109,『闘将』、究極の選択…?
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空が白む頃には屋敷を包んだ火も勢いを失っていた。俺達はセルケイ公爵家に戻り事後処理に走った。
セルケイ公爵のおかげで、今夜の一件は夜会の参加者には知られていない。誰にも知られる事無くなんとか片を付けることができた。
ビレーヌ伯爵は現在セルケイ公爵の監視下に置かれ、陛下の沙汰を待つことになる。決して軽い罪にはならない。
そこはもう、俺の関与するところにはない。己の行いは己で償わなければならない。
俺はベッドに腰掛け、眠るリーレイの傍にいる。その手を放し難くずっとこうしている。
リーレイの手首は縛られていたのか、皮膚が擦れていたので包帯を巻いている。足首も同様だ。
鉄輪と鎖には本当に殺意が湧いた。赤くなって血が滲んでいた様には俺よりもスイ夫人が「奴の仕業かしら? 潰さないと」と殺気立っていた。…ティウィル公爵家の方らしい言葉にバールートもエレンも押されていた。
思い出しながら俺はリーレイを見る。
本当に、無事でよかった。その姿を。無事を。この目で見てどれだけ安堵できたか。俺を見たリーレイの表情が何度も思い出される。
ただ、気になるのは――…
俺はそっと、シーツに揺蕩う黒い髪に指を通す。
「リーレイ…」
そっと、静かにその名を紡ぐ。答えはいらない。口に乗せればそれだけで無事だと実感できる。
じっとその顔を見つめていると不意に、その瞼が震えた。ゆっくりと開いた瞼の下に黒い瞳が見える。
「リーレイ」
「…ランサ…?」
静かに呼べば、探すように動いた瞳が俺を見る。見つけたリーレイはホッとしたような表情を見せた。
それにまた、言い表せない感情を抱く。
髪に触れていた手をそっと、その頬に添えた。
「痛むところはないか? 具合は?」
「大丈夫。怪我してないよ」
医師もメイドもそう言っていた。だがリーレイの口から聞いてやっと俺は安堵できる。
頬に添えた手にリーレイはするりと頬を寄せた。そんな珍しい様子に口元が緩む。
「あれからどうなったの? 皆は…」
リーレイも自分で思い出すように少し黙り、そして俺を見た。
リーレイがまず何を言うか。それを予想していた俺はそっとリーレイの口に指を添え、止めた。
どうして止めるのかと少し不思議そうな目をするリーレイだが、指を放すとゆっくりと身を起こした。それを見てから俺はその問いに答える事にした。
「ビレーヌ伯爵以下、贋作に関与していた者達は全員拘束した。セルケイ公爵の調べと本物の絵と贋作も証拠としてある。言い逃れはできない。流れ出た物は各所に通達して回収出来るようにはするが、時間がかかるかもしれない」
「そう…」
それでも事は終わった。リーレイもホッとしたように息を吐いた。
アグウィ伯爵にも伝え、贋作の回収には力を借りる事になるだろう。恐らく他の公爵家始め、鑑定士達も動いてくれる。後はそちらに任せるしかない。
カランサ国へ回った物は…正直難しい。どれだけ出て行ったか分からない。
「ランサ。ありがとう。助けに来てくれて」
リーレイが俺の手に自分の手を重ねた。
そのぬくもりも。笑みも。俺には嬉しい限りだ。
だが、俺はその言葉に少しだけスッと心臓が冷えたような気がした。
素直に喜べない。俺はきちんと伝えなければいけない。
「…礼を言われるような事は、できていない」
「そんな事ないよ」
「違うんだ、リーレイ」
はっきりと否定した俺にリーレイは首を傾げた。
一度額に手を当て。それでもやはり顔を上げ、俺はリーレイを見た。
少しだけ、重ねた手の下で俺は拳をつくった。それに気付いてもリーレイはその手を退けない。
それはまるで、まっすぐなリーレイの姿勢そのもののようで。
「俺はビレーヌ伯爵側から、リーレイを無事に解放してほしければ見逃せと要求された。だが俺は迷うことなく国境の平穏を選んだ。俺はそういう男だ。これからも、これは変わらない。何度でも。何があっても。…同じ事があっても。目の前でリーレイに剣が突き付けられても、俺はリーレイを選ばない」
「うん。選ばないでね」
「…うん?」
妙にあっさりとした頷きがさらっと返って来た。…少し情けない声が出てしまったかもしれない。
リーレイは変わらずまっすぐ俺を見ていた。いたって真剣に。
俺の言葉を理解していないわけでもない。理解した上であっさりと頷いている。怒らないだろうなとはなんとなく思っていたが、それにしてはあっさりすぎないだろうか…。
…リーレイは他の令嬢とは違う。根っからの貴族ではないし。俺の役目も理解し、力になろうとしてくれている。
それはとてもありがたいし、心強くも想っている。
だが俺は、リーレイの夫になる男でもある。リーレイはそんな男に「お前を見捨てる」と言われてあっさりしすぎではないだろうか?
