4,いざ行かん! ……ってあれ?
王都と辺境領地までは距離がある。
そもそも、移動手段なんて徒歩か馬か馬車。一日に移動できる距離は決して長くない。
急ぎの伝令役でもない私達は、ゆっくりした行程を進むのみ。
通常、王都アングリートから北東の辺境の領地まで約二月かかる。昼夜馬で走り続ければ半月で走破できるらしいけれど、そんな強行行程を進むつもりはない。
「ふぅ……。とうとう着いた…」
私とヴァンは国境に接する辺境の地、ツェシャ領へやって来た。
俗に辺境領と呼ばれるこの地は緑豊かで、北には緋国との国境、東にはカランサ国との国境がある。
心地良い風が私の高く結った髪を撫でていく。小高い丘の上から、私は眼前の景色を見つめる。
およそ一月半前、私とヴァンは、父様とリランに見送られ家を出た。ローレン王太子殿下も以前のようにお忍びで見送りに来てくださった。そして手紙を預かった。
『辺境伯、ランサ・クンツェには事前にリーレイ嬢が行く事は伝えてある。アイツと良好な関係を築けることを祈っている』
いただいた言葉に殿下の心遣いが感じられて、嬉しかった。
辺境伯様はどういう方なのか、不安が無いと言えば嘘だ。でも殿下には聞かなかった。行けば分かる。向こうだって知らないのは同じはず。私だけコソコソ嗅ぎまわるのは気が引けた。
だから、ヴァンが来てくれた事、本当に安堵してる。例えその人が馬上で呑気に欠伸しててもね!
殿下から婚約話を貰ってから家を出るまでの一月の間、私は王都にある叔父様の屋敷で一通り教え込んでもらった。ものすごく厳しかった。
歩き方からカップの持ち方、果ては言葉遣いまで。世の貴族の御令嬢方はこれを生まれてから当たり前にしてるのかと思うと感心してしまった。
従兄のラグン様は、いきなり嫁ぎ先が決まった私に少し頭を抱えていた様子だったけど、忙しい合間を縫って私に勉強を教えてくれた。
『辺境地へ行くなら、少なくとも地理とそこの特産品、カランサ国との事、それから王家との関係と歴史は重点的に学んでおけ。分からない所は俺が教える。……辺境伯殿の事、俺が知っている事を話してもいいが…』
『いえ。それは聞きません。行ってから、ちゃんとこの目で見ます』
『……そうか』
ラグン様はどうしてか力を抜いたような言葉と、どこか笑いそうな声音でそう言っていた。
今の私の供はヴァン一人。家に使用人はいないし、ついて来て欲しいと言える人もいない。ラグン様やローレン殿下は侍女や護衛を付けようかと言って下さったけど、丁重にお断りした。
知らない人に同行を求める気にはなれなかった。行く先は辺境地、五年前の戦の最前線に最も近かった土地。
だから私は今、ヴァンと二人で馬を並べて進む。
今日が最後の馬上だなと思って、進む馬の首にそっと手を触れた。この馬は叔父様が用意してくださったとラグン様に聞いた。少しため息交じりに、一月お世話になった最後の日に渡してくれた。
『嫁に行く姪に渡すのが馬とはな……。父上もなんて賭けを…』
そう言いながらも「幸せにな」と言ってくれた時には、柄にもなく視界が滲みそうになった。何くれ言ってもラグン様は優しい。
二つ年上のラグン様は、大変な立場におられるけど、いつも顔を合わせると実の妹のように接してくれる。
だけどこの二人の旅路に、ヴァンは思うところがあったようで……
『え。これって本当に嫁入り?』
って、何度も思い出したように言うから、この道中で何度も気が抜けた。抜かれすぎ感が否めない。
複雑な気持ちになるたびに心を持ち直すのは大変だった。
気を取り直して行こう!
進むと、少し離れて大きな町が見えてきた。
「あれが中心地かな?」
「みたいですね。おー、思ったより大きそうな町」
確かに。遠目からだけど、大きくて活気がありそうな感じがする。あそこがこの地の人々が暮らす場所。
立ち寄ってみたいけど、それはまた今度。
辺境伯様のお屋敷は、町を少し離れて国境側へ近づいた場所にあると聞いた。
町から伸びている道に合流して、また少し進む。そして見えてきた一軒の屋敷。
「どうします、お嬢?」
「勿論行く」
「りょーかい」
ヴァン、面白がってる? 何で珍しく楽しそうなのかな?
