19,近いです。なぜこうなった…
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三日後。増えて怒涛のように押し寄せた仕事をきっちり済ませ、ランサは屋敷へと帰って来た。
ヴィルドを始め、バールートと他二名の騎士を連れて戻った主を、屋敷の使用人達は一同揃って出迎える。
「「おかえりなさいませ」」
「あぁ。やっと戻った」
疲労と安堵の混じる声を返し、ランサは一同を見回した。
そこに彼女の姿がない。それを確認して意気消沈して、そんな自分に驚いて、そしてフッと力が抜ける。
と、すぐにタタッと足音が聞こえた。慌てたようなその音に、ランサは音の方向へ目を向ける。
すぐにリーレイが来るのが見えて頬が緩んだ。慌てた様子でやって来ても息一つ乱さず、リーレイはランサを見た。
けれどすぐに少し視線を下げてしまう。
「お…おかえりなさいませ。辺境伯様…」
リーレイの様子に笑みが浮かびそうになる。けれどそれを止め、ランサは何も言わずトンッとリーレイの前に立った。
そして、少しだけ、わざと不機嫌な気配を出して、リーレイの流れる横髪に指を絡める。そうすると、明らかにリーレイがオロオロとしだした。
視線を逸らして困惑と焦燥を見せるリーレイと、リーレイを見て僅か口角を上げるランサ。
「……あれって本当にランサ様?」
「バールート。言いたい事は分かるがとりあえず黙ってろ」
ランサの後方での小声の会話もリーレイには届かない。
こういう時に一番に頼るヴァンにすぐに視線を向けるが、向ければフイッとヴァンも真後ろを見るように視線を逸らす。「何で逸らすの」と訴える目をヴァンは知らないフリ。
そんな両者に、目の前にいるランサは当然気付く。ちらりとリーレイとヴァンに視線だけを向けた。
リーレイは続いてシスとディーゴに視線を向けた。が、返ってくるのは瞼を伏せ手を出す気なしの様子と、苦笑いを浮かべる姿。メイド達を見れば、なぜかパッと顔を明るくさせ今にもはしゃぎ出しそう。
周りは全員一切言葉をかけない。憐みや生暖かさやら微笑ましさやらで見守っている。
そんな周囲の様子にリーレイ為す術なし。皆の様子から危険ではない事も、ランサに手が出せないわけでもないらしい事は解るが、ランサが何も言ってくれない。
髪に触れ、動こうともせず、少々不機嫌そうなまま。その様子はまだ変わらない。このままずっとこうなりそうだとすら思う。
理由は何かと考えて、浮かぶのは例の言葉。
「っ…ラ……ランサ…様…?」
応答なし。気配に変化なし。動きに変化なし。
「っ…! …っ、おかえりランサ!」
「ただいま、リーレイ」
自棄になるように放てば、やっと返事が返ってきた。あっという間に不機嫌だった気配など引っ込んでしまう。
その変わりようにリーレイから力が抜けた。ガクリと項垂れる様子に、お疲れ様ですとヴァンは心の中で手を合わせた。
騎士達も揃って苦笑いを浮かべるが、そんな後ろの視線など気にしないランサは、そのままリーレイの手をとった。
「すぐに夕食だな。準備が出来たら呼んでくれ」
「承知しました」
ディーゴが頭を下げるのを見て、ランサはそのままリーレイの手を引き談話室へ向け歩き出した。驚くリーレイは咄嗟にヴァンを見るが「いってらっしゃーい」と手を振って見送られてしまう。
助けてくれないのかと言いたげな目に、とりあえず「無理です」と返しておいた。
談話室は落ち着いた色合いの壁紙で囲まれ、室内も広くゆったりとしている。
が、リーレイの心は一切落ち着かずバクバク状態。三日ぶりの対面で、しかも二人きり。
ヴァンと二人なら慣れているしこんな心情にはならないのにっ…とリーレイは必死に頭を巡らせた。
「リーレイ。そんなに俺と距離を縮めるのは嫌か?」
「違いますっ。そうではなくて…!」
手を引かれてソファに座ると、座ったのに手は握られたまま。大きく武骨な優しい手が、自分の手を包み込んでくれている。そのぬくもりに少し心臓が煩い。
リーレイはおずおずとランサを見た。「うん?」とリーレイの答えを待ってくれている。
そんな様子に、リーレイはこれまでのランサを思い出した。話に耳を傾けてくれた事。気遣ってくれた事。思い出して、リーレイの心も少しずつ落ち着いた。
いきなり距離を詰められたのは驚いたし戸惑っている。
なにせ、数歩分開けていた距離を、一気に鼻先が触れそうなくらい詰められた感覚だから。
けれど、変わらないランサの態度に少し安心して言葉を紡いだ。
「距離を縮める事ではなく、いきなり縮まった事に驚いているのです。さすがに少し戸惑ってしまって…だからどうすれば良いのかと…嫌だという事は決してなく……。聞こえていますか? 辺境伯様」
「リーレイが俺の頭では理解できない難しい言葉を使うから、よく聞こえない」
子供のような少し不機嫌そうな様子に、リーレイは再び言葉を失い頭を抱えた。「いや…ですから…」ともごもごと言葉を紡ごうとするが、どれも続きが出て来ない。
やがて諦めに似たため息がこぼれた。浮かんだ困ったような笑みにランサは笑みを浮かべる。
「分かった。もうっ…。いきなりで本当に驚いてるんだからね」
やっと、伸ばした手が届いた。
