72,父の心と『闘将』の言葉
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「それは……どういう…」
さすがの辺境の『闘将』も、私の言葉に驚いた様子だ。無理もない。
「辺境伯様は、あの子の母親の事は何か聞いているのかな?」
「リーレイが五歳の時、病で亡くなったと。俺が聞いたのはそれだけです」
そうか。リーレイはそれだけしか言っていないのか。
それもそうだろうと胸の中で思う。
リーレイはあの時の事は何も言わない。自分の中にある、憶えているんだろう感覚を、ただ一人で抱えながら。怯えながら。持ち続けている。
消えない記憶として。
だからリーレイは、人の手が冷えているのをとても嫌がる。
「……少し昔話をしようか。あぁ。二人も聞いておくれ」
場から離れようとしてくれたバールートさんとソルニャンさんも、私は手で止めた。
二人にも聞いて欲しい。リーレイは二人ともとても仲が良いようだから。きっと、辺境領にいる騎士達とも良い関係を築いているんだろう。
三人は何も言わず、ただじっと私の話に耳を傾ける。
「…カロは…あの子達の母親は、目立たなくて。控えめな人だった。だけど、自分でこうだと決めたら強い人でね。そんなところを知っていたのに、未だに後悔しているよ」
ぽつりぽつりと、私は語った。
あれは本当に突然に。何の前触れもなく起こった。
カロは少し疲れているようだった。けれど熱はなかったし、慎ましやかな生活の中で、仕事に行く私を見送り。まだ幼いリーレイとリランの面倒を見て。使用人達を慣れない中でまとめて。…色々と頑張ってくれていたから、きっと疲労が出たんだと、そう思っていた。
リーレイはそんな母を見て、頼もしくトンッと胸を叩いて「今日は私がリランと寝る」と、寝かしつけの面倒を見てくれた。すっかり姉になったリーレイに、カロも私も嬉しくなった。
だからリーレイにお願いした。カロもゆっくり休めるだろうと。
リーレイとリランはカロに「おやすみ」を告げ、別室で眠った。
そして朝が来た。いつもと何も変わらない朝…だったはずだった。
「リーレイがね。カロを起こしに行ったんだ。私とリーレイで朝ご飯を作って。カロに食べてもらおうと」
リーレイは喜んでくれるだろうカロを想像してとても嬉しそうに、楽しみに笑みを浮かべてカロを起こしに行った。だけど戻って来なくて、私は少し気になってカロの部屋へ行った。
そこに、ベッドに横になったままのカロと、傍で立ち尽くし、私を見て真っ青なリーレイが居た。
自分の右手を、ぎゅっと左手で包み込んで、呆然としていた。
『父様…。母様…冷たいの…。どうして? 母様の手…いつもあったかいのに…』
震える声で。恐怖に濡れて。そうぽつりぽつりと言ったリーレイに、私は心臓が冷や水を浴びたような心地だった。
愕然とした。カロの様子を見て。息一つしていないと解ってしまって。
同時に、起こそうと触れたんだろうリーレイを抱き締めた。その冷たさを忘れて欲しかった。
あまりにも全てが突然で、私も混乱した。
死を確認した医者には、病を抱えていたんだろうと言われた。その死を、家族で唯一結婚を祝福してくれたジークンにも伝えると慌てて来てくれた。
カロを弔い。それでも悲しみは大きくなるばかりで。どうしようもなくて。しばらく何も手に付かなかった。
「そんな時に、それまで居てくれた使用人達が出て行ってね」
「…使用人がいたのですか?」
「うん。ジークンが私達のためにと、この家を用意してくれたと同時に集めてくれたんだ。だけどいくら公爵家の子息とはいえ、平民暮らしのしがない家だ。あまり仕えたい場所ではなかっただろうね」
元は公爵家に仕えていた皆だ。なのにその時仕える事になったのは、家を出て行った男と没落寸前の貴族令嬢。
出て行きたくなるのも無理はない。
「ですが。夫人が亡くなってすぐですよね? リーレイやリラン嬢まで残して…」
「出て行く丁度いいきっかけになったんじゃないかな」
辺境伯様は私の言葉に眉を寄せる。それはバールートさんやソルニャンさんも同じだ。
理解も納得もできないんだろう。けれど私は、かつての皆を責める気にはなれない。