目の前の屋敷は広い。叔父様の屋敷程ではないけれどそれでも広い。平民の私からすれば、維持費だけで頭を抱える広大さだ。
塀に囲まれた屋敷の前、門の前で馬から降りる。門を入ってすぐの前庭は美しく整えられている。花や植物は少なめに見えて、芝生が広くあり短く刈り揃えられている。
それでも、控えめな品のある庭だと思った。
そんな庭に石畳が伸びていて、ご立派な屋敷に視線が向く。塀はまだその後ろまで伸びていて、まだ奥行きがあるのが分かる。
広い…。
「もっと堅固な要塞みたいな屋敷かと思ってました」
「あくまでお屋敷だからね。砦の方がそうなんじゃないかな」
ヴァンの言葉が少し胸に痛みを与えてきた。
五年前の戦の一報は、王都にいた私達にもすぐに耳に入った。
当時、カランサ国との間に緊張が走っていたわけじゃない。カランサ国内は次期王位争いで荒れていたらしく、その一派が仕掛けてきたのだと聞いている。
そして、それは辺境伯様によって撃退された。国家間同士のもっと大きな戦だったら、被害も大きくなっていただろうと思う。
そして私達はその戦の報を、どこか他人事のように楽観的に、受け取っていた。
なんて愚かな事なんだろう……。ここでは実際に人が戦い、命を落とし、被害に怯えていただろうに…。
無意識にぎゅっと拳をつくった。けれどすぐに「お嬢」と呼ばれて顔を上げる。
屋敷から一人の男性と一人の女性がこちらへ向けてやって来る。
こっちからも向かいたいけど、許可なく立ち入れないからじっと堪えて待つ。
やって来た二人は、私達を怪訝な表情で見た。
尤もだ。いきなり男装の女と、呑気な男がやって来たら…。
「失礼ですが、どちら様でしょう?」
「突然の訪問失礼致します。私、リーレイ・ティウィルと申します。こっちは私の護衛のヴァンです」
「! こちらこそ失礼いたしました。どうぞこちらへ」
軽く頭を下げると、すぐに二人は私達を案内してくれた。
男性の方は四十代で、屋敷の使用人にしては体つきも逞しい。女性も年の頃は男性と似てるくらいだと思う。髪をまとめて頭の後ろで団子にしてある。
女性と男性は、馬から下ろしたたった二つの鞄を持ってくれた。申し訳ない…。
石畳を歩きながら、男性は親しみやすい口調で言葉を紡ぐ。
「お早いお着きでしたね。もう半月はかかるかと」
「はい。……景色が美しかったので、つい馬の足も軽くなったようで」
「ははっ。それは嬉しいお言葉です」
馬は慣れているので、なんて言えない。言えない事が少し苦しい。
そんな馬は、別にやって来た馬丁らしい男性が引き取ってくれた。これからも世話くらいはさせて……見るだけになるかな。するのは無理か…。
扉の前まで来ると、二人が扉を開けてくれた。
「「ようこそおいで下さいました」」
「っ…!?」
……危ない。声が出るところだった。
メイドを始め家人たちが左右に並んでいた。綺麗にズレなく下げられた頭に一瞬足を引きそうになったけど、何とか押し留まる。危ない…。
叔父様の屋敷ではこういう出迎えは受けない。立場も低いし、父様も「しなくていい」って断っていたから。その代わりのように叔父様がいつも笑顔で出迎えてくれた。
これが、お客と家に入る者の差……。大きい差だ。足が震えそうになる。
「まず、客間へどうぞ」
男性に案内される私の背を、ヴァンが見えない後ろからそっと押してくれた。はい行きますよーって言うように。
……ヴァンはこういう時も動じないね。羨ましい。
歩き出す前に、私はフッと息を吐いて口を開いた。
「出迎えありがとうございます。リーレイ・ティウィルです。皆さんこれからよろしくお願いします」
生憎男装だから淑女らしく礼は出来ないけれど、伝える口は動く。ピクリと反応した人も居る中、それでもきちんと教育されているのか、大きく動く人はいなかった。
挨拶をして、私は案内してくれた男性と女性の元へ進む。二人も少し驚いたような顔をしていたけど、私が行くとすぐに「どうぞ」と切り替えた。
案内されたのは客間。品も辺境伯邸にふさわしくて、我が家とは全然違う室内。落ち着いた空気を出す明るい壁紙。置かれてある骨董品や掛けられている絵。十分に辺境伯の立場を示すような物ばかり。
その中のソファに腰掛ける。ヴァンも座ればいいのに、私の後ろに控えて立ったまま。
私の前には女性が淹れてくれた茶がコトリと置かれる。
そして向かい合って二人が座った。
「改めてご挨拶申し上げます。私は当屋敷の家令、ディーゴと申します。こちらはメイド長のシス。奥様の身の回りの世話を致します」
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします。それと……私の事はリーレイと。その……まだ妻ではないので」
ちょっと恥ずかしいな…。慌てている感が出ないように、早口になりそうになるのを抑えながら伝えると、ディーゴさんは「そうですね」と苦笑した。
「では、我々にも使用人に対するお言葉で…」
「分かった」
それもそうだなと胸の内で思う。
彼らにとって、私は辺境伯様の妻になる人ということだろうし。私も決して後ろ向きでここにいるわけじゃない。前向きに検討したいと思ってる。
今の私はただ、辺境伯様の事が知りたくてここにいるという気持ちが強い。そして考えたい。
だからこそ。
「それで、辺境伯様はどちらに? ご挨拶したいのだけど…」
屋敷の主で辺境領の領主。『国境の番人』にして『闘将』は一体どんな方なのか…。
早く会いたいし、ご挨拶しないのは礼に反する。何より落ち着かない。
問うた私は少し身を乗り出していたかもしれない。けれどディーゴもシスも、別に咎める事もなく眉を下げた。
まるで困ったかのように。申し訳なさそうに。
「ランサ様は只今、屋敷にはいらっしゃいません。砦の方でお勤めの最中です」
「……それもそうですね」
「いえ…。実は、数日前から国境付近で野盗が少々動き回っておりまして。ランサ様はその為、ここ数日はずっと砦で警戒に当たっておられるのです」
「そう…ですか。お帰りは…?」
「その知らせはまだ来ておりません。恐らくしばらくは戻られないと…」
まだ、会えないのか…。
それが分かって急に、ソファから立ち上がる力もなくなった。重くなって体が沈み込んでしまいそう。胸にもやもやとした不安のようなものが広がっていく。
けれど、仕事なのだから仕方ない。
国境の警備は辺境伯の最大の務めにして最優先事項。たかが一人の女に会うなんて事とは比べるまでもなく重要な事だ。
威勢が消えてしまったと思ったのか、ディーゴとシスが気を取り直すように続けた。
「リーレイ様にはごゆっくりと、お好きな事をしてお過ごしいただくよう仰せつかっておりますので、何でも御申し付けください」
「ランサ様がお戻りになられるまで、どうぞごゆるりと」