11
ガシャンと、温室の中に金属の音が響く。
「きゃっ!」
「っ! ……すまない」
彼はバツが悪そうな表情で屈み、落としたものを拾う。
どうやら、私は彼に剣を落とさせるほど突発的な発言をしたようだ。
それは、そうだよね。話の文脈が繋がっていないもの。
何も起きないかのように、彼は姿勢を立て直した。
が、その後は何も起こらなかった。
……私たちはいつもこうだ。彼は無言、私も無言。
どろどろと気まずい空気が私たちの間に流れる。
急な音に鼓動が速まる心臓を深呼吸で落ち着かせる。
まず状況を説明しないと。
「旦那様、実は――」
* * *
「なので、どうやら、私たちは喧嘩しているように見えています」
一通り全部彼に説明した。
ハンナやカレンのこと。
彼女たちが受けた印象と現実との矛盾。
「なるほど」
それだけ短くつぶやき、彼は黒い手袋で包まれた右手を口に当てる。
「だが、喧嘩か……」
意味不明なことを聞かされたように、彼の眉間にシワが寄っている。
理解できず、考え込むような姿勢に共感を抱く。
(だよね……)
よかった、私たちは同じ認識のようだ。
別に、喧嘩などしてない。
そもそもの話、私たちは喧嘩ができるほどの仲ではない。
その事実は、少しだけ胸を重くさせた。
原因不明な変化に一瞬戸惑ったが、左手で拳を握り、顔をあげた。
「そんなことはない、と私も思います。ですが、第三者からするとそう見えることも事実です。……この状況が来年の結婚式まで続くと、良くありません。ほら、世間では私たちは、相思相愛と認知されていますので」
「そう、だな」
彼と私の結婚式は、ファルク殿下とアクイラ殿下と同様、民の前で挙げられる予定だ。
相思相愛だの運命的だの、そうやって大袈裟に語られた二人がギクシャクなまま結婚式に出れば……想像なんてしたくない。
夢の溢れる話は人に希望を与える。
だけど、その希望が泡沫のように消えれば、代わりに深い絶望が生まれる。
こんなご時世で、フルメニアにもぜベランにもいらない噂や不安を煽るようなことを避けたい。
視線をあげれば、難しい顔で考え込む夫の顔が見える。
心なしか、眉間のシワがさらに深くなった気がする。
変なところに真面目な彼だ。
そんな彼に、申し訳なさが溢れ出す。
「旦那様、別に、本当にそうである必要はありませんよ? そういうのではなく、ただ少なくともこんな風に、お互いに硬いままではなく、互いの存在に慣れるまで、とか。そのための練習です」
「だが、君は……」
「私、ですか?」
「……」
未だに、彼は悩んでる。その理由が分からず、彼もそれを言葉にしてくれない。
彼もわかってるはずなのに。
そう思ったせいで、彼の煮え切らない態度に、僅かに苛立ちを感じる。
別に、愛して欲しいとか、そんなわがままを強請るつもりではない。居場所をくださいなど、そんなちっぽけな願いのためではない。
「迷惑かもしれませんが、せめて、結婚式まで、でいいから……」
私と一緒にいると気が休まらないかもしれない。退屈かもしれない。
でも、国のため、民のため。
だからお願い、とそう想いを込めながら小さく呟いた。
「……わかった、君の言う通りにしよう」
「っ! で、では、今から屋敷に戻ります! ソフィに茶会の準備を……」
「いや、戻る必要は無い」
「少しだけ待て」と言い残したあと、彼は私の視界から姿を消した。
そう長く待たされずに、彼は戻った。
何があったんだろう?
