67,髪一本も大事です
少し驚いている私の隣で、とてつもなく不機嫌な空気が立ち昇る。
…ヴァン。「うっわ…」って身を引かないの。
「怒んなランサ。ヴァンくれってのが駄目なら、一試合の相手ぐれぇいいだろうが」
「父上の相手なら俺がしますよ」
ランサの機嫌がよろしくない。だけど本気で怒っているようには見えない。ちょっと不機嫌と言うか、やらせたくないって風に見える。
それを感じながらも、私は首を傾げる。
「ガドゥン様。私が剣使うって知ってたんだ…」
「あ。それ言ったのバールートさんです」
「そうなの?」
それなら私知らないや。知られて困る事ではないし、ガドゥン様もシルビ様も不快なご様子ではないから、少しホッとする。
私の視線の先でバールートさんが「殺気! それ本気のやつ! ランサ様やめてください!」って悲鳴を上げてる。…ランサ。やめようね。
本能なのか、立ち上がってすぐにでも逃げれる体勢をとるバールートさんが立て続けに大変な目に遭うのは回避させようと思って、私はスッとランサのシャツを引いた。
そうすると、ランサは急にスッとそれまでの空気を引っ込めて私を見る。
「どうした? リーレイ」
「ランサ。私はお受けしたい。いいかな?」
「……リーレイがしたいなら。だが、父上は加減しない人だから、リーレイの髪一本でも切れたらと思うと…」
「それは許して」
「できない」
即答しないで!? それじゃ私の普段の鍛錬はどうなの!
ものすごく真剣な顔をするランサに、私は驚愕しながらも何とか続ける。
「ランサ。心配してくれる事、嬉しいよ。だけど、もし二人でいた時に野盗にでも遭遇したらどうするの? そうなったら私は剣を抜く。ランサを守りたいし、力になりたい。それでもダメだって言うの?」
まっすぐランサを見つめて言うと、ランサが「うっ…」って言葉に詰まる。
私の言う事はランサには解るはず。だって私達は同じ想いを持ってるんだから。髪と命。比べるまでもない。
「リーレイが俺の力になりたいとっ…。そんなにも凛々しいリーレイも好ましい。そこまで想ってくれてありがとう。俺もリーレイの力になれるよう精進する」
…いやそうじゃなくて。私が言いたい事が何も伝わっていない気がする。
ランサの思考、どうか正常に働いてください。それと、私の手をぎゅっと握る場面じゃないからね!
目の前のランサに少し困る。…決して嫌に思わないのだから不思議だ。
だけど、髪一本を気にされると、また別の事を考えてしまう。
「…もしかしてランサは、やっぱり私が剣を振るう事を知られるの、嫌なの?」
「そんな事は無い。むしろ見せつけて、俺の婚約者は凛々しく勇ましく素晴らしいだろうと自慢したい。だが、あまり見せつけるとリーレイに虫がついてしまいそうでしたくない」
「うん…。嬉しいんだけど、そんな虫はつかないから大丈夫。ずっとそうだったし。行き遅れとか出しゃばりとか散々言われたし…」
「リーレイにそんな事を? 今度殴っておく」
「それはやめようね」
辺境伯が何しようとしてるのかな?
何でだろう。ランサの言葉はとても嬉しい…んだけど、自分でも分かる。ランサの心配は過剰だって。街では出しゃばりで生意気。貴族社会では変わり者。そんな私に言い寄って来る男なんていない。
こんな私を好ましく思ってくれたのはランサが初めてだから。
ランサの心配には、困ってしまうような笑みがこぼれる。
ランサだけだ。そんな心配をするのは。そこまで思うのは。
「お嬢。話逸れてる」
「! そうだよランサ。私は手合わせしたい。駄目…?」
「……分かった。俺はリーレイを困らせたいわけではないんだ」
握った手にちゅっとランサは唇を落とす。
その目に心配の色が見えて、何度か知れない困った気持ちになる。
「リーレイがしたいならするといい。その方がリーレイが笑顔になれる。その笑顔を引き出し、守るのが俺の役目だ」
「そんな大袈裟な…」
「もしも髪一本でも切れたら、俺が父上に決闘を申し入れることにする」
「全力で回避するから! その本気の目はやめて!」
私は親子の決闘を起こしたいわけじゃないよ!?
