日常話 護衛官だけが気づかない
それは、砦に行った日の事だった。
バールートさんと試合をして。皆さんの鍛錬を見て。国境の異常について話を聞いて。そうして過ごしていた休憩時間、騎士の皆さんが鍛錬場に集まっている中で、バールートさんが思いついたような調子でヴァンを見た。
「そういえば、ヴァンさんって、リーレイ様の事なんでお嬢って呼ぶんですか?」
「お嬢だからですけど?」
そんな、何でそんな当然の事聞くの? みたいな顔をされても誰も納得の表情は見せない。
バールートさんも他の騎士達も、答えたヴァンもキョトンとして首を傾げている。
……疑問符しか見えない。
だけど、バールートさんの問いに、私もそういえば……と少し振り返ってしまう。
いつからかは忘れたけれど、ヴァンは私を「お嬢」と呼ぶようになった。元は私やリランの護衛でもあったヴァンだけど、リランの事をそう呼んでたことはない。いつも「リラン様」だった。
引き換え私は「リーレイ様」と呼ばれていたのは多分……出会った頃や、家に来たばかりの頃だけだろう。もうあまり憶えてもないけれど。
憶えている頃からずっと「お嬢」と呼ばれている。
キョトンとしたままバールートさんは続けた。
「でもほら。リラン様はリラン様でしたよね? ランサ様もそうだし」
「結婚したらもう夫人だろう? 変えないのか?」
セデクさんの疑問に、ヴァンもやっとそういうことかと言うような顔をして疑問符を消した。
そしてそのまま、「うーん…」と考えて眉間に皺を刻むと、ちらりと私を見る。
「んじゃ……奥様?」
家族同然の人にいきなり呼び方を変えられると違和感……どころか寒気が走って鳥肌が立つ、ということを理解した。
思わずザザザッと距離をとっても仕方ないと思う。
「んじゃ……夫人? クンツェ辺境伯夫人?」
とんでもなく他人行儀だ。違和感しかない。そして全身の毛が逆立ってしまう。
思わずブンブンと首を横に振る私と、平然としてるヴァンに、騎士達の視線が交互に向く。
「えーっと、リーレイ様が拒否?」
「拒絶反応だな。これは」
冷静な皆さんの分析はきっと当たっている。
それでいて言いながら納得しているのだから、確信があるんだろう。頼もしい。
と不意に、新たな足音がやって来て騎士達の視線が向いた。
騎士達の元へ足を向けながらも、私と騎士達を交互に見て怪訝としているのはランサだ。
「どうした?」
「実はですねーー……」
バールートさんがランサに事情説明をしてくれる。
その間に私はとっていた距離を戻して皆さんの元へ戻った。……うんよし。悪寒は消えている。
事情を聞いたランサは、特に表情は変えず私とヴァンを見た。
「まぁ、そこは二人の自由だからな。ただヴァン、今後人前で嬢と呼ぶのは出来るだけ避けろ。普段や知る者だけの前ならいい」
「はーい」
私も結婚した身だ。お嬢さんではなく奥さんになった身だから、従者であるヴァンもそこは変えないといけない。
だけど……
「……さっきみたいなのはやめて」
「えー……んじゃ、人前ではリーレイ様で」
「うん。それがいい」
お嬢の次にしっくりくる。普段から呼ばれてるから慣れてるし。
私が一人でホッとしつつよしよしと思っていると、ヴァンも思い出したようにランサを見た。
「屋敷じゃ普通にランサ様もランサ様ですよね? 大体は、旦那様じゃないです? 使用人があぁ呼んでるの珍しいと思うんですけど」
確かに……。ヴァンの言葉に私もティウィル公爵邸を思い出す。
あの屋敷では叔父様であるティウィル公爵は「旦那様」で、奥方であるおば様は「奥様」、御子息であるラグン様は「坊ちゃま」だった。
だけど、クンツェ辺境伯邸では使用人は全員ランサを「ランサ様」と呼んでいるし、私の事も来た頃と変わらず「リーレイ様」だ。一度も奥様と呼ばれたことはない。
ヴァンの素朴な疑問にランサは特に気にした風なく答えた。
「他家ならそうかもしれないな」
「何か意味でも?」
「旦那様、など、他にもゴロゴロいるだろう?」
さらっと言われて私達もすぐには頷けず、ランサを見た。だけどランサはコテンと首を傾げるだけ。
一瞬、場に沈黙が落ちる。それを破ってくれたのはランサだった。
「万が一の時、旦那様、などと呼ばれては誰を指しているのか分からない。一瞬の動きが遅れる事もある。それならば分かりやすい方がいいだろう」
「あー……まぁ確かに」
ティウィル公爵家で過ごした経験があるヴァンはなんとも微妙な顔で頷いた。
ランサは本当に武人らしい思考を持つ人だ。
もしかして、ツェシャ領に居た頃のガドゥン様もそうだったのかもしれない。今はもう引退した事で「大旦那様」と呼ばれているけれど、それは両親に平穏にいてほしいランサやエデ様の想いも詰まっているのかもしれない。
ランサはその視線を私に向けた。
「だから、リーレイの事も同様に呼んでいるが、奥様と呼ばれたいならそうさせてもいいぞ」
ちょっと悪戯めいた声音で言われると、なんだか恥ずかしい。
「……いい。私も分かりやすく呼んでもらえた方が良いから」
「そうか」
そう言って笑うんだから、私の答えなんて分かっていたんだ。
思わず視線を逸らすと、同様に笑う皆さんが見えてこれまた恥ずかしい。
