97,『闘将』は違和感を素通りさせない
アグウィ伯爵邸に戻れば、夜も遅い時間なのに灯りが点いていた。
伯爵夫妻は落ち着かず待っていてくださったようで、エデ様と私を見てホッと胸を撫でおろしていた。
「リーレイ様…。エデが申し訳ない事を…」
「いいえ。これは私が了承した事ですので、どうかエデ様を責めないでください。エデ様もとても心細かったのだと思います」
「お義父様。お義母様。申し訳ありませんでした」
「いいえ。エデ。無事でよかった…」
アグウィ伯爵夫人は、とても安堵したようにエデ様を抱き締めた。そんな義母にエデ様も体の緊張を解く。そんな二人に胸があたたかくなった。
「ドゥル。妻を心配させただけでなく、こんな時間に外出させるなんて。リーレイ様やランサ様の騎士がいらしたから良かったものの、そうでなかったらどうするんだ」
「すみません父さん…」
「説明は、きちんとお前がしなさい」
「はい」
ドゥル様の普段から下がる眉が、一層に申し訳なさで下がっている。…気弱な様子が如実に表れている。
そこにメイドが湯の用意が出来たと教えてくれた。どうやら私達が来る前から用意してくれていたらしい。申し訳ない。こんな時間に皆さんを動かしてしまうなんて…。
ありがたく、ありがたくお礼を言い、お風呂を使わせていただく事にした。
「ふぅ…」
じんわりと体が温まれば自然と体の力も抜ける。
ドゥル様やエレンさんも冷えているだろうと思ったのだけど、「私達は大丈夫です。先に報告をしています」って背中を押された。それに、夜着の上に上着を着ただけは、いたくランサの機嫌を損ねたらしい。しばらく浸かっているようにと何度も言われた。
…怒らせてしまった。少ししょげてしまう。
身体を温めるだけだから浴場にメイドはいない。私とエデ様だけだ。
ちゃぽんと水の音がよく響く。
「…ランサ。怒らせたのかな…」
「お兄様は心配なさっていたと思いますけれど?」
「でも…機嫌悪そうで…。あんな顔向けられた事…ないと思うんですけど…」
「あれはお義姉様の恰好を見せたくなかったのではないかしら? お兄様、お義姉様をとても想っていらっしゃるようだもの」
ニコリと笑みを浮かべてまた人を驚かせる事を…!
あれは着替えの暇がなくてあぁなってしまったのであって…!
思わず顔を覆ってしまうとクスクスと笑うエデ様の声が聞こえた。
「お義姉様は剣をお使いになるのですか?」
「…はい。王都で暮らしていた頃から、自衛の為に身につけていました。今でも、ランサ様はそれを許してくださっていて、鍛錬を続けています」
「だから剣を持っていらしたのね」
少し驚いたような顔をされても、そこに不快は見せない。…やっぱりランサの妹だな。
昼間の茶会の席よりもずっと打ち解けたようにエデ様は問いを続ける。私もとても気さくに話す事ができるような感じがした。
「父君は一文官とはいえ、ティウィル公爵があれほど仲の良さを見せていたということは、お屋敷に?」
「いえ。平民暮らしです。なので仕事も家事もしていました」
「…だから貴族の御令嬢とは違う感じがしたのね」
何か少し、エデ様は納得したような声を漏らした。さらりと告げた私の言葉にも驚きと関心が向けられているのが分かる。
「では、お兄様のお相手になってご苦労も多いのではなくて?」
「少し…。当初は分からない事だらけでした。ですがシスやディーゴ、屋敷の皆が色々と教えてくれて、なんとかこなせています」
「二人はとても頼りになりますから」
エデ様も懐かしさに頬を緩める。ツェシャ領で暮らしていた時の事が浮かぶようで私も頬が緩む。
…今度は、私がエデ様を招待できるようになるといいな。
ツェシャ領では辺境伯の役目上社交は開かれないけれど、身内での茶会なら開ける。それが出来たらエデ様やシルビ様、リランも呼べるといいな。
いつかを想像して私も楽しみになる。
「お義姉様。他にも何かお出来になるのですか?」
「馬に乗れます。貴族女性はしませんが…乗って駆けるもしばしば。ランサ様とも休日には遠乗りに出掛けたりしています」
「あら…。もうお兄様ったら。本当に武人の考えなんだから」
そう言いながらも怒っていない。仕方ないなって言いたげな表情に思わず笑ってしまった。
浴場を出た私達は待っていたメイドに囲まれ、新しい服に袖を通した。
王都から戻って以降、私も自分の立場を考え直し、領地の屋敷では身支度にもメイドの手を借りることにした。だけど、他家で人の手を借りるのはやっぱり慣れない。肌についている無数の傷は、どうしても驚かせてしまうから。今も驚いた顔をするメイドにどうしても眉が下がってしまう。
「あ…の…リーレイ様。差し出がましいのは重々承知ですが…。辺境伯様に何か…」
「へ…? …! 違う違う! これは私が剣術鍛錬でつけた古傷だから! ランサじゃないから!」
ギョッとする勘違いをされてしまった。とてもよろしくないからすぐに否定したけれど、素の言葉で否定してしまった。
慌てて否定すれば「失礼しましたっ…!」と平身低頭の謝罪が返って来る。…これはこれで申し訳ないんですっ…!