なんとかランサから了承を得たものの、とんでもない緊張感を抱きながら、私はガドゥン様と手合わせする事になった。シルビ様も止めるつもりはないようで見守ってくださっている。長くガドゥン様のお傍にいるから、きっと解っているんだろうな…。
バールートさんから剣を借りてガドゥン様の前に立つ。馬に乗って来た時と同じような動きやすいワンピースに着替えていて助かった。丈も長くないから動きの邪魔にならない。これなら普段と変わりなく動ける。
ガドゥン様の前に立って構えると、その立ち姿を正面から見る事になって、心臓が早鐘を打つ。
肌を刺す空気。だけど恐くない。体の強張りは動きを鈍らせる。
ソルニャンさんの「開始!」の合図とともに、私は地面を蹴った。
♦*♦*
試合を見る俺の傍で、こっちへ戻って来たバールートさんがランサ様にむんずと頭を鷲掴まれていた。「いだだっ!」って悲鳴と「王都にいる間しごいてやる」って悪魔みたいな声が聞こえるけど、俺は何も聞こえませんってことにしとく。俺は自分の事で手一杯なんで。
そんなランサ様もバールートさんを放すと、俺と一緒に試合を見つめた。その目は試合開始前までの会話からは想像できないくらい、真剣で強い。…え。もしかして髪一本本気で追ってる? そんな感じじゃないけど。
最初の一手からお嬢は全力だ。お嬢は一切加減なんてしていない。
刃を潰した剣とはいえ怪我はする。お嬢は多分当たり所とかの加減はしてるだろうけど、そこだけだろう。
力加減なんてして勝てる相手じゃない。
お嬢は別に、是が非でも勝ってやるって気迫で挑んでるわけじゃない。そうならあんなに落ち着いてないだろう。
ただ全力で。自分がどこまで食らいつけるかって考えに見える。…砦でもよくあぁした試合をする。
ガドゥン様は余裕があるように見える。すでに騎士二人相手してんのに、どんな体力してんだあの人。
ガドゥン様の一打を受けないようにするお嬢は、小さな動きと僅かな隙を狙う一手を打ち出す。
「ヴァン。よくあれだけリーレイを鍛え上げたな」
「俺は特に何もしてないですよ。ただ、どこが出来てない、なってないって言いながら、打ち込んで来るお嬢を弾き返してただけです。後はお嬢自身の鍛錬です。何度転がろうが。何度流血しようが。それでも立ち上がって来るお嬢の方がなかなか」
思わず思い出してクツクツと喉が震えた。隣からランサ様の視線を感じるが止まりそうにない。
教えてくれと頼まれてから十年以上、俺はお嬢に鍛錬をつけた。使い方。力の入れ方。打ち込み方。俺は口で説明するのはさして得意じゃないから、動きながら教えた。
さすがに初めて大きな怪我作ったときは「もうやめるかな?」と思った。
寧ろ逆だった。あの黒い目で俺をまっすぐ見て「まだまだやる! もっと強くなる!」って言ってきた。一瞬理解が追いつかなくて、「あ、そうです?」って呆けた声しか出なかったのを覚えてる。
「…ヴァンさん。俺、気になってる事あるんですけど聞いていいですか?」
「何です?」
「リーレイ様大事にしてるティウィル公爵は、剣の事何も言わなかったんですか?」
ランサ様の視線も俺を見る。
傍では夫人や、ソルニャンさんも「そういやそうだな」って言いながら俺に視線を向ける。…そんなに注目しないでくれます?