出て行っても、私は特にどうしようとも思わなかった。
リランは母の死も、使用人がいない事も、まだよく解っていなかった。そんなリランの傍にはいつもリーレイが居てくれた。
リーレイは、カロがいなくなった家で、笑ってくれていた。頑張って。大丈夫だよと言って。
そんな姿に胸が痛んだ。時折見ていた。自分の手をぎゅっと包み込むようにして、何かに怯えているような。堪えているような様子を。
それでも、リーレイはリランの世話や家の事を。頑張って動き回ってしてくれた。
そんな姿を見て私も己を叱咤できた。情けのない親だと思う。背負わせて。無理をさせて。それでも抱きしめてあげることしかできない。
「リーレイは、本当に頑張ってくれた。家の為に。私やリランの為に。動き回って。駆け回って。ヴァンが来てくれてからは、二人で分け合って、私も安堵できたよ」
「ヴァンは、ティウィル公爵がディルク殿達の為に連れて来たと聞きました」
「うん。自分が用意した使用人達が勝手に出て行った事に、ジークンなりに責任を感じたようでね。本当に信頼できる。貴族とも縁遠く。欲や家格に左右されない。決して私達を裏切らない。そういう基準で探したらしいよ。連れて来た時には言葉がなかったけれど」
「…よく、その条件に当てはまるヴァンが見つかりましたね」
「全くね。でも…ヴァンが来てくれて、本当に良かった」
ジークンにもすまない事をした。かなり責任を感じていた事を知っている。
だからってヴァンを見つけて護衛として鍛えて連れて来たことには、少し頭を抱えたけどね。
でも、ヴァンが来てくれて良かった。リーレイは力が抜けたようにも見えたし、リランも新しい家族にすぐに懐いた。
ヴァンの人柄なのかな。一人で頑張っていたリーレイの隣に、いつの間にかヴァンがいるようになって。リーレイもよく頼るようになった。
「リーレイは本当に頑張ってくれた。だから私はあの子に幸せを掴んで欲しいと思っている。ジークンが色々と縁談を持って来るのも止めるつもりはなかった」
リーレイは慄いていたけれど。思い出して少し懐かしい。
だけど、私の隣では辺境伯様が納得したような言葉を紡いだ。
「…その相手に、辺境伯はいなかったと聞きました。それは…リーレイを死から遠い場所に置いておきたかったから、ですね」
「うん…。ジークンも知っているから」
だからジークンは、縁談の相手に入れた国境沿いの貴族はかなり慎重に選んでいた。
攻め入られやすい土地で無い事。過去の戦歴から戦場になっていない土地。万が一が起こってもしっかりと対処できる領軍の実力と、的確な判断が出来る貴族。
それらをしかと考え、見極め。国境沿いの相手は選んでいた。
それは決して、五年前に戦があったからじゃない。戦があろうとなかろうと、平穏な場所に居て欲しいと願っていたから。親だからこそ私は願っている。
「死は常に傍にある。それを忘れてしまいそうになる。突然の事故だってあるだろう。だけど。それでも。大切な人になるかもしれないその人の冷たさは、少しでも遠いものであってほしい」
リーレイにはもう二度と、あんな想いをさせたくない。
少しでも。少しでも遠い場所に。
言って、私は辺境伯様を見た。少し困ったような、苦しそうな表情をさせていることが申し訳ない。
「すまない。これじゃまるで、またツェシャ領で戦があったら…ということを理由にしているようだね」
「いえ。危険は常にあると思っていますので」
五年前に戦い。敵を討ち。仲間を失った。そんな彼に聞かせるには辛いものだった。…申し訳ないけれど、これが私の本心だ。
国境を守ると言う役目は、それだけ重いものだと思っている。
ツェシャ領は、カランサ国に接する国境では、最も攻め入られやすい場所。そして辺境伯は『将軍』として辺境騎士団を率い、戦の場に出る。
これが南の伯爵家や、公爵家なら、こんなにも心配はしなかったかもしれない。少しでも死から遠くに居て欲しいと願っているのに、リーレイの夫になるかもしれない人が、戦に赴く人になるなんて。戦場で剣を振るう人になるなんて。
静かな空気の中で風が吹く。リーレイ達の声が少し遠くに聞こえる中、私の隣から静かで、けれど重々しい言葉が紡がれた。
