36,必要な事を忘れていました
王都にいた頃は日が昇る時間には目が覚めた。それはもう体に染みついていて、今も変わらない習慣になっている。
私は今日もパッと起きる。慣れてきたふかふかのベッドから跳ね起きると、窓辺で外を見る。もう空の向こうに昇り始めた太陽が見える。
今日もいい天気になりそう。
そう思ってすぐに着替えを始める。
クローゼットを開けて服を取って袖を通す。そして鏡台の前に座って髪に櫛を入れる。
母様似の黒い髪は、辺境伯邸に来てからメイド達が用意してくれた油やら何やらで艶が出ているように思う。使う物が違うだけで大きく変わるんだな…って初めて意識した瞬間だった。
ここへ来たばかりの頃は上手くいかなかった使用人達やメイド達との関係も、今は好意的に築けていると思う。
離反者の一件以降、メイド達はそれまで以上にお世話してくれるようになった。常に私の部屋をピカピカにしてくれるし、必要な物もすぐに準備してくれる。私がお茶やおしゃべりに誘っても笑顔で受けてくれる。
…そしてなぜか、そこにランサの事が加わるとやる気が跳ね上がっている気がする。どうして…。
小さな積み重ねだけど、これからも続けたい。
ヴァンに剣の鍛錬を受けた後も、「リーレイ様凄いですね」「薬箱を持ってきます」って、風変わりな私をありのままに受け取ってくれる。
ランサと遠乗りに行く時も、「ヴァンさんに馬の用意を頼んできますね」ってすぐに動いてくれる。初めての時には私は少し驚いたけど、ランサは少し嬉しそうだった。
『ランサが認めてくれたからだね。ありがとう、ランサ』
『それはどうだろうな』
『…?』
『リーレイはリーレイらしくいるのが一番いいという事だ』
ランサの答えは私の疑問を解消はしてくれなかった。
だけど、私は小さな積み重ねを続けていくだけだから。もっと頑張る。
よしっと今日も自分に気合を入れる。丁度いい時に扉がノックされた。
「リーレイ様。お目覚めでしょうか?」
「うん。どうぞ」
答えると扉を開けて入って来る一人のメイド。名前はセルカ。
セルカはきちんと仕事をこなす真面目なメイドで、シスも信頼しているみたい。だから私の傍に居る事も多い。
私も分からない事があった時はセルカに聞く事もある。セルカは分かる事はすぐに教えてくれる。
「おはよう。セルカ」
「おはようございます。すぐに朝食の準備が整うとの事です」
「分かった」
早くから砦に行くランサに合わせ、辺境伯邸の朝は早い。朝一番に仕事を始めるのは料理長だ。
朝からランサの為に沢山作ってくれている。それにすごく美味しいから、私もすぐに料理長の料理が好きになった。
鏡台の前から立って、私はすぐにセルカがいる扉に向かった。私の足取りに合わせてセルカは脇へ下がる。
部屋を出てそのままセルカを伴い、私は食堂へ向かう。
と、すぐにランサとヴァンに出逢った。二人も私に気付いて視線を向ける。
「おはよう、リーレイ。セルカ」
「おはよう。ランサ、ヴァン」
「おはようございます」
「おはようございます。ランサ様」
ヴァンとセルカは目だけを交わして挨拶を済ませていた。それを横目にランサは私の手をスッと取る。
「行こうか」
「うん」
ランサはいつも私の歩幅にあわせて歩いてくれる。
カツカツと靴音が鳴っている。ランサは屋敷ではラフなシャツ姿で、隊服は着ていないけどズボンは隊服の物。
ランサは朝早く起きて、鍛錬をしてから軽くシャワーを浴び、そして朝食を摂る。
だから、後は隊服の上着を着るだけって格好にしているらしい。…着替えの時間も省く程忙しいってことかなって知って、本当にちゃんと休んで欲しいと思った。
つらつらとそんな事を考えていると、後ろからのんびりなヴァンの声が飛んでくる。
「そういや、もうちょっとすればまた社交の時期ですよね。ランサ様って参加はどうするんです?」
「あぁ俺は――…」
社交…? あぁ社交の時期ってもうすぐだった。
そういえば、前にヴァンは社交界は女の戦場だって言ってた。私もこれからは無縁じゃないから頑張らないと。
社交界って煌びやかな印象しかないから、私なんて行っても馴染めないだろうし、まず圧倒される予感しかしな……
…ん? 待って。何か忘れて…
「リーレイ? どうかしたか?」
急にランサがパッと目の前に現れた。精悍で端正なお顔が至近距離はよろしくないっ!
