過去話 護衛官の今につながるもの その5
俺が身につける事項の一つに、ある程度の教養がある。
読み書きは当然。国の歴史。算術。ティウィル公爵家のこと、治める領地、ラーシュ領のこと。ティウィル公爵家以外の五大公爵家のこと。政治や施行されている法のこと。時には戦術とかを教えてくれることもあって、そういう時は退屈しない。
ジークン様は、教養のない俺を兄のところに行かせるつもりはないんだろうし、俺だって、孤児院に居た時とは違う生活になるのも分かるから、これからのために必要だってことも解る。
解る……けど、やりたいかって聞かれると、首を横に振る。
俺は、座学は苦手だ。
「ヴァン坊ちゃん! また逃げましたね!」
さっと出てきた扉から聞こえた怒鳴り声に、俺はすたこらさっさと離れた。
今日の座学。国の政治について。
正直に言う。意味が解らない。難しすぎて、なんであれを頷きながらラグン様が聞けてるのかも理解できない。
つまり、俺には解らない。
つまり、俺には縁がない。
となると、逃げるが勝ち!
ジークン様には悪いけど、あれを科目にしてるのが悪い。俺の頭をちゃんと知ってほしい。
ところどころが分かっても、先生の口から出るのは子守歌だ。眠気を誘って仕方ない。
『寝ない!』
『……無理』
こういう会話もすでに何十回もやってる。そうなると俺も分かる。
寝て疲労を回復させるのもいい。でも、鍛錬に時間を費やしてもいいのでは、と。
俺はまだ子供で、あんまり無理しないようにってスケジュールが組まれてる。
それはありがたいと思ってる。でも、科目は変えてほしい。
寝るか逃げるかの俺に、ラグン様はよくため息を吐く。でも、やめろって起こされはしない。むしろ「ヴァンも大変だからな」って労ってくれるし、俺が分かるように勉強を教えてくれたりする。
大人より、子供の方が優しい。時々スイ様も一緒に勉強するし。
ってわけで、俺は今日も逃げる。
だんだん体力もついてきてるし、素振りの回数も苦じゃなくなってきてるから、少しずつだけど成果が出てるのが分かる。
実感できるのは、なにより嬉しい。
「――ぎゃっ!」
ちょっと心が舞い上がってると、それを見越したように飛んでくる矢。
俺の顔の横すれすれに突き刺さったそれに、走っていた足も止まった。
すぐに飛んできた方向を見れば、やっぱりいた。
「今日も逃げた。鍛錬、追加」
淡々と、表情変えず言いながら、二撃目が構えられる。
ちょっと前までの心がスッと静まって、俺はユラットさんを見て、構える。
座学より俺に合ってる勉強の、始まりだ。
結果、敗北。
撃沈された俺は、そのままずるずるとユラットさんに連行された。とーっても、嫌な場所まで。
「ヴァン。理由は何ですか?」
目の前には、優雅に座るカネリア様。俺はその前で小さくなってるしかない。
「これで何十回目でしょう? 数えても数えても、あなたは更新していくばかり。何が嫌ですか?」
「苦手です。眠くなるし、それなら素振りしてる方がまだ合ってるかなーっと」
カネリア様は声を荒げる人じゃない。むしろ諭すように穏やかに叱ってくれる。
……んだけど、微笑んで叱られるのは、怖い。
孤児院の院長とか先生は、怒る時は声が大きくなるのが常だった。そういうので育ってきた俺は、カネリア様の、声は静かに、微笑んで、じっくりと、っていう態度が初めてで、あんまり受けたいお説教じゃないと、すぐに感じた。
……んだけど、連行されちゃ逃げられない。
カネリア様はジークン様の奥方だ。俺のことも、息子のように想って接すると、初めて会ったその時に言ってくれた。
だからか、ちょっとだけ、どう接していいのか分からない。ジークン様のように、お前は拾った子でいずれは家を出るんだ、って、そう接してくれた方がまだいい。
「ヴァン。私も、あなたに無理強いしたいわけではありません。しかし、義兄様にご迷惑をかけることはできません。それに、あなたには、少しでも多くの知識を知ってほしいと思っています」
「……ありがとうございます」
「あなたに求められているものとは離れたことでしょう。学ぶことは、嫌ですか?」
少しだけ困ったように、寂し気に、カネリア様は俺に問う。
それをまっすぐ見られなくて、俺は視線を逸らして考えた。
「嫌、ではないです。ただその……鍛錬ばっかで疲れると、どうしても眠くなるし……難しいし。俺、ラグン様みたいに頭良くないし」
勉強することは苦手だけど、別に嫌ではない。
こうやって勉強できるのは、ここが公爵邸だからだ。孤児院じゃこんなにも恵まれた勉強なんて、できない。
これが恵まれてることだってことも。生きていく上で必要なことだってことも。分かってる。俺の身になることだから、カネリア様も勉強させたいんだろうってことも。
「まあ、俺に縁がないかなって思うこともありますけど……。孤児院じゃせいぜい、読み書きとか算術とかで、あとは掃除洗濯とかだったし」
それで逃げてることも否定はしない。
頭を掻いてそう言うと、カネリア様は少し考えるような仕草をして、立ち上がった。
「分かりました。ヴァン。ついていらっしゃい」
部屋を出て行こうとするカネリア様に、俺は怪訝と首を捻りながらも続いた。
カネリア様は廊下を進む。歩いて、階段を上がって、どこかへ向かっていく。
そして、ある部屋の扉を叩いた。カネリア様の呼び声に中からはすぐに声が返ってくる。
がちゃりと内側から開いた扉。カネリア様の後ろから見えたのは、座るジークン様と、扉を開けた執事の姿だった。
「なんだ、カネリア」
「旦那様。ヴァンのことでお話がございます」
「聞こう」
俺をちらりと見てから、ジークン様は仕事中だったんだろう手を止めて、カネリア様を見た。
「一つは、ヴァンの教師をラグンとは別にすること。一つは、ヴァンに家事を覚えさせることです」
「「……は?」」
気のせいでなければ、俺とジークン様の声が重なった。俺が見上げるカネリア様はふわりと微笑んでいた。
ジークン様もちょっと驚いた顔をしてたけど、カネリア様を見てすぐに眉を動かした。
「教師を別とは、なぜだ?」
「ヴァンとラグンでは、素養が違います。読み書き算術までしか習っていないヴァンに、いきなり政治について教えても、それは退屈で理解できないものにしかなりません。逃げたくもなりますわ」
「それはヴァンが真面目に授業を受けないからだろう」
「旦那様。今度の夫人の茶会、出席してみますか?」
微笑んでるカネリア様の言葉に、ジークン様がなんか難しい顔をして黙り込んだ。……夫人の茶会って、ジークン様にも理解できないものなの?
