90,お誘いされました
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その日は朝から曇天模様。窓の外を見て国境警備中の皆はどうしているだろうと考える。
やっぱり天気が悪くなると警備はしづらいんじゃないかな。雨になると視界も悪いし。
視界が悪くなると、いきなりの事態に気付きづらいとか。人に気付かないとか。色々と大変な事もあるだろう。
怪我には気を付けて欲しいな。明日、雨が降らなかったら差し入れを持って行こうか。
そう考えながら、ランサの執務室で書類をまとめる。
ツェシャ領の事もだんだんと分かってきた私は、ランサの仕事の手助けになればと、日中にディーゴと一緒に書類をまとめる。
必要になるだろう資料を集め。手がけている案件ごとに分け。必要な事はメモにとる。
これらも少しずつディーゴに教わった事。これが少しでもランサの力になれているなら嬉しい。
「リーレイ様。こちらは非常時用の備蓄庫に関する資料です」
「非常時…。こういう備蓄庫は、これまでに開放された?」
「はい。五年前に。ですがあの時は前線への医療物資が主でした。ツェシャ領にあるクンツェ辺境伯家所有の備蓄庫は、医療物資。食料物資。生活物資と様々に分けられていて。半年毎に中を確認するんです」
成程。辺境領は王都からの支援物資が届くにはどうしても日数がかかる。近い領から助けがあってもそれに頼り切ることはできないし、もしもの時はその領も被害を受けているかもしれない。
ディーゴから見せてもらった資料に目を通す。中身。個数。領民一人にどれだけ配れるか。細かな数字が記載されている。
こういうところにも、ランサの手はしっかり向いている。安堵と誇らしさを感じた。
そうして少しずつできる仕事をしていると、扉からセルカが入って来た。
「失礼します。少し休憩にしませんか?」
「ありがとう。あ。もうこんな時間」
いつの間にか時間が経っている。時計を見てハッとなる私は同じ様子のディーゴと顔を見合わせて苦笑した。
少しだけ片付けて、セルカに淹れてもらったお茶をいだたく。ホッとする…。
「リーレイ様。先程手紙が届きました」
「ありがとう」
セルカは一通の手紙を渡してくれた。カップを置いてそれを受け取る。
誰だろう…? 差出人を見た私は思っていない人物の名前に目を点した。
どうしてこの人から手紙が…? しかも私宛に。
疑問に思いながらも私は手紙の封を切って内容を読んだ。読み終えて少し考える。
これはどうしよう…。個人的には嬉しい誘いなのだけど、ランサに相談した方がいいかな…?
そう思って一度、その手紙を封筒に戻し、私はそっとカップに口をつけた。
曇天空から雨が降り出してしばらく。ランサが帰って来た。
玄関前で外套を取ったランサは少し濡れていて、毛先や服の袖が湿っているのが見て分かった。
そんなランサに私は急いでタオルを渡した。
「お風呂の準備してもらったから、先に入って温まって」
「ありがとう」
雨に濡れれば体は冷える。すぐに温まらないと風邪を引く。冬じゃないから寒いと思わなくても、濡れによる冷えは油断できない。
それに…ランサが冷えてるのは、嫌だ。
思わずじっと見ていると、視線に気付いたランサが「ん?」と私を見た。
「どうした?」
「ううん…。えっと…早く温まってね」
「あぁ。…リーレイが温めてくれてもいいんだが?」
「…私が抱きしめても温まらないよ」
それは私が恥ずかしいだけだから。ランサ、周りの視線を見て。やめて落ち着かないから。微笑ましいものを見るような目がっ…。
頬が熱を持っている気がするけど、少しムッとしてランサを見る。
けれどどうしてか、ランサは少し面食らったように瞬いた。
「…そういう意味ではないんだが」
「? 何?」
「なんでもない。早くリーレイと結婚したくなっただけだ」
「うん…?」
いつそうなったの?
首を傾げるけれど、ランサはなぜか楽しそうに喉を震わせるだけ。私何か変な事言ったかな?
