22,荒波に押しつぶされそうですが…
「しかし、リーレイの父君はすでに独立していると見えるが、公爵は籍を外さないのか?」
「うん。私も外してくれていいって言ったんだけど、なかなか頷いてくれなくて…」
叔父様は、いつも笑顔でゆっくりと首を横に振った。とても優しい方だから私も強く言えなかった。本当に迷惑になったら外して欲しいとは言ったけど…。
思い出す私の前で、ランサは何やら思案顔。
「…今回の婚約は報告したのか?」
「うん。ツェシャ領へ来る前には、一月の間王都にある屋敷で教育を受けたから。あ、馬をくれたのも叔父様だよ。幸せにって手紙で伝えてくれた」
「…あの馬を?」
「うん?」
ランサはピクリと眉を動かした。僅か何か考える様子を見せるけど、すぐにそれは消えた。
どうしたのかなって思うけど、ランサは何も言わず「籍を残している理由は?」って聞いてくる。だけど、生憎とその答えは私の手元にはない。
「父様は、元は祖父様と喧嘩して家を出たらしくて…祖父様は縁を切ろうとしたけど、それを叔父様が止めてくれたらしいの。祖父様と祖母様はそれから程なく亡くなって、叔父様が家督を継いだんだけど、父様は長男だったから申し訳なく思ってるんじゃないかな…とは思うんだけど…」
「あ、それ違います」
私の想像が即否定された。違うの?
思わず隣を見るけど、ヴァンはいつものやる気のなさそうな目。その目をしたまま私を見た。
「正確に言うと、脅しをかけて旦那様に手を出さないようにさせたんです」
「おど……え…?」
「旦那様達兄弟は仲が良いでしょう? 旦那様と先代様が揉めて、旦那様は屋敷を出る事にはなりましたけど、その時に御当主は大層激怒したらしいですよ。「兄上を追い出すなら俺も出て行きます」とか「嫌なら兄上に手を出すな」とかって言って先代様を黙らせて、旦那様の屋敷やら使用人やらをせかせか準備したそうです。それもあって先代様は一切そこから手を出さず、連絡も何一つやり取りはしなかったらしいです。んで、後を継いだ御当主も籍をそのままにしておいて、いつでも迎え入れるつもりなんじゃないですか?」
……初耳だ。そんな話。
叔父様ってそんな事する人だったの…? 「いつでも遊びにおいで」ってとても優しい叔父様だけど。
驚きすぎて言葉が出ない。それは私以外の皆も同じみたい。
さすがにランサも目を丸くしてる。唯一表情が動いていないのは流石のヴィルドさんくらい。
「兄弟仲故だという事ですか」
「他にあるとしたら、旦那様がティウィル公爵家の身内だと知られた時に問題なく屋敷に戻せるとか。公爵家が後ろについてる事を証明するとか。旦那様は能力的にもいつでも政治の中枢にいける人だと思いますし、ティウィル公爵家としては才能を野放しに出来ないとか。後は…御当主に何かあったらいつでも呼び戻せるとか。まぁ、今はもうラグン様いるんでこれはないですかね。…他にあるとしたら、可愛がってる二人の姪に良縁をあげたかったとか」
「…それは私も感じてた」
叔父様は度々私に縁談話を持って来てくれた。勿論無理強いする人ではないから、私が断ればシュンとしながらも引き下がってくれた。
正直、仕事が手一杯で毎日十分幸せだったから結婚は考えてなかった。というか、叔父様が持って来てくれる縁は、相手が皆様高位貴族の方ばかりで、眩しくて直視できなかったというところが大きい。
だって全部公爵家とか侯爵家とかのご令息なんだもんっ…!
「……リーレイ。他に縁談があったのか?」
「叔父様が持ってきてくれて。全部断ってたけど…」
「…そうか」
何だろう。ランサが神妙な顔をしてる。
でも不意に思い出した。
叔父様は高位貴族との縁談話をくれたけど、その中に辺境伯家はなかった。ランサの名前も。
家柄を重視したから? でも辺境伯家は決して釣り合わないって事は無いと思うけど…。
ティウィル公爵家との繋がり重視? 叔父様がそういう事を考えていても特に怒る気もない。地位があるならそういう考えもあるだろうし。
叔父様は私が乗馬も剣術もこなすと知っている。だから縁談話にはいつも「彼らならきっと咎めないよ」って安心させるように言ってくれた。
それはとても嬉しい気遣いだった。ただ今になって、それなら辺境伯家は…? と思ってしまう。
でも、いくら考えても私の頭じゃ答えは出そうにない。
「ねぇランサ。公爵家と辺境伯家の縁談は何か良くないのかな?」
「いや? まぁ…相手が公爵家となると、地位を与えすぎないようにとされている辺境伯家が力を持つのではないか、と危惧する者はいるかもしれないが…。リーレイ。そこは問題ない。俺は特にティウィル公爵家に力を借りる事も頼る事もない」
「…うん。ありがとう」
叔父様もそういう事を危惧したのかな…?