俺が二人を交互に見てると、ジークン様がため息をついた。
「……もう一つは?」
「こちらに関しては、ヴァンの今後にも関わる話です。義兄様たちは一般街におられますから、生活のことはできる方がよいかと。幸い、ヴァンは掃除洗濯と経験があるようですし、料理を含め、生活のことを身につけられればと。それに、身体も動かす学びであれば、ヴァンも逃げ出しはしないでしょう」
「成程。……分かった。それは考慮する」
言うと、ジークン様は大きく息を吐いて、椅子の背もたれに身を預けた。
そして肘掛に頬杖をついて、俺とカネリア様を見る。
「あの程度の子供の勉強、できるだろうと思っていたんだが……」
「いや無理。あれが子守歌だっていうなら理解できますけど」
「ああ成程。成長してから聞いてみろ。子守歌だ」
「うっわ。大人は違う」
できる大人の嫌味だ。聞きたくない。
フッと、なんかちょっと悪い顔してるジークン様に、カネリア様も困った顔をしてた。
とりあえず、ジークン様はカネリア様の言葉をしかと考えるって言ってくれたから、ちょっとは勉強も変わりそうだ。
眠いし苦手だけど、分かるようになればちょっとはマシ……だと思いたい。
部屋をあとにして廊下を歩くカネリア様に、俺はお礼を伝えた。
「カネリア様、ありがとうございました」
「いいえ。当然のことですよ」
貴族様は大変だ。自分の子供のことでも大変だろうに、拾い子のことまで考えて、あれこれ手配もしないといけないなんて。
カネリア様は足を止めると、俺を見て、俺の頭に手を置いた。
「旦那様を悪く思わないでね。あなたがどういう勉強を受けていたのかも、ラグンに課す教育とは環境が違うことも、解っておられるのだけれど、自分が当然とさせられていたものだったから、どうしていいか、分からなかったの」
「別に……ジークン様が悪いとか、思ってないですよ。俺も……言ってないし」
「ふふっ。あなたはすぐに逃げちゃうのだもの。逃げる腕前が一番上達しているかしら?」
そう言って、俺の額を指ではじく。
……なんでそうちょっと楽しそうなんです? そう思って見るけど、カネリア様は笑うだけ。
「だけどヴァン。これからはもう少しやってみて。家事も増やしてしまったから」
「それは大丈夫です。まあ確かに、一般街なら生活のことも必要ですから」
いくら護衛だからって、生活のことができなくていいわけじゃないだろう。貴族じゃないんだし、使用人もいないみたいだし。
一応、その家で暮らすわけだから、俺もしてもらうばかりにはなれない。孤児院でだって、皆でそれぞれ役割があったんだから。
「ねえ、ヴァン」
「はい」
カネリア様を見ると、その藤色の目が俺を見て、優しく微笑んだ。
「あまりそう、他人行儀でなくていいのよ。旦那様にも、私にも」
「いや……。そんな恐れ多いですし」
「もうこの子は……。ラグンやスイにはこうじゃないと聞いたのに」
カネリア様が小さな声で何か言った気がしたけれど、俺の耳には届かなかった。
けど、なんでか頬を膨らませるカネリア様の傍で、侍女がクスリと笑っていた。
お読みいただきありがとうございます。
新作品を作りましたので、お知らせいたします。
『慎まし令嬢が目立ちたくない理由』https://ncode.syosetu.com/n0302ir/
平凡な貴族令嬢ラウノアには、目立ちたくない理由がある。しかしある日、伯父に養女として引き取られることになり、嫌々ながらも頷くことに。心優しい伯父一家と過ごすが、社交界では目立ってしまい、さらに生家の問題が襲いかかる。
目立ちたくないラウノアは、目立たないように奮闘していくけれど……?
よろしければ、こちらの作品もどうぞ。




