3,迷っていると背中を押されます
そもそも、父様はれっきとした貴族である。
ある家の長子で、本来なら家督を継ぐ立場にあった。けれど色々あり、私達は平民暮らしをして、その家の家督は父様の弟、叔父様が継いでいる。
本来ならその時点で籍を外されるという形になっているのだけど、叔父様がそうさせなかった。だから私達家族の籍はその家にあるまま。…と言っても、立場的には低い。でも叔父様一家はいつも快く迎えてくれる。
この家も敷地も、叔父様の所有で、私達はいわば別邸の守り人をしているようなもの。叔父様は訪れる度援助として金銭をくれるけど、それは全て家の管理と叔父様のもてなしに使ってる。
私は何度も、この家を出て行く事と籍を外すことを叔父様に提案した。けれど首を横に振られた。父様の子に男子はいないから、いらぬ争いには巻き込まないと逆に安心させるように言われた。
叔父様がそこまでしてくれるのには理由があるんだろうけど……。その一つとも思える、叔父様が持ってくる貴族との縁談話には少し困ってる。
……いけない。思考が別方向に飛んでしまった。
「ではもう一つ。私はもう二十一ですが」
「問題ない」
「……断れば、家族は何か罰を受けるのでしょうか?」
「そのつもりはない」
我が家が貴族であるという事は、街の皆は知らない。気の良いご近所さんとして付き合ってくれているから。
私達もいちいち名乗る事も言うつもりもない。父様だって、仕事場じゃあまり知られてないそうだし……。
私自身に貴族である意識も薄い。そもそも生まれた時からこんな暮らしだから。
男装して駆け回ってると、自然と寄って来る男もいない。そこだけは気ままで気楽で良かった。
だから今、突然の話にとても混乱してる。そんな私を「リーレイ」と隣で父様が静かに呼んだ。
視線を向けると、いつもと何も変わらない目がそこにあった。
「私はお前の意見を尊重する。だけど、行くと決めたなら、もう籍だけ貴族ではなくなる。それに……戦があったのはまだ五年前の辺境領だ。そこはきちんと考えなさい」
「っ…」
無意識にぎゅっと膝の上で拳をつくった。
辺境伯はれっきとした、歴史ある家だ。そこへ行けば、私の貴族としての、立場的には端っこにぶら下がってる程度でしかないけど、そっちの名前も少なからず付いて来る。
今更、私が貴族として生きていく……。
それに、戦が終わってまだ五年。国も変わりなく動いているけれど、カランサ国の事は分からない。
無理だよ。もうこの暮らしが沁みついてしまっている。
私は……。
「私は、行かれるべきだと思います」
「え…」
後ろから、はっきりとした声が向かってきた。思わず視線を向ければリランの目が私を見ている。
その目は柔らかくも強く、少し伏せがちに切実にも見えた。
「リラン……」
「お姉様。これまでお姉様が思うままに過ごされていた事、私も十分知っています。ですがそろそろ、もっと広い場所へ行かれても良いのではないですか? お姉様の幸せを探しても、良いのではないですか?」
私の、幸せ……。
この家で過ごした日は勿論そう。だけど、ここを出て探す幸せも、あるかもしれない……。
リランは妹として私を想ってくれている。それはとてもよく感じる。
下がりかけた視線が、リランのクスリとした笑みでまた上げられた。そこにはリランの笑みがあった。
「それに、お姉様にはもっと広い場所で走り回ってほしいです。今更かもしれませんが、今からでも、お姉様は必要な事も全て学ぶ意欲もあるでしょう? だってお姉様は、いつだって出来る事を全力でする方ですから!」
「ぶっは!」
満面の笑みと共に出てきたリランの言葉に、壁際で吹き出す人物。私は思わず、じたりとした視線をヴァンに向けた。
俯いてたって肩震えてるからね。丸分かりだからね!
私の声音がちょっと不機嫌に聞こえたかもしれない事は承知の上。
「ヴァン……」
「いや、リラン様がまさにそうだなって事言うんで。お嬢のあれこれ思い出しまして…」
「あれこれって何!」
別に何もしてないと思うけど!?
殿下からもクスクス笑ってる気配を感じるけど、今顔は向けられない。余計にヴァンに向ける視線が鋭くなったかもしれないのは仕方ないと思うな!