俺は…ちゃんと夫として見てもらえているのだろうか? もしかしなくても『将軍』としての面が強すぎないか? そうならば由々しき事態だ。
「…リーレイ。俺は君の婚約者だ」
「いきなりどうしたの? そうだよ?」
「…つまりは、将来的には夫になる」
「う…うん」
「リーレイは、俺という男の事を考えた時、まず何を浮かべる?」
「? うーん…国境と領民を大事にして、陛下や殿下への忠と、信頼を大事にする人…かな」
リーレイの中では俺の姿が『将軍』になっている。
これはマズイ。非常にマズイ。リーレイに振り向いてもらおうと思っていたが、それよりもまずは夫であるという意識を強めてもらわなければ。
いや。リーレイがそう思ってくれているというのは、つまり俺の役目を大事に思ってくれているからだ。それは嬉しい。
だがこのまま『将軍』であると、それこそいつか辺境騎士達やバールートも言っていたように、リーレイが俺直属の騎士にならないだろうか? 大丈夫か?
俺はちゃんとリーレイに男として。夫して。好かれているのだろか?
いや。好かれている。それは分かる。ただ思えば、俺はリーレイから「好き」も「愛している」も言われた事はない。
リーレイがそういう好意の言葉を口にするのを恥ずかしがるのは知っている。それでいいと思う。稀にくれるから俺は堪らなく嬉しい。そこに不満はない。
…ここで押し倒してしまおうか。
不穏な思考が囁き始めて俺はすぐに頭の中の俺を斬り捨てた。出て来るな。
「ランサ? ランサはランサだよ?」
「…そうだな」
「ランサは確かに立派な辺境伯で、『将軍』だけど…その…私にとっては、優しくて。気遣ってくれて。頼もしくて。誰よりも安心をくれる…そういう人だよ? いつも尊敬してるし。憧れも…あるけれど、別にその…『将軍』だけじゃないよ? ランサだよ?」
一瞬、返す言葉をなくした。堪らず口元を覆う。
リーレイ。俺を喜ばせないでくれ…。本当に。不穏な思考が囁いて来るからマズイんだ。
珍しく、戸惑いながらも伝えてくれた言葉が、どうしようもなく俺の胸の内を掻き乱す。
落ち着け。落ち着け。これまで通りゆっくりとした意識を保て。頭の中で野盗対応を思い出して思考を冷やす。
そもそも、俺の不安などいらぬものだ。リーレイはちゃんといつだって俺を見てくれているだろう。妙な思考に引き摺られるな。
リーレイは俺を、男として、意識して好いてくれている。今の言葉がなによりの証拠だ。
喜び以外に何がある。余計な思考は捨てろ。
必死に頭を冷やす俺に、リーレイの躊躇いがちな声が聞こえた。
「ランサ…? えっと…あ、話と違う事言っちゃったね。ごめん忘れて」
「忘れられない」
思わず言ってしまうと、リーレイは「え…」と今になって頬を染める。そんな姿も可愛いと思ってしまう。
だが、リーレイは、ふるふると頭を振るとぺしりと頬を叩き「話を戻そう」とすぐに切り替えた。流石だ。
「えっと…選ぶかどうかの話だよね。私を選ばないのは当然だと思うよ。国境と私の二択で私を選んだら、国は混乱するし、砦を守る皆も混乱するでしょう? 何より、クンツェ辺境伯家やランサが築いてきた、国や王家、騎士達からの信頼が崩れる。それは絶対に駄目。ランサに向けられている信頼は、ひいては辺境伯家、シーラット辺境伯家の信頼にも繋がる。そこが揺らげば国内だけじゃなく落ち着いているカランサ国も一部、動くかもしれない。騎士達の揺らぎは辺境騎士団の分断にもなりかねない。だから、ランサが選ぶべきものは決まってると思う」
