71,家族の話をしましょうか
私の朧げな記憶にある母様は、憶えていない顔で、穏やかな笑みを浮かべていたと思う。長くて黒い、ふわりとした巻き毛が風に揺れていたのを少しだけ憶えている。
母様の記憶も朧気だけど、母様の家に関して私とリランは何も知らない。この家に来た事もないし、会った事もない。叔父様が来てくれてそれがとても嬉しくて楽しかったから、あまり気にもしていなかった。
話した父様は少しだけ視線を下げた。その目が少しだけ揺れているように見える。
けれど父様はすぐに、いつもの穏やかで優しい笑顔で私を見た。
「今のリーレイの悩む様子を見て、カロに似てると思ったんだ」
「うぅ…」
ダンスと言う点で母様と似ていたなんて…。社交の場に出る事にならなければ知らなかった事だ。
嬉しいのに…喜べない。思わずガクリと項垂れた。そんな私の隣でランサは少し楽しそうに私を見る。
「そうか。リーレイの母親似の一面を知れたのは嬉しいな」
「私はリランの方が母様似だと思ってた…」
「そうですか?」
「うん。普段はリランの方が似てるかな」
首を傾げたリランに父様も頷いた。
母様の事をリランは憶えていない。リランがまだ二歳の頃に母様が亡くなったから。
母様はあまりにも早く、いなくなってしまった。
唯一記憶を沢山持っている父様は、私とリランを見て微笑んだ。
「自分から前に出なくて。控えめで。そんなところはリランが似ているね。だけどそう見えて、こうすると決めると誰よりも意思が固くて。全部自分でやろうとする。頑張りすぎる。そういうところはリーレイの方が似ているよ」
「まぁ。初めて知りました。私はお父様に似たのかと思っていました」
「そうかい? 私は二人がそれぞれに似ているところがあるから、私はあまり考えてなかったな」
私の黒髪は母様似だ。だけどリランの緩い巻き毛も母様似。
母様は緩い巻き毛が黒くて長く。黒曜石のような黒い瞳だったと聞いている。特段秀でた美しさがあるわけではなかったそうだけど、父様は今でも、母様を想い、後妻を迎える事もない。
今、父様が話してくれた母様の話に、少し胸があたたかくなる。
今も変わらない父様の気持ちも。私とリランの内にある母様への想いも。胸の中にちゃんとある。
それに、母様の事を思い出して、久しぶりにあたたかい気持ちになれた。いつも真っ先に思い出すのは嫌な事ばかりだったから…。
「憶えてる事なんて、少ないな…」
「記憶は次第に薄れてしまうものだよ。だけど、そういう些細な日常が幸せをくれた事は憶えてる。だから決して、心から消える事はないんだ」
「うん…」
些細な記憶も特別な記憶も。いつか薄れてしまうけど、きっと感じた幸せは色褪せない。胸の中で大切なものとして残り続けていく。
私にとってこの家で、家族で暮らした事も。ツェシャ領でランサに出逢えた事も。
「お姉様。せっかくですし、久しぶりに皆で夕食にしませんか? 勿論、お義兄様達もご一緒に」
「それは嬉しい誘いだな。御馳走になってもいいでしょうか?」
「勿論」
父様も笑顔で頷いてくれて、私もランサを見て笑みが浮かぶ。
家族四人で囲んだ食事。そんなこの家での光景に人が増えるのは例え一晩だけでも嬉しい。
「大丈夫ですか? リラン様。バールートさんかなりの大食漢ですよ」
「あら。ヴァンもそうですよ?」
「いや、どっちもどっちだと思いますよ。コイツら一緒にするなら、材料はコイツらに買わせた方がいいかもしれません」
「うっわソルニャンさん。そんな言わないで下さいよ。俺は若いんで食べる量が多いだけです!」
「それを言うと俺のが若い」
「大して違いません!」
ヴァンもバールートさんも相変わらずの仲の良さだ。聞いてて笑ってしまう。そんな私の隣でランサも、父様もリランも笑っていた。
♦*♦*
リーレイの家の裏には、野菜を沢山植えている畑があるらしい。
見せてもらうと確かに、広めの敷地を活かした栽培がされていた。それに、とても綺麗に手入れされている。日頃からこまめに行っているんだろう事がよく分かる。
今そこで、リーレイとリラン嬢、ヴァンが夕食に使う野菜を収穫作業中だ。
手伝おうかと思ったが、なんとなく、この家でこうしていたのかと思う光景を見つめている。そんな俺の隣にはディルク殿もいて、三人を見つめている。
「久しぶりの光景だ」
「俺も、領地ではあぁいう光景を見ます。ずっと見ていたいような微笑ましいものです」
こういう何気ない日々を守る為に、俺達は戦うのだと思い直す。領民の。一つの家族の。その笑みがこれからも続くようにと願って。
俺の傍ではソルニャンも光景を見つめ、「俺も家でやりました」とバールートも笑みを浮かべている。
「ヴァンはよく、リーレイに怒られていたね」
「それは屋敷でも見ますね。あの二人の信頼には、少々妬けてしまいます」
「おや…。だけど、辺境伯様もヴァンを信頼してくれていると、私には見えるよ」
「しています。ヴァンは気力は見えませんが、リーレイへ向ける言葉と態度に、偽りはないと感じますので。俺も…あぁいうモノは、いつも感じます」