「大丈夫よ。お兄様は人に乱暴なんてしないし、肌に傷があるくらいで苛立ちもしないわ」
「はい。申し訳ございません」
「いえ。心配してくれて、ありがとうございます」
他家の私に意を決してそんな事を言ってくれる。他人想いの優しいメイドだ。それを知っているんだろうエデ様も、そんな彼女に優しい眼差しを向けていた。
着替えを終えた私達は皆さんが待つ部屋へと急いだ。
部屋には、アグウィ伯爵夫妻。ドゥル様。ラレットとアミーレと呼ばれていた男女。そしてランサ。ヴァン。エレンさんとバールートさんがいる。それに壁際には、エデ様の傍によく見た年長のメイドが控えていた。
「リーレイ。エデ。温まったか?」
「はい」
「ランサは冷えてない?」
「平気だ」
室内をぐるりと見た私をランサが見た。手招いてくれる傍へ行くと、エデ様もドゥル様の隣に座る。
平気だと言うランサの手にそっと触れた。…温かい。良かった。
無意識にホッと息を吐くと、私の手をランサは優しく包んでくれた。大丈夫だと言うような目に少し気恥ずかしくなる。
「今、ドゥル殿に事情を聞いたところだ。リーレイとエデにもきちんと話さなくてはな」
「…私が聞いてもいいの?」
「あぁ。ドゥル殿の調べている件は、俺がここへ来た事にも繋がっている」
そうなの?
だけど、ツェシャ領で役目に務めるランサと、領地で動いていたドゥル様にどう関係が…。
エデ様も怪訝にドゥル様を見る。その目を受けてドゥル様は話して下さった。
「実は、領地で贋作が出回っていると、ラレットとアミーレから相談を受けたんだ。それを父さんにも伝えて、僕はここ三ヶ月程調べていた」
「だから、度々スンシュ領へ帰って来ていたのですね…」
「うん。二人は僕の幼馴染でね。陶芸や絵に精通している。見分けるには鑑定が必要だけど、確かな目の持ち主じゃなきゃいけない。その点で二人は信頼できるから、一緒に調べていたんだ」
ドゥル様の説明にエデ様は頷いた。その目はラレットとアミーレにも向けられる。
「お二人もご尽力くださっていたのですね。ありがとうございます」
「いえっとんでもない!」
「私達にとっても許し難い事ですし、私達の町でもありますから」
スンシュ領は国有数の芸術の町。必然美術品はよく集まり、生まれ、出て行く。その中に贋作が混じっていても不思議ではない。
それを見分ける目は、誰でも持っているものじゃない。
「どこから流れているのか。誰が作っているのか。少しずつ調べてはいたんだけれど、まだはっきりとしていなくて…」
「…だから、私に何も仰って下さらなかったのですか?」
エデ様の声音が少しだけ震えた。伝えてもらえなかった寂しさ。悔しさ。
キュッと唇を噛んだエデ様に、ドゥル様は眉を下げた。
「ごめん。君はきっと一緒に調べてくれるから言おうと思ったんだ。…だけど、フレアに、エデに心労をかけないようにと言われて…。ごめん」
ドゥル様の視線が壁際のメイドをちらりと見た。…彼女がフレアなんだろう。察するに、王都の屋敷でもエデ様の傍にいて近しい存在なんだろう。
メイドが主人の息子にそう言う程なら、ドゥル様も迷われただろう。…私がシスやセルカに「ランサ様に心労をかけないように」と言われたら、普段言われないからこそ、何かあっても伝えるのは迷うだろう。
「だけど、他領から流れている事は掴んだ。そうなると一層調べるのは難しくて…」
ドゥル様も行き詰っていたみたい。 私も事情を聞きながら考える。
思っていない事態になってしまった。贋作なんて私には見分けがつかない。