切り替えて、私は視線をヴァンに向けた。
「だけど、ヴァンにお嬢って呼ばれるのが当たり前みたい。ヴァン。私をお嬢って呼んでも様をつけたりしなかったし」
「そりゃ、平民ばっかの一般街でお嬢様呼びしてると変でしょ」
「……確かに」
まるで貴族か豪商の娘みたい。駄目だ。我が家はどこにでもある家なのに。
……ヴァンが私をお嬢様って、駄目だ。それだけで変だもの。
「でも、会った頃は名前じゃなかった?」
「そうでしたっけ? ……まぁ俺も、さすがに貴族令嬢なんで呼びつけてはないと思いますけど。したら即、御当主に殴り飛ばされてますし」
「うわー。ヴァンさん大変」
もう恒例のようなヴァンと叔父様の仲について、聞いている私達も苦笑いだ。
そんな私達の前でヴァンは少し振り返るように続けた。
「一応、俺からすればお嬢らは主人だったし、御当主に殴られないように、周囲にどう見られても様付けは絶対でしたね。気怠い家人とか用心棒って感じでわりとすぐ周囲にも馴染んだみたいでしたし。お嬢は……まぁ、色々過ごす中でリラン様みたいな貴族令嬢って感じより、お転婆お嬢って感じだったんで、多分そんな感じでお嬢になったんでしょ」
「そんななんとなくな理由だったんだね。うん。あんまり深い意味はないだろうなとは思ってたけど」
「ないですね。俺的にしっくりくればいいやって感じで」
大体想定通りです。
うんと納得し合う私とヴァンにランサも皆さんも笑う。
ヴァンは私にもリランにも、父様や叔父様にも、調子を変えない。丁寧なようでちょっと気だるそうな様子は誰にでも同じだ。
私達にとってヴァンは家族も同然だけど、ヴァンはそれを知っていても、家族だと想ってくれていても、態度を変えることはない。
「……ねえヴァン」
「何です?」
「私や父様、リランは、ヴァンの事、これからもずっと家族だって思ってる。ヴァンは?」
「? 嬉しいですよ? 俺にとってもまぁ……そう言える人達ですし」
「じゃあ……叔父様は?」
ラグン様はヴァンを「弟」だと言う。私やリランの事も「妹」だって言ってくれるし、私達も「兄」だと思ってる。この関係は兄妹だ。
そんなラグン様は、叔父様はヴァンを家族だと、身内だと思っていると教えてくれた。だからこそ、叔父様はヴァンが受けた暴言を決して許さなかったとも。
だけど、ヴァンはあまりそうは思わせない。
私の問いにヴァンはキョトンとした顔で首を傾げた。隣からランサの視線を感じるけれど、視線はヴァンに向けたままにする。
「叔父様は、ヴァンを引き取った本人でしょ? ヴァンにとっては……引き取ってくれた人って以外に何かあるのかなぁ…って」
「引き取ったというか、半分以上誘拐だと思ってますけど」
「何があったの……」
そう言えば、その経緯は私も知らない。叔父様が引き取ったってくらいしか聞いたこともないけれど。
叔父様が嫌がるヴァンを馬車に入れる光景が浮かんでしまってすぐに消す。そんな私とは違ってクスクス喉を震わせるランサの前で、ヴァンは首を傾げたまま「うーん」と思案した。
「まぁ……俺が今こうしてやりたい事やれてるきっかけくれた人でもありますし、一応は感謝してますけど」
「一応……」
「色々あったんです」
「うん……」
ヴァンの苦労だ。何も言えない。
はらりと何かがこぼれそうな私の前で、ヴァンは何かを考えるように空を仰いで、私を見た。
「俺、面倒嫌いだしのんびりしてたいし、無理やりやらされるのって好きじゃないし、そういう事わざとやらせてくる奴嫌いだし。でも……散々な事やらされて叩き込まれましたけど、別にそう思ったことないんですよね……。今でも不思議ですけど」
そんな事をこぼしたヴァンに、思わず視線が向いた。
確かに、のんびりが好きなヴァンにとって叔父様は苦手な人だろう。だけどヴァンは、叔父様を嫌ってはない。
嫌いなら会うのも嫌がるのがヴァンだ。ガドゥン様やガルポ騎士団長だって苦手だって言っても嫌いだとは言わない。ヴァンは人の好き嫌いをあまり言わない代わりに苦手は言う。
「へぇ。ちょっと意外です。ヴァンさんならすぐ逃げるかと思いました」
「あー……逃げようとしても逃げる間もなくて、常に狙われてるというか……。偶に御当主と話したり説教食らったり、かと思えば、剣くれたり忙しいのに勉強教えてきたり。よく分かんない人なんです」
本気でそう思っているようにぼやくヴァンに、私達は視線を向けたまま瞬いた。
私の隣で、ランサがヴァンを見たまま問う。
「……それを、どう思ってる?」
「? どうって、よく分からない人だなと……」
キョトンとした目で首を傾げるヴァンに、私は耐えきれず笑ってしまった。
「何で笑ってんです?」
ヴァンはきっと分かってない。
孤児院で育って。自分に家族はいないと思って。そう言える人がいてもそれは守る対象でもあって。
だからヴァンにとって、少し縁遠い、掴めないもの――
でも、そう思ってるのはヴァンだけで。
私達にとっても。――叔父様にとっても。
「なんでもない。ヴァンは家族だなって、思っただけだよ」
「? どういう意味です?」
今度、叔父様に書く手紙にヴァンの事を沢山書こう。
そう決めて、私は首を傾げるヴァンに笑みを返した。




