1,今日も平穏…ではないようです
「行ってきます!」
「気を付けて行ってらっしゃい」
いつもと何も変わらない。いつも通りの朝。私は家を出て仕事場へと走り出す。高く結った黒髪が動きに合わせて揺れてるのが分かる。それを感じながら、思い切り風を切って走るのはとても気持ち良い。
よしっ今日も頑張ろう!
そう思って走る私は、今日もまたいつも通りの一日を送れるよう願っていた。
だけど突然に、前触れもなく、今日という日が私の運命を変える日になるなんて思ってもいなかった。
♦*♦*
「今日もありがとうね、リーレイちゃん」
「いえ。お礼を言うのは私です。今日もお仕事くれてありがとうございます」
両手に重い木箱を抱えながらそう言うと、私の周りで皆がドッと笑った。
ここは貴族街から離れた一般街に住む平民の、朝の市場が行われる場所。店を出すのもそこを利用するのも平民ばかりで、貴族様なんて滅多に見かけない。そもそも貴族街は王城に近いから、ここからは遠すぎる。
ここは誰もが優しくて気の良い人達ばかり。嫌な人が全くいないわけじゃないけど、少なくとも私の周りにいる皆は良い人達ばかり。
朝の市場は午前中に終わる。私は賑わう中で雑用や手伝い、客の呼び込み、荷運び手が足りない所をあっちへこっちへ動き回る。こうした仕事は全て店を出す皆がくれて、声をかけてもらわないと仕事はない。
本当にありがたい。
そして、そんな仕事をするから、私は普段から男装姿をしてる。女性達はワンピースや裾の長いスカートを身に付けるのが一般的だから、生憎と目立つ格好になってる。
だけど、スカートなんかじゃ走り回れない。動きやすさと利便性から、私の私服は常に男装。
お洒落のように男装をする女性は稀にいるらしいけど、私みたいな人はまずいない。その所為か従兄からは苦言を呈される事がある。
「リーレイちゃん。それが終わったら今日はもう終わって良いよ」
「分かりました」
「明日も頼むよ!」
「はいっ!」
明日も仕事が出来た。やった!
市場以外にもちゃんと雇ってもらってる仕事場もあるけど、稼ぎは多くて困らないし、先々の事や家族の事を考えてちゃんと備えはしておきたい。
それに、妹のリランは少し風邪を引きやすいところがあるから、栄養のある物を食べさせてあげたい。
私は木箱を全て所定の場所へ積み上げると、手伝いに呼んでくれた皆の所へ順に挨拶に回る。そうするとそれぞれが日当をくれる。下げる頭が深くなるばかりだ。
皆への挨拶を終えて、私はまた走る。
「よく走るなぁ、リーレイちゃんは」
「本当に元気だねぇ。頼もしいよ」
皆の優しい目を受けて、私は次の仕事場へ走る。次の仕事場はちゃんと雇ってもらっている所。
市場を抜け、通りを走り、貴族街へ少し近づいて行く。走って行くと、シャグリット国の王都アングリートの中心通りへ辿り着く。けれど私はその通りを進まずに小路に入る。
そして一軒の店の扉を開けた。一応従業員だから表からは流石に入れない。
店に入って短い廊下を進めば従業員の部屋がある。そこに居た人が私を見て微笑んだ。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「今日もお願いね、リーレイちゃん」
「はい」
私にふわりと微笑んでくれる女性が、店主のアンさん。美しくて品があって、とても素敵な女性。
アンさんの店は王都でも有数の衣裳店。貴族も利用する店で平民ではなかなか手は出せない。私も縁がない…。それに利用する機会もない。平民だからね!