確かに、向けられる視線全てではないだろうけれど、一部鋭くなるかもしれない事は考えておいた方がよさそうだ。
でもそう考えると、ローレン殿下もその可能性を知っていて私を寄越したって事になる。
城内の貴族事情には詳しいだろう殿下が、考えていないとは思えないし。
私の立場が低いから大丈夫だと思ったのかな? それとも乗り越えられるとランサを信頼してるから?
考えても分からない。
でも、私ももう他人事じゃない。気を引き締めないと。
「それでね、ランサ。私は正直…付け焼刃でしかない振る舞いしか出来ないの。今後の為にもきちんと教えてくれる人はいないかな…?」
「それならシスに頼もう」
シスに?
パチリと瞬いてシスを見れば、「承知いたしました」と頭を下げる。私にとってシスは屋敷へ来た時から頼れるメイド長だけど、まさかここでもお世話になるなんて…。
でも、シスにはそれだけの心得があるの?
私の心の中の疑問に答えてくれたのは、頷いたランサだった。
「シスは伯爵家の娘で、俺の母に長く仕えてくれていた。その辺りの事は問題なく振る舞える」
そうだったの?
驚いてシスを見れば仄かな笑みを浮かべて頷く。なんて心強い…!
「シス。不甲斐ないけど、どうかお願い」
「とんでもございません。私がお役に立てるのでしたら喜んで」
シスの為にも頑張ろう。よしっ。
そう思う私の隣で、ヴァンはクツクツと喉を震わせる。
「良かったですねお嬢。その調子で社交界とかも頑張ってくださいね」
「……社交界」
「御当主のトコにいた時にちらっと見た事ありますけど、なんかすげー面倒そうな感じだったんで。グチグチネチネチとか。「あんたみたいなのが辺境伯様の婚約者なの?」って見えにくい陰口みたいなの多いですよー」
ヴァンの言葉が反響する。「あんたみたいなのが」……。
それはつまり…私が相応しくないという事…。貴族が大勢いる中で私はほぼ籍だけ。しかもそれも公爵家。
暮らしぶりなんて一平民でしかない。
「ヴァン。その程度は問題ない。社交の場に出る事自体少ないし、俺にはリーレイだけだ。周囲など放っておけばいい」
「いやいや社交の場の女性って怖いですよー。人を見る目とかいかに感情出さずに対処できるかとか。なんか色々男には分からない事が多いって、昔御当主の奥方が愚痴ってました」
「!」
おば様まで…! 社交の場ってそんな戦場なの!?
もしもそこで私が下手な事をしたら……考えただけで恐ろしい。
「私頑張る! 頑張ってランサの足引っ張らないようにする! 私の所為でランサまで侮られるような事は絶対させない! ちゃんとランサに相応しくなる!」
目標を掲げる。社交の場できっちり対処できるようになって、ランサの足を引っ張らない事! よし。
あからさまな事なんて品性に関わるからそうないだろうけど、ネチネチには対処できるようにならないと。せかせか強かに生きてきた平民は弱くないからね!
私の事なんて何て言われてもいいけど、ランサの事を侮辱されるのは流石に許せない。
「それはつまり、俺の妻になる、という事か? リーレイ」
……え。
一瞬にして頭が真っ白になって、周りが急にシーンッ…と静かになる。
うん…うん? 今ランサは何て言ったかな?
よく聞き取れなかった。俺の……あれ。私はそんな事言ったっけ…?
「いやー。お嬢も言いますね。「ランサに相応しくなる」なんてちょっと前のお嬢じゃ考えられない一言ですよ」
「っ……!」
揶揄い混じりのヴァンの言葉に、カッと頬に熱が集まった。
言った。言ってしまった。そんな言葉を。
な、なんて恥ずかしい事を……!
そしてランサはどうしてそんな嬉しそうな顔をしてこっちを見るのかな!? 見ないで欲しいんだけど!
「そうか。リーレイはそこまで想ってくれているのか。嬉しいな。俺もリーレイに相応しくなれるよう努力しよう」
「ちがっ…っ…! そっ…じゃ…」
「うん?あぁ、俺はもう一つ伝え忘れていた。リーレイ。俺は君が好きだ。生涯共にしたいと思う程には」
「すっ…! しょ…なっ…!」
言葉! 言葉ちゃんと仕事して!