リーレイは落ち着いて見据えていた。…うん。それは嬉しい。
俺は他の貴族とは違い背負っている役目がある。それは国に関わる事であり、投げ出すなどあり得ない。
だからこそ、そんな俺の婚約者には相応の危険が付き纏う。かつては母上も背負い、シャルドゥカの妻も同じものを背負っている。
だが、改めて解った。
リーレイは初めて会った時から変わらず、俺に与える影響を考えてくれているんだと。
違うのは、以前なら一歩下がっていただろう姿勢が、今は隣に立とうとしてくれているということだろう。
それが分かってやっと、俺も頭が冷えてきた。
「ランサ。何か変な事言ったかな?」
「いや。リーレイの言う通りだ。ありがとう。危険を承知で俺の隣にいてくれて。やはり俺にはリーレイだけだ」
今なら分かる。なぜローレン殿下はリーレイを選んだのか。
候補は他にもいたかもしれない。だがその中で、殿下はリーレイを選んでくれた。その心には臣として感謝し、友として…嬉しく思う。
「…ランサ。一つ少しだけ怒ってる」
「うん?」
珍しくリーレイが抗議するように俺を見る。照れと合わさったそういう顔を見る事はあるが、今回はどうやら違うらしい。
これまでに見た事ないリーレイの表情は嬉しいが、真剣なリーレイに俺もまっすぐ視線を向けた。
「ランサ。まるで最初から私を見捨てるみたいに言うから。ランサはまずどちらも選べる方法を考えるって思ってる。助けない思考と諦める事は、しないでしょう?」
「そうだな。すまない。俺には信頼出来る部下もヴァンもいる。どちらも守るだけの力を尽くす。諦める事は絶対にしない。国境を守るは辺境伯の務めであり、愛しい妻を守るのは夫の役目だ」
「っ…私だってランサを守るから。今回はその…迷惑かけたけど、次は自分で脱出するから! ランサは心配しないで役目に務めてね」
「次は止めてくれ」
二度目を前提にしないでくれ。心配で俺が倒れる。
リーレイには俺の心配が通じない。これだけは本当に悩ましい。辺境騎士達になら「反省し次に活かせ」と言える。リーレイにまで言いたくはない。
額に手を当てる俺に、リーレイは「うっ…」と言葉に詰まった。
それでもやはり、リーレイだけだなと思ってしまうのだから、俺は本当にリーレイに捕まっていると思う。
リーレイが俺の内心の靄をすべて払ってくれて、俺は自然と口元が緩んだ。そんな俺を見てリーレイは頬を染めて視線を逸らす。
「っ…ランサ。皆は…?」
「全員休んでいるが…ヴァン、バールート、エレンはもう起きて来るな。リラン嬢とスイ夫人も心配していた」
「心配かけちゃった…」
「皆が安堵していた。リーレイが無事で良かったと」
「ありがとう。でも私一人じゃどうにもならなかったよ。アルギがいたからだし」
リーレイが安堵と信頼の色で告げた言葉に、俺は思い出す。
バルコニーからリーレイを投げ落とし、最後に告げたあの言葉。あの男の笑み。
リーレイが男と囚われているとは聞いたが、それがそのアルギと言う男なのだろう。…それにしてはリーレイは警戒していないように見えるんだが。
俺はリーレイの手に指を絡め、まっすぐ視線を向けた。