少々強引だった事は認めるが、それでもランサは嬉しく、安堵した。
掴んだ手に少しだけ力をこめる。もう離さないと伝えたくて。
そして同時に、触れる掌の感触にランサは刹那瞼を震わせた。
「いきなりは認める。だが、こうでもしなければもっと時間がかかった」
「それじゃ駄目なの?」
「俺を知ると言った君は、その為に常に俺より一歩下がっている。最初はそれでもいいと思った」
多く貴族の女性はそうだ。将来的な地位を考えて相手に近づこうという以外、堂々と前に出る事はないし、一歩下がり、そして凛然とした華となる。
ランサも社交の場ではそういう男女を多く見てきた。勿論、必要な時には夫の隣で堂々と意見を述べる人もいるかもしれないが、社交の場にそういう人は少ない。
「だが、このままでは、君はこれからもずっとこの距離を保つのではないかと思った。この距離は縮まらないのではないかと。君は俺を真剣に見てくれる。それは嬉しいし、将来的にも良い方向へ動くと思う」
埋まらない距離。その言葉に、リーレイはランサをじっと見つめた。
多分自分はそうしたと思ってしまった。立場あるランサを、自分は『令嬢』として支えていく。それが見ていた道であったから。
気さくな家族のような距離など、考えてもいなかった。
「だが、伸ばした手が何も掴めないのは虚しい。君は俺には……気心知れたヴァンのようには笑わない。怒りはしたが、あれは反射で感情的なものだ。親しさから出るものじゃない」
「……あの時は…」
「分かっている。俺を心配してくれたんだろう。もう怒ってない」
そう言って慰めるようにリーレイを見つめると、リーレイも眉を下げて少しだけ頷いた。
ずっと気に病ませていたのだろうと少しだけ申し訳なく思ったが、安易に許せば二度目が起こりそうなのでそれ以上は言わない事にした。
「最初は、ヴァンのように君の事を知れば距離は埋まるかとも考えた。だが、すぐに否定した。俺とヴァンでは知る君が違う」
「ヴァンは…」
「ただ王都の屋敷で護衛官だった、ではないだろう? ヴァンは君を生涯仕える主だと言った。信頼も深いのは見ていて分かる」
ぎゅっと、握られていない方のリーレイの手に力がこもった。無意識に唇を噛んだ。
以前にもヴァンは同じ事を言っていた。そんな御大層な者ではないのに。
けれど知っている。ヴァンはそんな嘘を、出鱈目を言う男ではない。その言葉は本心で嘘はないのだと、言われた時にそう感じた。
思うリーレイにランサは視線を向けた。その目をリーレイも見つめる。
「君の婚約者として、ヴァン以上に君を知り、信頼を得なければいけないと思った。今はまだまだだが、これから努力を続けたい。だからまずはヴァンと同じ位置に立つことにした」
「だから、この距離を…?」
「あぁ」
ランサの頷きにリーレイは納得した。
驚くしかなかったがランサにはそれなりの考えがあったのだ。言葉を交わしてやっとそれが解る。
それが身に沁みて、リーレイは改めてランサを見た。
「ランサ。それなら私はちゃんと私の事を貴方に伝えたい。まだ言ってない事もあるから、ちゃんと話したい」
「分かった。俺も俺の事を伝えたい」
ぎゅっと握り合った手に、意思の強さがこもる。強いけど決して痛みはない加減に、リーレイは不思議と胸が温かくなった。
そんな二人の耳に、コンコンコンッと扉を叩く音が入った。同時に扉の向こうから気の抜けた、話に出ていた男の声が聞こえる。
「お二人とも、夕食だそうですよー」
「うん。ヴァン、入って来てもいいよ?」
「あ、遠慮します」
ぱちりと瞬いて首を傾げるリーレイの傍で、ランサはクツクツと喉を震わせた。
リーレイは分かっていないようだが、ランサにはヴァンの思考が読めた。
「ヴァン?」
「大丈夫です。とりあえず、その様子ならお嬢が無事だってのは分かりましたんで」
堪らずランサは吹き出した。隣からの笑い声にリーレイは驚いてランサを見るが、ランサは笑みのまま扉へ視線を向けている。
「当たり前だ。ヴァン。いくら俺がリーレイを好いていても、当のリーレイの胸中が分からない今傷つけるような事をしてみろ。縮めた距離が無駄になる」
「そうですけど。うちのお嬢、これまで恋情も色事も無縁だったんで、流されるままって事がなきにしもあらずなんじゃないかと」
「ヴァン…!?」
「成程。それは心配だな。だが安心しろ。今以上に愛情を伝えるのは、もう少し後にする」
「助かりますー」
ランサ、そして扉。交互に向ける視線が忙しい。あわあわとオロオロとする、そして顔を赤くするリーレイにランサは喉を震わせる。
そして、今になってヴァンの言葉の意味を理解したのか、キッと扉の方を睨む。そんな様子も笑みを深めさせるけれど、やはり自分とは少し違うのだと、ランサは改めて感じた。
ランサに怒る意思はなかったのか、突如扉へ走ってバンッと勢いよく開けると、「馬鹿ぁ!」っとヴァンの頭を叩いた。が、ヴァンは「いたっ」と言いながらも大して痛そうな様子も見せない。
そんな二人に笑い、ランサはソファから腰を上げた。
「リーレイ。ひとまず夕食にしよう。話はそれからだ」
「っ…うん」
顔の赤みを必死に引かせようとする様子を、ランサもヴァンも微笑ましそうに見つめた。