驚きすぎて声も出ないけど、心臓は出そうになった。
ドドドッと走る心臓を宥める。危なかった…。
思わず胸に手を当てると、隣のランサとセルカが心配そうに私を見つめる。
「大丈夫か?」
「どこか不調でも?」
「だ、大丈夫…。ちょっと…驚いただけ…」
…ふぅ。危ない危ない。
ランサもセルカもホッと安心したような顔をしてくれて、ランサは謝るように私の頬に手を添えた。
「すまない」
「ううん。…いい加減慣れない私にも問題があるから」
「…慣れなくていいんだが」
ぼそりと何か紡がれたけど、首を傾げてランサを見ても教えてくれそうにない。
代わりに微笑みを浮かべてランサは私を見つめると、その手を頬から横髪へ移した。
「何か考え事だったのか?」
「うーん…。何か忘れてる気がして…」
何だったんだっけ?
今も必死に頭を捻るけど出てきそうにない。
考えに考える私の後ろでは、気にしてなさそうなヴァンは呑気な一言。
「とりあえず、朝食にしません?」
「…そうだな」
…そうだね。ランサが仕事に遅れるのは良くない。
多分私の考えはそんな重要なものじゃないだろうし。
そう結論付けて、私達は食堂に向かう事にした。
食堂に行くと、すぐに食事が運ばれてきた。
料理長はいつも、朝食は一杯、昼食はそれより少なく、夕食は軽めの物を出してくれる。一日の原動力をしっかり得られる食事で、私はこれが気に入ってる。
そんな美味しい朝食を頂く。今日も美味しい。
食べながら少し考える。
何を忘れてるんだっけ…。
ヴァンが社交の話をして。ランサの参加は分からないけど、招待がくれば全て断るなんてわけにはいかない。
戦から五年が経って、大きな被害は出ていないシャグリット国内では大きく社交界も動き出す。
そうなれば、『闘将』であるランサを招待したい貴族も少なくないだろうと思う。ランサは役目を疎かにする人ではないから、多分参加は最低限で、他領でも場所によって参加は見合わせる。
私はランサの婚約者として、それらに同行しなくちゃいけない。これまではティウィル公爵家の縁者とはいえ平民暮らしだったから、初めて参加する事になる。
「…思い出した」
「ん?」
食事中だったランサの目が私に向いた。
そんなに大きな声で言ってないのに、ランサは耳が良い。
ランサは一旦食事の手を止めると、窺うように私を見た。私も見返したいけど、思い出してしまった内容の所為でまっすぐ見られない。
「さっきの考え事か?」
「…うん」
「思い出せて何よりだが…リーレイ? どうして俺を見てくれないんだ?」
…ごめんね。わざとじゃないの。
思い出してしまった事に少し頭を抱える。ツェシャ辺境領へ来る前の私を叱責したい気持ちになっている。
必要最低限の荷物は移動の為には大事だったけど!
いざこれを言わなくちゃいけないってなると、不自然なくらい言いづらい。
ランサは私を想ってくれている。それは十分すぎるくらい伝わるから、言っても大丈夫。だけど。いざ言うとなると思う以上に勇気がいる。
それに、ランサとこんなにも想いを交わせられると思っていなかったから。余計にそう思う。想いが通っていなければ事務的に言えたのに。
「リーレイ?」
ランサ。そんな悲しそうな目で見ないで。大丈夫、貴方に何かあるわけじゃないから。
…って、それも言わないと伝わらない!
