「だからこそ見せてはいけません。民の夢と希望を守るために。坊ちゃまはそれを理解した上に、背負うと決めました」

「そんなの……」


 「あまりだよ」という言葉を呑み込んだ。

 それを全部言うことは、彼の理念を否定してしまう、そんな気がする。


 だって、理解できるから。理解、できてしまったから。


「坊ちゃまの場合は、それ以外の理由はありますが……さすがに、それは私の口からでは言えません」

「……うん」

「奥様……本当に、申し訳ございません」

「ううん。いいの」

「では、一時的に部屋を替えさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 左手を強く握り、頷くことしかできなかった。




 意識がふわりとしていたら、夜が訪れた。

 ニコルの説明を聞いたあとの記憶が、正直言うと少し曖昧だった。

 今日の晩御飯の味も何もしなくて、ソフィと話す気力すらわかない。

 浴室に入り、手入れされ、慣れない客室に案内されて、そのままベッドの上に転がる。


 体と頭がとても重いのに、意識はとても明瞭だ。何回か寝返りを打ったが、変化はなかった。

 これは、眠れない夜になると悟った。


 そもそも、あんな説明を聞いた直後だ。

 寝られるわけがない。

 考えないようにすればするほど、気になってしまう。


(少し、体を動かそう)


 もう、こうなると寝ることを諦めた。

 ベッドから起きて、ストールを羽織り、部屋を出た。


 時間は時間だから、できるだけ物音を立てないように、ゆっくりと歩いた。

 窓から差し込む月の光を頼りに、屋敷の中を徘徊する。

 一階と二階を繋ぐ階段に辿り着くと、自然と視線がその先にある部屋の方に行った。


(旦那様……)


 好奇心が私の足を動かした。

 理性と警戒心が、それを途中で止めた。


(駄目ね……大人しく部屋に戻ろう)


 彼がいる方角から魔力が禍々しい程に私を拒んでいる。その証拠として、近づけば近づくほど鳥肌が立つ。

 だから、大人しく引き返すべきだ。

 そう思った時、ふっと物音が耳に入った。

 いや、物音というよりは、声の方が近いかもしれない。


 理性に抑えられた好奇心がそれに刺激された。


 だって、その音は、おそらく――。


 唾を飲み、階段を昇る。

 一歩ずつ、一歩ずつ。

 近づく度に、行く先から流れる魔力が濃くなる。

 それにつれて、足が重くなる。震えが、強くなる。


 彼の部屋の扉の前に辿り着いた時、心臓の音が耳の奥まで届いた。

 駄目だと、わかっている。

 引き返すべきだと、わかっている。

 彼も、ニコルも、駄目だと言ってるから。


 だけど、部屋の奥から聞こえる騒音が私の心臓の音と響き合っている。


 誘われたかのように、私は手を伸ばした。


 ――コン、コン。


 ノックはまるで合図のようだった。

 音が、全部消えた。


「……旦那様?」


 震えている声で、短く彼を呼んだ。

 だけど、何の反応もなかった。


(呼ばれたと思い込んでるなんて……ああ、恥ずかしい)


 頬の熱と共に、理性を取り戻した。


(ニコルに駄目って、言われたのに)


 早く、ここから離れないと。ニコルに気付かれる前に戻らないと。

 そう思った次の瞬間。


 カチャ。その音に私の動きが止まった。

 向う側に、金色が輝いている。


 そのまま、私の腕が引っ張られた。



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