「ディルク殿。申し訳ありません。もしかしたら俺は、貴方方の心配を現実にさせてしまうかもしれません」
「え、ちょ。ランサ様…」
ギョッとしたバールートさんが思わず声をかけたけれど、ソルニャンさんがそっと手で制した。私も辺境伯様を見る。
その目は、しかと私を見ていた。白銀の瞳は決意と覚悟を滲ませ、揺るがぬ強さを持って私を見ている。
「明日、緊急事態が起こって俺は前線へ出る事になるかもしれません。常にそういう意識を持っています。国も領地も領民も、守る為に俺はいます。それが俺が捧げる忠であり、俺の役目です」
「うん」
「ですが俺は、その為にこの命を投げうっていいとは思っていません。寿命尽きるまで忠を尽くすつもりです」
…少し、その言葉に驚いた。
陛下や殿下の信頼を受け、その信頼に応える忠臣。国を守る役目を担う『国の要』
そんな人が、揺るがぬ想いで告げた言葉。
「騎士道とは…などと言う者もいますが、俺にとってはそんな言葉よりも、いかに犠牲を少なく、そして生き残るかが重要です。命があれば償いでも挽回でもできます。なくなればそれまでです。時には懸ける事もあるでしょうが、そこに死を紐づけなどしません。生き汚くて結構」
「うん…」
堂々と告げられた言葉に少しだけ、返す言葉をなくす。だけど嘘は感じないし、心が少しホッとしたような感じもした。
私の胸中を知らない辺境伯様は、少しだけ瞳を揺らした。
「…五年前、俺はそう知りました。母と妹に…父と俺を見送らせて。辛い思いをさせて。帰った時には…屋敷の皆も揃って涙を流して安堵してくれたんです。それを見て、生きて帰れて良かったと心底思いました。生きて帰って来なければ…どんな顔をさせたのだろうと。生きてこそだと。生きて帰らなければならないと」
想像して、私も胸が痛む。
辺境伯家の方々もとても辛かっただろう。心配しかなかっただろう。
「騎士達にも家族がいます。そんな家族も騎士も、俺にとっては守るべき領民です。守るべき彼らを死なせていいわけがない。彼らの笑顔を守るのも俺の役目ですので。…そして今の俺にとっては、リーレイの笑顔を守るのも、同じくらい重要な、婚約者としての役目です」
最後だけは少し柔らかな声音だった。そんな声音に少し力なく笑みが浮かぶ。
この人は、生きるために。生き残る為に戦える人だ。
安堵するような。少し胸が痛むような不思議な感情を抱く。
「ディルク様」
少し視線が下がってしまう私に、バールートさんの声が聞こえた。ふと視線を上げるとまっすぐ私を見る目がある。
その傍では、同じようにソルニャンさんも私を見ていた。
「辺境騎士団では、新入りが入るたびにランサ様が必ず言う言葉があるんです。忘れた瞬間ランサ様に怒られる、全員が心に刻まなきゃいけない大事な言葉なんですけど」
「「どんな時でも生きることを諦めるな。生き残れ。そして家族と仲間を笑顔にさせろ」」
バールートさんとソルニャンさんが声を揃えて言った言葉に、辺境伯様が居心地悪そうに頬を掻いた。
だけどその言葉は、スッと心に優しい風を送ってくれて、自然と力が抜けるようだった。
「それは…とてもいい言葉だ。家族としてとても安心できる」
「…そうですか。良かったです」
そしてきっと、その言葉を辺境騎士達は皆大事にしているんだろう。バールートさんとソルニャンさんの顔を見ていればよく分かるよ。
そしてそんな騎士達にとって、辺境伯様がとても信頼でき、命を預けられる『将軍』なんだという事も。
私の前で、辺境伯様とバールートさん、ソルニャンさんが顔を見合わせて笑い合う。
「ランサ様」
「はい」
「リーレイを、よろしく頼む」
「勿論。彼女の笑顔を生涯守る為に、出来る限りをします」
託すよ、貴方に。
辺境伯様がしかと頷いてくれた時、丁度リーレイ達が戻って来た。私達を見てコテンと首を傾げる。
「どうしたの? 二人とも」
「ううん。辺境伯様からね、リーレイの事がとても好きだって話を伺っていたんだ」
「ランサっ…!?」
ギョッとして自分を見るリーレイに辺境伯様も笑う。傍では「私も聞きたいです」と楽し気なリランもいて、「それより腹減りました」っていつもの調子のヴァンがいて。
私はそれだけで、とても幸せな気持ちになれた。




