10
それ以降、時々彼の休暇が入るようになった。
その都度、彼はカレンを休ませて、彼女の代わりに私を護衛した。
やることが変わらなかった。だけど、最初の頃と違い、私たちの間に言葉が交わされないようになった。
人間は慣れるものだ――のはずだったのに。
彼と過ごす無言の時間に慣れるどころか、肩身が狭くなる一方だった。
「やめて欲しい」と頼むにはあまりにも億劫。
彼にこれ以上否定されるのが辛くて、惨めだから。
なら、それが浮き彫りにならないように見えない所に隠すことにした。
だから、私は胸を潰すほどのこの重力を受け止めると決めた。
そう決心してから数日後、ハンナが眉間に皺を寄せながら気まずそうに私を訪れた。
「奥様、最近ルカ坊ちゃまと何かがありましたか?」
「ハンナ? 何で突然そんなことを?」
「いいえ、あの……」
ハンナはどこかで言い辛そうに言葉を詰まらせる。見当のつかない言葉に、私は首を傾げながら待つしかできなかった。
確かに、二人で過ごす時は無言であるが、使用人達の前ではいつも通り最低限の言葉を交わした。
それ以上、それ以下のことはなかった、はずなのに。
「近頃、二人の雰囲気がどんよりしておりまして……ルカ坊ちゃまはどこか元気がなくて、そして、奥様もため息が……」
「私の?」
「……はい」
全く身に覚えがなかった。
確認するために、後ろに控えるカレンに視線を送れば、彼女は何回か頷いた。
どうやら、ハンナが言ったことは本当みたい。
「ルカ坊ちゃまも奥様も元気がなくて、ハンナが心配になっておりまして」
「ハンナ……」
「あ、もしかすると閣下と奥様、喧嘩中ですか?」
「こら、カレン!」
「ですが、ハンナさん、夫婦というのはそういうものではありませんか? うちの親だって、普段はすごく仲がいいんですが、喧嘩する時はするんですよ?」
喧嘩? 彼と私の間に? ありえないことだ。だって、私たちは言葉すらまともに交わしていないから。どうやって喧嘩になるのだろうか?
だけど、それはあくまでも私から見える事実であり、第三者からすると違うように見えるみたい。
「大丈夫よ、ハンナ。旦那様と喧嘩してないよ? ……旦那様は、ハンナやソフィ、ニコルやカレンみたいに私を大事に扱ってくれているよ?」
「そう、ですか。……いいえ、そうですね。余計なお世話で、申し訳ありません」
この家の皆はまごうことなく私を大事にしてくれている。
そんな優しい方々を心配させないために、本音を口にした。
それでも、何故かハンナの顔はまだ少し曇っている。
その表情に、胸が軋んだ。何故か、責められた気持ちになった。
息が浅くなり始めたと感じて、私は席からできるだけゆっくりと立ち上がった。
「奥様? 大丈夫ですか? 顔色が……」
「ううん、大丈夫よ、ちょっと疲れているだけ。……少し外の空気に触れたくなったの。ちょっとだけ、屋敷の周りを散歩してくるよ。行こう、カレン」
「はい!」
それ以上何も言わず、頭を下げたハンナを背中にして、私は部屋から、屋敷を出た。外の乾いている空気を吸い、ようやくまともに息ができた。
季節は夏。
ゼベラン国の夏は短い上に温度がそんなに上がらない。
慌てて外に出たせいで、羽織るものを身に着けずにここまで来てしまった。だけど、このまますぐ屋敷の中に入るのは気まずい気がする。
(今なら、あそこはもう大丈夫かな?)