そんな視線もヴァンは平然と、気のない目で受けるだけ。
「お嬢。お受けしてはいかがです?」
なんともあっさりとした意見がやって来た。リランも父様も、殿下もヴァンを見る。皆の視線が集まってちょっと居心地悪そうだけど当然だと思う。
ヴァンはゴホンッと咳払い一つ。
「そもそも、お嬢が貴族ぶるのは無理ですから、貴族らしくとか考えなくていいと思いますよ。辺境行ったっていきなり結婚じゃないでしょうし、ちょっとは婚約期間があります。やっぱヤダってなれば帰って来ればいいし。旦那様やリラン様が心配になれば帰って来ればいいし。辺境伯様が好きになれなきゃ帰って来ればいいし。独りが寂しいならご一緒しましょうか?」
「ちょっヴァ……」
「ハハハ!」
流石にズバズバ言い過ぎだって止めようとしたら、その前に笑い声が響いた。見れば殿下や護衛の二人も笑ってる。堪えきれないって様子に、私達が少し驚く。
殿下、笑いすぎて涙出てます。なんというか…
「気持ちの良い笑いっぷりですね…」
「フフッ……フッ…あぁ……こんなにも笑ったのは久しぶりだ。なぁ?」
「はいっ…」
……とりあえず、不快な思いをさせずに済んで良かった。ヴァンは非難を込めて見てもどこ吹く風だから。
ご友人をあぁ言っちゃ、家人の行いに責任を持つ私達は少し申し訳ない。
殿下は笑った顔のまま、一度ゆっくり頷いた。
「俺も無理強いしたいわけじゃない。そんな事をして辺境伯とリーレイ嬢がぎくしゃくしては、流石に申し訳ない。手を取り合える同士になってほしいんだ。だから、もしアイツが気に入らなかったら遠慮なく振ってくれ。俺が許す」
「いやそれは……」
「もし、一人で行く事が不安ならこちらから護衛を手配してもいいし……そこの家人を連れて行ってもいい。知る者の方が安心できるだろう」
「「え」」
それに驚いたのは私とヴァン。……「えぇー」って不満そうな声はちゃんと聞こえてるからね。
殿下はそんなヴァンを見て口端を上げる。
「行くんだろう? 共に」
「……そりゃ、お嬢がそうしてくれって言うなら。ですが流石に、男連れには辺境伯様が良い気がしないのでは?」
「問題ない。俺が一筆書いておく」
「あ、そうですか。んじゃまぁいっか」
いいの!? そんな軽いノリでいいの?
ギョッとして見るけど、「んじゃそういう事で」って父様に了承を求め、「うんいいよ」と父様も即了承。
……え、私は行く前提?
二人を交互に見ると父様が私を見た。優しくも厳しい、まっすぐな目で。
「リーレイ。どうするか、自分で決めなさい」
キュッと膝の上で拳をつくった。
辺境伯様。殿下の友人。辺境の『闘将』。武の腕の優れた人。
人柄なんて全く知らない。顔も知らない噂だけの人。だけど、殿下がわざわざ私の元を訪れる程、信頼あり想う友人。
今も国境を守り、国の為、王家の為に、その務めを全うする人。
私の意思を尊重してくれる父様。リランの想い。ヴァンの言葉。
結婚相手として、その人を見られるかなんて、今はまだ分からない。でも――
「殿下」
改めて殿下に向き直り、まっすぐ見つめる。私の目をまっすぐ見つめ、殿下は少し口端を上げた。
切迫も動揺も隙もない、堂々とした姿がそこにある。
「お話、謹んでお受け致します。その為に、辺境伯様の為人を、まずはこの目で見て知りたいと思います」
「分かった。しかと夫としていかなるか見定めてくれ」
殿下は少し嬉しそうな、楽しそうな、そんな表情を見せた。
それからいくつか話をして、殿下は護衛の二人と共に城へお戻りになられた。
その姿を見送り、私は談話室のソファに座り込む。あまりにも突然に、何の前触れもなく、決まってしまった私の将来。
「……ふっ。行き遅れと揶揄されてきた私が結婚…」
「お嬢ー、どこ見てるんですー?」
どこだろうね。自分でも分からないよ。
あまりにも実感がない。貴族の御令嬢はこうした経験を皆してるのかな?