というかランサ平然とそんな事いきなり言わないで! 心臓に悪いからっ…!
ヴァンも呑気に茶を飲んでないで助けて!
ランサがカタリと立ち上がるのを見て、私は反射的に椅子から立って数歩足を引いた。
本能がものすごく訴えてくる。とにかく逃げろって! 遭遇した事のない未知から距離を取れって!
そんな私を見て、ランサはクツクツと喉を震わせた。
「リーレイ」
そんな愛おしい者を呼ぶように呼ばないで! そんな優しさと甘さを感じさせる目で見ないで!
どうしていいか分からないから!
それにランサはおかしい。
これまで私が見てきたランサは役目に務め、部下をまとめ、『将軍』として過不足ない堂々たる人だったのに。こんなに急に甘くなるなんておかしい。
実はどこかで誰かと入れ替わったんじゃないの…?
羞恥と疑念が混じる目でランサを見ながら、一歩後退する。
「えーっと辺境伯様。さっきも言いましたけど、お嬢は本当にこういう事無縁だったんで。仕事と馬と剣に生きてきた人なんで。お手柔らかに」
「そうだったな。すまない」
全然反省してない声なんですけど! ヴァンはベラベラ言わないの!
ランサが一歩一歩近づいてくるから、私もそそっと下がる。でもランサの歩幅の方が大きいから、私はすぐにバッと腕を前に出した。
「ランサそこで止まって! いい歳して何やってんだとか言ってんだとか思うかもしれないけど、今っ…! かなり頭が混乱してるから!」
「分かった」
すんなりと頷いて足を止めてくれた。そんな人で良かったとホッとしながら、ゆっくりと呼吸する。
頭がいきなりの事に置いてけぼりになってる。落ち着け。
大丈夫。付いていけてる。気づいてる。さりげなくメイド達が扉を閉めて私の退路を断った事にもちゃんと気づいてる。大丈夫。
「リーレイ。改めて言うが、俺は君を妻にしたい。俺の意思で。どうか受けて欲しい」
「っ……! ランサ変なモノ食べてない!?」
「食べてない」
「どっかで誰かと入れ替わってない!?」
「ない」
至極真面目に私は聞いてるのに、ランサはクスリと笑うし、なんでか周りからは「ぶはっ!」って吹き出す笑い声まで聞こえた。今はそこに構ってられないけど!
笑いを治めれば、まっすぐ逸らされない白銀の瞳が私を見る。獰猛さはないけれど、確かに獣のような強さと鋭さを感じた。
そんな目に見つめられ、私は今全身が熱い。心臓も飛び出すんじゃないかってくらい煩く鳴ってる。その音が自分の耳に届いてる。
初めて駆け巡る感情が苦しくて、押しつぶされそうで。
でも、嬉しくて――
「リーレイ」
「っ……ランサがっ…そう言ってくれるのは嬉しい…。でも…まだいっぱいいっぱいで…自分でもよく……分からなくて。でも…嫌だとか…嫌いだとか…思った事は一度もない」
何かをちゃんと伝えなくちゃと思うのに。言葉が上手く紡げない。
「こういう事…今まで感じた事ないから……ランサの事は凄いと思うし尊敬もする! ただ本当に…よく分からなくて…」
あぁ、情けない。こんなにも言葉が足りない。伝えられない。
これじゃまるで子供だ。足が震える。何を言われるのかが少し怖い。
違う。違うのランサ。そうなんだけど私は――
「今はそれで十分だ。リーレイ」
ハッと顔を上げれば、止まってと言ったそこで止まったまま、ランサは私を見つめていた。
そのまっすぐな目に惹かれ、逸らせない。その目が柔らかに私を見つめる。
「俺はこれからもっとしっかり俺を知ってもらい、リーレイに惚れてもらおう。それならいいだろう?」
「うん……うん?」
「ゆっくり気持ちを落ち着ければいい。ただ、俺はこれからもっとリーレイに好意を伝えるから、少し戸惑わせてしまうかもしれない。そこは許してくれ」
「……うん?」
待ってね。今とても混乱してる。今にとても戸惑ってる。
私はこれに「うん」と頷いていいのかな? 頷いたら荒波に押しつぶされそうな予感がするのは間違ってないよね?
「…あの、ランサ。…別に何もしなくても普段のままで…」
「普段通りリーレイに想った事を伝えればいいんだろう?」
あれ? そういうことなの? 何か違うような違わないような気がするんだけど、頭がいまいち働かない。
そんな私を放って、ヴァンがゲラゲラと笑っているし、バールートさん達も笑いをかみ殺していた。