…だけどねランサ。さらっと結婚したいって話は出さないで。びっくりしたから。そりゃいずれはそうなる予定だけど。まだ互いにその話は出てもいないのに…。
とにかく、私はすぐにランサにお風呂に入ってもらうことにした。
夕食を終えた私とランサは一息、一緒の時間を過ごす。
最近のヴァンは、ランサが一緒にいると私の傍を離れる事がある。ヴァンにも自由があるからそれは良いんだけど、何か用事とかがあるのかなと思って一度聞いた。そしたら、
『ないですよ? ランサ様一緒なら護衛はいらないでしょ? 俺、空気は察しますよ。二人きりにさせますよ?』
…って答えが返って来た。「あ、そう…」って答えしか私は返せなかった。当然のように言わないでほしい。
ランサと二人の中で、私は昼間受け取った手紙の事を話すことにした。
「ランサ。実はエデ様から手紙が届いたの」
「エデから?」
さすがにランサも驚いてる。
夜会でお会いしたエデ様はしっかりとした方で、社交界に慣れた姿は私も見習いたい。お話はしたけれど、ランサの婚約者としてどう思われているのかは分からない。
…うーん。「もっとしっかりしてください!」って叱られそうな気がする。
初めてお会いして、それから話を重ねたわけでもないのに手紙が来て少し驚いた。
それに…
「領地の屋敷で一緒にお茶をしないかってお誘いでね。そこでみっちり立ち居振る舞いを教えますって…」
あ。ランサが額に手を当てて俯いた。「エデ…」って困った兄の声が漏れてる。
こんなランサに私はもう一つ、言わなければいけない事がある。
「それでね…その…。ランサは忙しいから私一人で来てって」
俯いていたランサが顔を上げ胡乱気に眉を上げた。そのまま思案するように口元に手を当てる。
何かを真剣に考える横顔を私はじっと見つめた。
エデ様が私に招待をかけること自体はおかしなことじゃない。交流を持つ意味もある。今ならまだ王都での社交もあると思うけれど、わざわざ領地なのは私への指導が目的だからかな…。
ランサの役目を尊重するところもエデ様なら頷ける。
考えていたランサはその目を私へ向けた。
「リーレイはどうしたい?」
「お受けしたい。せっかくお招きいただいたんだもの。それに色々と教えていただきたい」
「ならそうしよう。俺は今また留守には出来ないから、ヴァンと…エレンを同行させよう」
少し申し訳なさそうな顔をするランサだけど、私は首を横に振った。
多忙で役目を背負うランサは、そう何度も砦を空けるわけにはいかない。
「ランサは国境や領民の事を一番に考えて。そういうランサだから、私も支えたい」
厳しく毅然と役目に務めるランサ。領民の前では気さくに言葉を交わし、その言葉に耳を傾けるランサ。
統率と統制、そして親交。そんな姿を見てきた。そんなランサだから私も想い。尊敬し。力になりたいと思う。
ランサのその手をきゅっと握った。
出会った頃、ランサは私の手から長く剣の鍛錬をしている事を見抜いた。そんな私の手よりずっと大きくて硬い手。
この手が好き。この手で沢山の色んなものを守っている事を知っているから。
きゅっと握ると、不意にグッと手を引かれ、ぎゅっと大きく力強い腕に抱き締められた。
慣れてきたけれど少し身体は強張って、ドキリと心臓が鳴る。恥ずかしくて。安心して。離れ難いぬくもりに包まれる。
眩暈を起こさせるような力強さ。すぐ傍で感じる吐息。
私を閉じ込めたまま、ランサは顔を上げて私を見た。
優しくて。まっすぐで。鋭くて強い。熱を帯びた目。
「リーレイ。我慢にも限界がある…」
「なん……」
問いたかった言葉が消えた。いや。消された。
私の唇にランサのそれが重なる。吐息が消えて、強く抱き締められる。
いきなりの事で身体は強張る。それでもランサが包んでくれる力は優しいと分かる。
嬉しさも。愛しさも。全ての想いを伝えてくれるような、熱くて堪らない、そんな熱だけをまっすぐに感じる。
一度離れた唇はまた重なる。
苦しいのか。羞恥なのか。喜びなのか。自分でも分からない溢れ出る感情の波に流されてしまいそうで。全身を包む熱に頭がクラクラとしてしまって、思わずランサのシャツをきゅっと掴んだ。
いきなりの事に驚いて。ドクドクと煩い心臓が全身にその鼓動を伝える。
そっとランサの唇が離れると、途端に体の力が抜けた。そんな私をランサは優しく抱き締める。
「リーレイ。あまり俺を喜ばせるとこうなる」
「…気を付ける」
「だが、こうして傍に居るとどうしても触れたくなってしまうから、時々は許してくれ」
また、熱を感じさせるような目で見られてギョッとした。無意識に離れようとしたけれどしっかりと捕まえられて逃げられない。
いつも余裕を見せるランサ。だけど今の表情は少しいつもとは違う。
…ランサにも余裕がない事があるの? ランサにもそういう時があるの?
「リーレイ。その熱烈な視線に俺は応えた方が良いか?」
「違うっ…!」
クスリと笑うランサは、やっぱり狡い。
その手が私の髪に触れ、指を絡める。すぐ傍のその距離にさっきの今でどうしても心臓が煩くなる。
あぁもうっ…
ランサが好きだな――…