だけど、贋作を本物と偽って売りさばいているなら不当な儲けであり罪だ。騙していることになるし、本来の作者への冒涜行為。
ただ気になるのは――…
「ランサはどうしてここに?」
「ランサ様の用件が僕の調べに繋がるとは…どういう事でしょう?」
ドゥル様達もまだ聞いていないみたい。アグウィ伯爵含め皆の視線を受けても、ランサはその空気を崩さない。
そして徐に「バールート。あれを」と後ろのバールートさんに声をかけた。バールートさんも心得ているように、布に包まれた何かを持って来て机に置いた。
その布は、片手で持ち運べる程度の大きさ。屋敷の部屋や廊下に飾るには丁度いい絵のような大きさ。
そしてその布を取ると、そこに一枚の絵があった。
「ドゥル殿。アグウィ伯爵。鑑定していただきたい」
ランサの言葉に、ドゥル様だけでなくアグウィ伯爵も真剣な眼差しを絵に向けた。
音がない。静かで真剣な空気に、私は自然と呼吸音すら抑えようと思った。
アグウィ伯爵はレンズを使って入念に見ている。ドゥル様の視線も鋭くて、まさか…と疑問が浮かんだ。
「…父さん」
「あぁ…。ザッと見て断定はできないが、贋作の可能性が高い」
「ラレット。アミーレ。どう見る?」
「同じです。素朴に見えるこういう絵は、今回の贋作には多いですし…可能性はかなり」
思わず絵を見た。
湖の傍に咲く花の絵。静かで穏やかな絵。なのにこれが贋作の可能性が高いなんて…。
アグウィ伯爵はすぐに視線をランサに向けた。
「クンツェ辺境伯。これをどこで?」
「関所で押収しました。詳細は…役目上言えませんが、どうにも贋作が国内で製造され、カランサ国にまで流れている可能性があります」
一同が驚愕の表情を見せた。私もランサを見た。
ランサは険しい表情を見せていた。
驚く私達だけど、ヴァンはすぐに冷静に戻って声を紡いだ。
「でもランサ様。それが贋作の可能性があるって見極めてたんですか?」
「そんな目はない。ただ…この絵の本来の作者の絵が俺の部屋にもある。パッと見た勘だ」
「『将軍』の勘ってそういう方面にも作用するんですか…」
「初めてだ。俺は…昔、母上に誘われて絵やら芸術品を見たりということがあっただけで、その筋の人のようには見極められない」
毎日見ている絵との少しの違い。シルビ様が子供の頃のランサに色々とさせていたからかもしれない。
こんな事でそれが活かされるなんて。
だけどきっとそれは、何も知らず見るだけで過ごしていたからじゃない。それじゃ身につかないし違和感にすら感じない。多分…芸術の知識も身につけているから。その作者の筆の使い方や色の塗り方。そういうところも見ていたのかもしれない。
ランサは、本当に凄いな…。
辺境伯としても。『将軍』としても。必要な事は身につけていて。
ランサの言葉にはドゥル様達も驚いている。
「ランサ様…凄いですね」
「いや。俺には確証がなかったので。確定していただいて良かった」
ランサはその表情を鋭くさせて机の上の絵を睨む。
私も感心していないで絵を見て考える。
ランサの言葉通りなら、これは国内で作られている。そして国外と国内に出回っているという事。
「ランサ。元は分からないんだよね? どこでこの絵を入手したとか…」
「それなら候補地が出ている」
「そうなんですか?」
ランサの言葉には、ずっと調査していたアグウィ伯爵もドゥル様も身を乗り出した。
一枚の絵を中心に、深夜という時間も忘れ、私達の話が続いた。