そう思って、とある場所に向かう。
カレンがガラス製の扉を開けてくれた。それを通り抜ければ灰色かかった外と違って、視界が緑色に染まる。
ここはロートネジュ家の温室である。
恐る恐るある一角に視線を移す。そこにはあの青色がもう咲いてないとわかる。
ここに来るのはこれで二回目。
最初はニコルに勧められてから訪れた。その時はゼベランの風習や国内だからこそ知り得る歴史などを調べていた。
あれは、突然の提案だった。少し驚いたが、息抜きのためにはいいかもしれないと思い、そのまま了承した。
了承したものの、結局意識の片隅がひとつのものに囚われ、あまり休めなかった。
それがもう枯れたと分かり、自然と肩から力が抜けた。安堵の息を吐き、そしてそのままあてもなく歩き始めた。
青いリュゼラナのない温室はすごく居心地よかった。それでも、飲み込んだ針の痛みは癒されなかった。
気に留めないようにしたが、ハンナの視線が頭から離れてくれない。
別に、彼女に責められたりしていないのに。ただ、心配されているだけなのに。
だけど、それを悪い方に受け止めてしまう。
あの日、ハンナの気持ちを知ってしまったから。
そう、感じてしまった。
瑞々しい葉っぱを触り、今度は深いため息を吐かざるを得なかった。
「あの、奥様」
「ん?」
「いえ、あの……あまり気にしなくてもいいんじゃないかな、と思いまして」
「カレン?」
振り向いた先に目を泳がしているカレンがいる。
彼女の言葉を手掛かりにし、何が言いたいのかを予測する。
「ハンナのこと? それともカレンのこと?」
「えーっと、どちらも、です」
カレンは苦笑を浮かべながら、頬をかく。
「奥様の言葉を信じていますが、万が一、万が一本当に閣下と喧嘩しているのならのこと、です。「喧嘩したら仲直りすればいい!」と、うちの親がよく言いましたので!」
「余計なお世話かもしれませんが……すみませんでした」とカレンはぼそぼそと更に付け加えた。
優しいハンナだけではなく、太陽のようにはつらつなカレンにまで心配をかけてしまった。
申し訳なさで頭が重くなった。
「ありがとう、カレン。とても参考になるわ」
「それは、よかったです!」
笑顔が戻ったカレンを見てほっとした。
視線を葉っぱを撫でる右手に戻し、気づかれないようにため息をつく。
喧嘩、ではないはず。
だけど、周りから見ると旦那様と私はギクシャクしているように見えることも事実である。
結果から見れば、この状況を「喧嘩している」と呼んでいる可能性も捨てきれない。
もし、これが本当に「喧嘩」であるのなら……
(どうやって、仲直りすればいいの?)
覚えている限り、私は喧嘩したことがなかった。
親に叱られることはあるけれど、姉弟と喧嘩したことはなかった。
いつも優しく受け止めてくれた姉に倣い、弟にもそう接した。
これ以上ハンナやカレンを心配させたくない。でも、その方法がわからない。
それに、もしこの状況が結婚式まで続いていると――。
(同盟はまだしも、民がどう思うのだろうか)
信じている虚像が消え去る瞬間。想像するだけで体が震える。
彼は、おそらくこのまま変りはしないだろう。ここで、唯一行動できるのが私だ。
(でも、歩み寄る? 私が、彼に? ……どうやって? 想像がつかないわ)
一人では解決の糸口が見つからないと悟り、身近の人に助力を求めた。
「あのね、カレン……えっ?」
だけど、振り向けば、そこにはカレンがいなかった。
私の傍に立っているのが、私の夫である。
「だ、旦那様? 何故ここに? 今日は登城するはずでは」
「……帰れと命令された」
「そう、ですか」
「ああ」
その後、いつもの気まずい空気が流れている。
不意なことに、言葉も思考も白に染まった。
心の準備はまだできていないのに、本番が待ってくれない。
(喧嘩とか、仲直りとか、歩み寄りとか、分かるはずがない。分かるはずが、ない……?)
脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
『シエラ嬢、よかったら僕と――』
今のような居た堪れない雰囲気。その中で体を震わせ、嫌々ながら席に座った時の、そんな記憶。
大好きな紅茶の匂いに、大嫌いな青に囲まれた風景。
そんな失礼な私に優しく微笑む彼の表情。
そして、徐々に解かれた私の心。
「旦那様」
だからなのか。
口から自然と、その言葉がこぼれ落ちる。
昔、彼が私にかけたように。
「これから私とお茶をしませんか?」