「違うの。ランサに非はないから。その…思い出した事が…」
「うん?」
非が無いとちゃんと伝えると、ランサは優しく私を見る。
うん。大丈夫。言える。頑張れ私。控えてるヴァンが笑いを堪えてる気配がするけど、気にしちゃ駄目。
「その……私、社交用のドレスを持ってなくて…。それで買わないとと…思って」
「ドレス?」
私の言葉に、ランサは少し意表を突かれたような顔をした。
こればかりはランサにお願いしないといけない。私に個人資金はない。
勿論、家を出る時にはそれなりのお金を父様はくれた。だけどそれはあくまで移動時用と緊急用であって、ドレスを何着も買えるようなお金じゃない。そんなお金を貰ったら逆に突っ返してる。
町へ行って後で請求してもらえばいいんだろうけど、私個人の物を買って、後から「お金はよろしく」なんて言えない。
社交会に出るのに毎回同じ衣裳なんて、話にならないし笑い者にされる。色や宝飾は、時によって主催者と被らないようにと避ける方がいいものもある。園芸会や夜会なんかでは着る衣裳の形も違うし、その時の流行もある。
私はいくら笑われたっていい。だけど、ランサまで笑われて見下されるような事だけはできないし…したくない。
「…だから……買ってもいい…?」
「勿論。いくらでも好きにしてくれ。それくらいの望み、俺は駄目だとは言わない」
言えてからランサの答えを聞いて、少しホッとした。良かった。ちゃんと言えた。
クスリと笑うランサの表情はどこか微笑ましいものを見るみたいで、逆に私は恥ずかしくなる。
次の言葉が出ないでいると、「ぶっは!」って堪えてたのが決壊した音が飛びこんできた。
「…ヴァン様」
「失礼…ふはっ…!」
シスの物言いたげな視線にも全く堪えてないヴァンに、私も思わずばしゅっと向かうとぺしっと叩いた。
そんなに笑われると恥ずかしい! 「あ、いた」って全然痛くないんでしょう!
改めて席に戻って、ふぅっと心を落ち着かせる息を吐く。
分かってる。私がおかしいんだって。ヴァンがゲラゲラ笑うんだから。
…だけど、私にとっては、さらっと言い出せない事だから。
王都に居た時は生活と貯蓄にお金を回していたし、個人的に買った物も生活上必要な物以外そうそうない。何かを買っても、頭の中には常に父様やリラン、ヴァンにもって考えがあった。
だから私は、何かを買ってほしいと誰かに言った事がない。私にとってそれは我儘で、そんな事を望むくらいなら皆でお腹いっぱい食べられるご飯や生活に回すものだった。
叔父様にだってねだったことはない。そんなのは畏れ多い事だったから。
笑顔で「これなんてどう?」って言ってくれたりした事はあったけど、そんな時もやんわりお断りして、哀しそうな叔父様を見て、代わりに皆で食べられるお菓子をお願いしたりって、そういう事が多かった。
…貴族の御令嬢方や御婦人方は、どういう風に当主に物をねだるんだろう。社交会でさりげなく探った方が良いのかな?
そんな事を考える私に、ランサは変わらない調子で問う。
「リーレイ。ドレスを仕立ててもらうにして。職人を呼ぶか? それとも店に行くか?」
ランサなら職人を呼んで仕立ててもらう事もできるだろう。
だけど、私はまだ町に行った事がない。せっかくなら行ってみたい。
「町に行ってもいい?」
「勿論。ただ、明日でもいいか?」
明日?
ランサの言葉に首を捻る。私は今日でも、ヴァンと町を知る同行者がいればそれでいいと思ったんだけど。
首を捻った私に、ランサは優しい目で私を見る。
「明日は緊急案件がない限りは休みだ。せっかくだ。俺も一緒に行きたい」
「うんっ! 明日ね」
誰よりも働くランサの休みは不規則で、たとえ砦での仕事が休みでも、領地の仕事があるから、何もしない日なんてない。
だけどランサは、その合間に遠乗りに誘ってくれたりしたし、それは勿論嬉しかった。時には屋敷の庭でのんびり過ごすようにしたりもした。とにかく体を休めて欲しかったから。
休んで欲しいとも思う。でも、一緒に出掛けられるのを嬉しいとも思う。
困る自分の想いには時々どうしていいものか迷うけれど、ランサの心の休息になるといいなといつも同じ結論に至る。
「ドレスか…。リーレイにはどんなものでも似合うだろうな。好きなだけ買ってくれ。百でも二百でも」
「そ…そこまでは大丈夫です…」