でも落ち着け。行くと決めたんだ。決めたら進むのみ。
これからの事はこれから考えろ。心配や不安は山ほどあるけど、まずは行かないとどうにもならない。
その為に……
「父様。叔父様に頼んで、少しでもマナーとか教養を身に付けられるかな?」
「分かった。私から文を書いておこう。ラグンに頼めば王都の屋敷で教えてくれるだろうから、準備しておきなさい」
「分かった。ヴァン。何か辺境伯様の事知らない?」
「五年前から名を轟かせ、争いがない今でも有名な武人。国でも有数の腕らしいですけど、王都の武術試合で見た事ないんですよ。俺も出ないし」
五年前からそういう試合も少なくなって、今年やっと行われるとかって話じゃなかったかな…。昔観た事あるけど、遠目からだしはっきりとじゃない。仕事が忙しかった事も多い。
王都の警備隊の騎士たちも屈強な人達。やっぱり辺境伯様もそんな人かな…。そりゃ武人だものね。
見た事もない人は想像できない。顔も知らないってこんな気持ちなんだ……。
「お姉様…」
「大丈夫。父様は何か知ってる?」
「お人柄は存知ないけれど、リーレイも知っているように、この国で辺境伯様を田舎貴族と揶揄う者はいない。殿下も強い信頼を向けておられる」
やっぱり、それだけの人なんだ…。
シャグリット国の歴史において、一度滅亡に瀕した戦がある。しかしその時、敵を討ち、戦を勝利へと導いたのが、二家の辺境伯家。それからも何度も戦では功を上げ、行動で国を護ってきた二家を侮る者はいない。
どこに領地を持っていても同じ国の人。だから私は辺境伯家を凄いと思っている。
……戦という行いだけは、どうしても良い思いはしないけれど。けれど、彼らの功で今の国があるのも事実。
そして最近のそれが五年前。決して昔じゃない。
そう思って、少しだけ体が震えた。
でも、それを誤魔化すように私は父様に不満を込めて言葉を投げた。
「父様。何で私の事言っちゃったの? 剣も馬も…」
「うん? 駄目だったかな?」
「駄目じゃないけど……殿下の口からラグン様の耳に入ったら……絶対怒られる」
私の従兄は声を荒げる人じゃない。ただあの……氷のような眼差しで懇々とお説教される時間は耐えがたい…。
いつも「ごめんなさい! でもやめません!」で無理やり遮ってるようなものだから。
ラグン様は優しいし、厳しい。伯父の子である私達をいつも気遣ってくれる良い人。ただ、生まれながらに貴族だから少しだけ合わないだけ。
そもそも、私が馬に乗り始めたのは、馬車より安いし、走るより速いから。体を動かすのも嫌いじゃないし、風を切って走る感覚はすぐに気に入った。剣も身を守る為に始めた。
「でも、お父様は殿下とそんなお話をする事があるんですか?」
リランの疑問は私も持った。
そもそもこんな身内話は父様からしないと伝わらない事。殿下も父様から聞いたって言ってたし。
私とリランの視線に、父様は肯定の頷きを返した。
「ローレン殿下は、時々金番室に世間話に来られるんだよ。その時にね」
父様が殿下と世間話する仲だったなんて…。衝撃の事実だ。
そしてそんなところから、私の奔放振りが漏れ出てしまった。殿下は理解ある方のようだったから、そこは少しホッとした。
馬術と剣術。どちらも自分の力になったし、やめようと思った事は無い。それでここまで来た。
でも……と思う。それもここまでだ。
辺境伯様はきっといい顔をしない。貴族の女性がそれらをしてはいけない理由はないけど、はしたないと思われる。辺境伯様の面目に関わる。
家の事を取り仕切り、社交に務める。これからはそうしていくだけ。
「ヴァン。いいの? 一緒に行くなんて」
「いいですけど?」
何か問題でも? って顔をしないでほしい。私が問題ある事聞いてるみたいじゃないの。
リランや父様の事も心配はあるから、残ってもらっていいのに…。
でも一緒に来てくれる事に安心もある。子供の頃から一緒だから、いつの間にかヴァンが居る事に慣れてるのかな…。
私を見て思いっ切り怪訝そうな顔をしてたヴァンが、「あ」って思いついたような声を上げた。
「もしかして、御当主の許可とか思ってます? 取っとくんで大丈夫です。お嬢がいきなり知らない場所へ嫁ぎますなんて知ったら「お前も行けや!」って言われますよ絶対」
「……叔父様、そんな事言うかなぁ」
「言います絶対。俺の今日の夕飯掛けても良いです」
どうしてかヴァンは妙に自信たっぷりだけど、私は首を捻るばかり。
いつももっしゃもっしゃ一杯食べるヴァンがそこまで言うなら、そうなのかもしれない…。妙な説得力を感じる。
「それじゃあヴァン、これからよろしくね」
「りょーかい」
いつも通りの、気の抜けた返事に妙に安心した。