「お嬢が「私剣習って強くなる!」って御当主に言ったら、御当主はどんな反応すると思います? 決まってるじゃないですか。言いたい事色々あるけど、キラキラした子供お嬢の目に何も言えずに「…そうか。頑張りなさい」って言う他ないでしょ」
「…そうだな。で。教えたお前はどんな目に遭った?」
「フッ…。とりあえずお嬢の見えない所で鳩尾に一発」
「ヴァンさんも大変な目に遭ってんだな…」
「それだけならまだいいですよ。続けて何言われたと思います? 「お前は護衛だ。剣を教えるならお前はリーレイより強くいろ。でなければ私はもう一度お前を鍛え直す。それから教えるなら手は抜くな」ですよ。地獄かと思いました」
お嬢の知らない所で俺は色々な目に遭っている。俺はこれを切実にお嬢に訴えたい。訴えたところで「えー…叔父様そんな事しないと思うけど…」とか言うのが目に見えてるけど。
するんです。アンタに甘いだけ。俺は何度もその差をこの身体で味わってる。
御当主だって「やめさせろ」って言わないから面倒だ。言うなら俺はそうしたけど…。
やるならやれ。徹底的に。それがティウィル公爵。
思い出して項垂れてため息吐くしかない俺に、ソルニャンさんが問う。
「なあヴァンさん。そもそも教えないって選択はなかったのか?」
「そんな事したら、「じゃあ他に良い人いないかな」とか言って探しますよ。ここでお嬢が御当主でも頼れば、「何してんだお前は。どこの誰と知れん奴にリーレイを任せようとしてんだ」ってキレた御当主に鳩尾じゃ済まない刑に処されます」
「…ヴァンさん。本当に大変だな」
俺の苦労がちゃんと人に伝わった…。今まで分かってくれるのは旦那様くらいだったから、涙出そう…。
流石にランサ様も苦笑いしか浮かばないらしい。
「ティウィル公爵って、ヴァンさんにはすごく厳しいんですね。リーレイ様には甘いのに」
「そりゃ俺は身内じゃないんで」
俺はただの拾われ子。御当主が旦那様達の為だけに捜して、たまたま拾ったのが俺だっただけ。
「……そうかな…」
「? 何か言いました?」
「いや。お前がリーレイの元にいて良かったと思っただけだ」
ランサ様がなぜか少しだけ口角を上げ、柔らかな目をしていた。そんな目で見られると首を傾げるしかない。
…前にはお嬢との仲を疑われた人に、そんな目で見られるとは。
「それより。ランサ様の髪一本発言の方がどうかと思いますけど?」
「ランサは本当にリーレイ様が心配なのね」
「それは…まぁ…」
ランサ様が困ったような顔をするのを、バールートさんもソルニャンさんもクスリと笑って見る。部下の目にはランサ様も頬を掻いた。
そんな人に、俺は興味と探りを混ぜて聞いてみる。
「ランサ様ならどうします? 戦で髪一本切らず勝って帰って来て、って言われたら」
「それは…無理だな」
俺はランサ様を見た。困ったような、悲しさも感じさせる目が試合中のお嬢を見つめている。
そんな横顔を見つめる。俺と変わらない長身。日に当たって毛先だけ赤みがかっている黒髪。普段は鋭くて強いのに、ただ一人を見つめる時だけは柔らかい白銀の瞳。端正で精悍な容貌。
「例えどれだけ頼み込まれても。リーレイの望みでも。それは無理だ。出来ない約束は交わせない」
その声音は静かだが、胸を刺す覚悟が感じられた。
俺はその横顔を逸らさず見つめる。
お嬢が絡むと偶に忘れそうになるけど、この人は『将軍』だ。他の貴族とは違い、武人としての顔を持ち、国境の番人と言う役目をもつ。
その最前線を己で走る人。
戦場を知り。幾人もの相手を討ち。幾人も仲間を失った人。
「んじゃ、出来る約束をいくつも交わせる。そういうの、お願いします」
「あぁ。勿論だ。リーレイの為にもな」
本当に頼みます。俺もお嬢が悲しむ姿は見たくないんで。
もう…。お嬢には悲しみを隠すような事、してほしくない。話に聞くだけで嫌になる。
そんな事を思ってた俺の耳に、ガキィッと金属音が聞こえた。
見れば、お嬢の持っていた剣が弾き飛ばされていた。決着ついたみたいだな。
「やるな、リーレイ嬢」
「いえっ…。はあっ。ありがとうございました」
「おぅ」
見守ってた俺らも近づく。
ガドゥン様は夫人と微笑み合い。ランサ様達はお嬢に労いの言葉をかけている。
大きく息を吐くお嬢は少し汗ばんでいて、黒髪が頬に張り付いている。それをランサ様はそっと払っていた。
照れくさそうな顔をするお嬢を、ランサ様は愛おしそうに見つめる。
そんな様子に、本当にお嬢の婚約者がこの人で良かったと、俺は改めて思えた。