「手を」
「あ、はい」
差し出された手に素直に応えた。
「こっちだ」
誘導されたまま季節の花々を通り、温室の奥に辿り着いた。
彼が壁にある葉っぱや蔦を退かせば、その向う側に小さな空間が広がる。
中には小さな白い丸いテーブルと椅子が二つ置いてある。
彼は私を椅子までエスコートし、そこに座るようにと促した。
「ここは……」
「母のお気に入りの場所だ」
旦那様の母。すなわち前公爵夫人。
植物を研究している方であり、ゼベラン国の緑化にも手を尽くしている方だと聞いた。
ロートネジュ家に嫁いだ後も彼女はその研究を続けるが……
(そういえば、ニコルがこの温室は先代の時に建てられたものであると言ったな。もしかすると、ここで研究をしてたのかな)
シンプルでありながらも今でもよく手入れされている机を一撫でする。
中にある植物が程よく強い日差しを遮るように配置され、とても心地よい空間だ。
花も華やかなものより、小ぶりで控えめな種類が沢山咲いている。
この空間に入るだけで、私の中に前公爵夫人に対する好感が芽生えた。
叶わない願いだと分かっているが、一度彼女と言葉を交わしたくなった、そんな不思議な気持ちになった。
「坊ちゃま、奥様。紅茶の準備をさせていただきます」
心地よい空間を堪能している間に、ソフィが現れた。
ソフィは手際よく紅茶を用意し、全部が終わった後私に優しく微笑みかける。
何故か旦那様には少し笑顔のようで笑顔ではない表情を送ったように見えた。……これは、気のせいでしょう。
ソフィが「ごゆっくりどうぞ」と言い、礼をしてこの場所を後にした。
シンプルで上品なカップを囲い、私たちは再び二人きりになった。
間を誤魔化すために、ソフィが淹れてくれた紅茶に手を付ける。
あ、このティーセット、見覚えがあるわ。確か、旦那様の母君が気に入ったもののはず。
どうしよう、何を話せばいいのだろう。
私が提案したことなんだから、私自身が何とかしないと。
今まで母にも妃教育の時でも会話に関して教えられたのに、彼の前では何故か上手く繰り広げられない。
だけど、気まずい沈黙を避けるために、何かを言わないといけない。
無難なことを聞こうとしたその瞬間。
「不備はないか」
まさか、彼が先に会話を始めてくれた。
「そんな、ことはないですよ。屋敷の皆様、とても優しくて快適に過ごしています。分からないことがあれば答えてくれますし、やりたいことがあれば手伝ってもくれています。今日だって、朝はソフィと一緒にポプリを作る準備をしていまして――」
動揺を隠すために、ひたすら回答を伸ばす。
だけど、一度口にすれば、連鎖するかのように次々と話が浮かぶ。
気怠い起床を明るくしてくれたソフィ。
小食な私の健康をいつも気にしてくれたハンナ。
どんな質問でも丁寧に答えてくれたニコル。
面白い話で場の雰囲気を賑やかにしてくれたカレン。
ここに嫁いでから、二ヶ月しか経っていない。それでも、大切にされていると実感できるほど皆は私を受け入れてくれた。
そして、今、私の前に座っている夫だって――。
「そうか」
それは、ほんの僅かの変化だけだった。
何で、彼はこんなに嬉しそうに目を細めているのだろう。
普段、表情一つだって見せてくれないのに。
家族の、彼の「身内」について語ると、この小さくて強烈な変化がいとも簡単に現れる。
そんな表情を、私に一度も見せたことがないのに。
私の前では、無表情で、凛とした「騎士」しか見せてくれなかった。
それが、石が落とされる水面のような感覚。
水紋が広がり、胸の奥に刺されたままの針を刺激する。
ズキズキと、痛み出した。
場違いな疎外感が私を襲う。
「旦那様こそ、今日はどうしたんですか? 先ほど帰るようにと命令されたと仰いましたが、何か、体調不良などでしょうか?」
その泥に呑み込まれるのが怖くて、一度捕らえられると朝がより起きづらくなるだろう。
これ以上、ソフィに迷惑を掛けたくない。
だから私は危機感に従い、逃げるために質問を投げかけた。
「いや、それは……気にするな。これは俺の問題だから、君が心配する必要がない」
ほら。
こうやって、彼はいつも私を部外者にする。
なんだろうね。溝を埋めるつもりで提案したことなのに。
でも何故だろう。埋められるどころか、深みが増す一方だ。
私のせいだろうか。私の受け止め方が悪かったのだろうか。
それとも、口では諦めるといいつつ、何もかもに諦めきれない私の甘さが駄目だったのだろうか。
諦めて、全部もうどうでもいいや。
そう、思えたらどれくらい息しやすくなるだろう。
ああ、わからなくなってきた。
目の奥から熱を感じるけど、意地でもそれを流したくない。
ここでこれを流せば、何かに負けた気がする。そうすれば、私はもう二度と立ち直れなくなるかもしれない。
涙なんて、他人に一番見せたくない代物だもの。
だけど、心の中に芽生えた感情を否定できるほど、私は強くはない。
だから、今は慣れた感覚で、
「そうですか」
私は、笑顔で泣くことにした。