「…そうか。そうだね」
ディルク殿は、俺の言い表しづらい言葉も読み取ったように深く頷いた。
それを感じて、やはり優れた人だと思い直す。ヴァンがリーレイに向けているモノをディルク殿は感じ取り、そして僅かな時間で俺とバールート、ソルニャンとの信頼も見て取っている。
「だけど、当初ツェシャ領へ二人が行った時は、いらぬ誤解を与えてしまったのではないかな?」
「それは…少し。ディルク殿は何も言わなかったのですか?」
「うん。言っても多分リーレイは「ないない。そんなの見られないよ」とか言うかな。それに、そうなったらリーレイは多分、ちゃんと自分で誤解を解こうとするだろうから」
「…成程」
屋敷に来た当初、リーレイもその誤解には気付いていたらしい。だが言い返す事はなかった。返しても、その誤解を解くのは難しかっただろう。
俺が屋敷を空けていた間の事は全て、ディーゴとシスに聞いた。
その時の話はリーレイから聞いてはいないが、もしもそれが理由で不仲になっていても、リーレイなら「違います」ときちんと言ってくれそうだ。
沢山の不安を与えて。あの時の俺は、リーレイの不安にも無力感にも気付いてやれなかった。
リーレイは自分の不安や弱いところをあまり口にしない。ヴァンにもそう聞いた。
俺は、その全てを受けとめられるようにありたい。傍に居ると、リーレイが安心できるように。
「…リーレイは、初対面から俺をまっすぐに見つめる人でした。俺の事を知る為に来たと。あの言葉には本当に驚かされて。嬉しくて…。俺もリーレイの事が知りたいと思わされたんです。いつもまっすぐで、自分で駆け出して。心配もありますが、彼女が来てくれて良かったと。心から思っています」
視線の先でリーレイが笑っている。豊作なのか、ヴァンが山ほど収穫するのを、困ったような顔をしているリラン嬢と共に見て。
そんな様子が。姿が。愛おしくて堪らない。
「私はね、辺境伯様。殿下からこの婚約話を頂いた時、一度断ったんだ」
穏やかな空の下で告げられた静かな告白に、俺は一瞬、言葉が出なかった。それはバールートとソルニャンも同じで、驚いたようにディルク殿を見る。
リーレイ達を見つめる、優しくもどこか悲し気な眼差しがあった。
俺は、俺の両親が同意したと聞いても、大方俺に委ねたのだろうと思っていた。本当に嫌だと思う相手なら、俺は解消する旨を伝えるだろうと。
当初は殿下から「ティウィル公爵家の令嬢」だと相手を教えられ、当主の娘だと思っていた。だから、父である公爵も了承したのだろうと。王家と近くなる縁組であるというのは確かにあるが、家柄のつり合いとしては、決しておかしくはない。だから『令嬢』の親も頷いたのだろうと。
だが実際にはリーレイは公爵の姪であり、父親は一文官。籍が公爵家にあるとはいえ、公爵の娘であるよりは縁組はしやすかったかもしれない。
リーレイが来てくれたという事は、親の了承があったという事であり、まさか断っていたなどどは思わなかった。
義父の告白に俺は言葉が詰まりながらも、なんとか振り絞った。
「…それを、リーレイは知っているのですか?」
「知らないよ。私はあの子に判断を委ねたから」
「では……なぜ?」
何故、婚約に反対したのか。何故、反対しながらもリーレイの判断に任せたのか。
理由を考えながらも、俺はすぐに頭が冷えた。
王都で過ごしていた娘が、赴く先は辺境の地。それも――…
「……戦が、あったからですか? まだ五年前の、最近の事。また…起こるかもしれないと」
ディルク殿の目が少しだけ揺れた。
バールートやソルニャンも解ったかのように視線を逸らす。
行かせたくないだろう。どんな経緯で起こったとしても、戦場になった場所だ。
また起こればと、考えるのは当然の事。
戦での勝利も。辺境伯の活躍も。決して喜ばれるばかりのものではない。
「ランサ様。誤解しないでくれ。私はそれを理由に断ったんじゃない」
はっきりと、強い声音が、沈んだ俺達を引き上げた。
慰めなどない。ただ事実を告げたという声。そして俺達を見るまっすぐな目。
それが少し、リーレイに重なって見えた。
俺達の目がディルク殿を見る。そこに居るのは、一人の父親であり、まぎれもなく…公爵家の方だった。
「貴方や、貴方の部下達が命を懸けて国を守ってくれた事、私は敬意を抱く。失われただろう命も、想い巡らせて悼む。ありがとう。国を守り続けてくれて」
そう言って、躊躇いなく頭を下げる様に、俺も言葉が出て来ない。
いつか、同じ想いを抱いた気がした。そして思い出した。
リーレイと初めて会った時、彼女も同じように俺に頭を下げたんだ。迷いのない敬意の礼に意表を突かれたのを思い出す。
頭を上げた時、リーレイと同じようにまっすぐな目が俺を見た。
「私が婚約を一度拒んだのは、リーレイに、死に触れて欲しくなかったからだ。…あの子は、亡くなった母親から、死の冷たさを知ってしまっている」