そんなお店で、私は雑用兼金番の一人として働かせてもらっている。仕事を探し始めた頃、給金良さそうだなと思って突撃したら、アンさんは驚いて、笑って、雇ってくれた。今思い出しても申し訳ないけど、あの頃は私も必死だった。ごめんなさい…。
アンさんはそれ以降何くれとよくしてくれて、頭の上がらない人。それにアンさんは従業員にも優しくてしっかりしてて「頼れる姉さん」って、従業員からは言われる程信頼厚い人。
「もうっ。ドレスの一着でも十着でも給金に添えてあげるのに」
「とんでもないですっ! 見てるだけで充分ですし、私には似合いませんよ」
「自分の魅力っていうのは、自分が一番分かってないもんだよ」
勿体ないって、アンさんは笑みを乗せて言う。
いやいやアンさん。私はそんな高級ドレスが似合うような整った顔じゃないですし、絶対にドレスが浮きます。みっともないです。アンさんはすらりとしてるからとっても似合ってますけどね。
アンさんはすぐに店の方へ戻って行って、私も従業員が行き交う関係者通路へ向かう。まずそこを掃除するのが私の仕事の始まり。
店の中にはお客様がいるし、男装平凡の私が行っちゃ店のイメージにもよろしくない。だから私は裏で仕事に勤しむ。
まずは箒を手にして、
「よしっ! 仕事かい…」
「リーレイちゃん、ちょっといい?」
「?」
勢い削がれて後ろを向くと、アンさんがおいでおいでと手招いてる。
何だろう? さっきの今なのに。
ひとまず箒を置いてアンさんの元へ駆け寄ると、アンさんは従業員用の部屋へ向かう。何か問題? 先にお金管理? まさかそっちで何か問題が……!
何て色々考えてしまったけど、アンさんに呼ばれた理由は部屋に入ってすぐ分かった。
「ヴァン!」
「お仕事中すみません、お嬢」
ざんばらの黒髪と切れ長だけどやる気のなさそうな薄茶の瞳。私も背は高い方だけど私よりも高い背、太い首筋から伸びる逞しい肩や身体。
ヴァンは、叔父様が寄越した我が家の家人で、私と妹の護衛という役目を持っている。……全くそんな実感ないけど。呑気な家族って感じで。
護衛なんて大層な役割だけど、実際は買い物の荷物持ちになってるし……。いやそんな事はよくて。
「どうしたの? 仕事は?」
「早退しました」
「! どこか悪くした…わけじゃ…ないよね…?」
一瞬びっくりしたけど、ヴァンはいつも通りだし何かに痛がってる様子もない。頭から足先まで見るけど異状なし。確認完了。
私の心配にヴァンは気のない様子で「えー」って言葉を整理してる。
「お嬢にお客さんが来てるんです。俺は旦那様と一緒にその人連れて来て、んで早退」
「…? 父様も? 何で? 誰?」
「……会えば分かります。なんで、すぐ帰ってもらいます」
「え……今から? 決定事項?」
「決定です。逆らえません」
何で? 日を改めるとかないの?
疑問に思う私の傍ではヴァンがアンさんを見る。「すんません」と謝るヴァンにアンさんも「仕方ないかな」と頬に手を当てた。
アンさんの了承に、ヴァンは私の腕を掴んだ。
「んじゃ、急いで帰りますよ」
「え、あ、うん…!」
裏口から店を出る時も、アンさんは優雅に手を振って見送ってくれた。あぁ…所作が美しい…! 明日ちゃんと謝らないと。来たばかりだったのに…。
表通りに出た時には、ヴァンは私の腕から手を離していて、私もヴァンの隣を走った。
ヴァンは足が速いし、気だるそうなのに時々動きも俊敏。本当にそんな時は稀だけど。そんな姿を見ると、あ…一応護衛だっけって思い出す。普段はかなり面倒がりだから、ちょっと困るけど。
そんなヴァンは今、私に合わせてくれてるけど、足を緩める事無く走ってる。
「ヴァン。お客さんって誰? 叔父様?」
「違います」
「じゃあ……ラグン様?」
「違います」
叔父様でもなければ従兄でもない。一体誰だろう?
そりゃ、前触れなしにお客さんなんてよく来るけど、そういう時は家にいる妹が対応してくれるから、私が呼ばれる事なんてない。そもそも私にって個人的なお客いるかな?
最近、家に来るっていうような人も、話をしようなんて約束も誰とも交わしてない。私が留守なら後日とか、私から訪ねるとかしても……。
「…ぅ……かです」
「え、何?」
考えていた所為か、ヴァンの声が聞こえなかった。
走りながら隣を見上げる。前を見てる目は、どうしてかとっても嫌そうな苦々しそうな、渋々っていうようなそんな様子で、顔まで歪めた。
「王太子殿下です」