霧ヶ峰蒼太、の3
昨日近所のスーパーで閉店間際に求めた食パンは、今日の朝には賞味期限が切れてしまっていた。袋に七割引きのシールが貼られている商品なのだから仕方ないが、八枚もあるピースは、さすがに一度で食べきるには多すぎる。
トースターで二枚焼き、フライパンに薄いハムを入れて軽くあぶる。
いい感じに焦げ目と肉の焼けるこうばしい香りが立ったら、卵をひとつ割って入れる。
これは。
やけに大きな卵だと思ったが、それもそのはずだ。黄身がふたつ入っていた。
普通の人なら「ラッキー」と小躍りするところだが、霧ヶ峰蒼太は違う。
こういう日常の些細なことで得られる幸せというものが、得てして大きな不幸への一里塚であることをこれまで嫌というほど味わってきた。
「朝からこんなにいいことがあると、今日一日嫌な予感しかしないな」
今週はここまで一日一度はそこそこ特筆すべき不幸に見舞われている。
不幸の皆勤賞だ。有名な大リーガーだって全打席安打する日は滅多にない。
テレビをつけると震災関連のニュースが目に飛び込んできた。
放射能の除染がすんだ地域から、徐々に人が戻れるようになりつつあります、みたいなことが報じられている。放射能にせめて色でもついていればもっと帰宅が早まったろうに。
いや、色なんてついていたらなお戻らないか?
何年か前、時間を限定されて一時帰宅が許されたことがあった。
僕も金谷と一緒に、当時近所だった人たちの車に同乗して、立ち入り禁止のゲートをくぐって家に戻ったことがあった。金谷については知らないが僕はそれ以降家には一度も戻ってはいない。
家は、かろうじて残ってはいた。少し高台にあった家は津波の難をかろうじて逃れていたのだ。
人が住まなくなった家は悲惨だ。部屋は野生動物の住処になっていたし、家の裏にあった竹林の竹が何本も母屋の居間を貫通して屋根を破っていた。
せめて通帳や貴重品を探そうと思ったが、不自然に出しっぱなしになったタンスの引き出しや開けっ放しにされた襖を見てそれもあきらめた。父がひた隠しにしていたつもりの大きな金庫は隠されていたはずの場所からそっくりそのまま無くなっていた。
三途の川の渡し賃には六文銭以上はいらないことを、僕の両親はよく知っていたはずだ。
あとで合流した金谷も苦笑いをしていた。
火事場泥棒だけじゃないなんて、世の中マジで怖いわ。
泣きそうな顔でそんなことを言っていた。家族の写真が閉じられたアルバムを金谷は持ってきていた。
僕がほとんど手ぶらだったのを見て、金谷は口をキュッと堅く結んだようだった。
「流されたんだよ、人の良心も全部」
金谷には僕の言った「良心」が、「両親」に聞こえたかもしれなかった。そうあってほしいと、僕はその時はそう思った。固く握った拳から、うっすら血が滲みた。
スマホが鳴って、我にかえる。
画面に「立花崇」と表示された。バイト先の店長だ。
電話に出ると、「おう、俺だ」とうわずった感じの声がした。
こういう声を出すときの店長の電話はこれまでロクなことがなかった。
「今日のバイトは夕方からになった。『引っ越し』だ。黒い服で六時、遅れるな」
用件だけを告げて、電話はふつりと切れた。
予想通りだ。
電話を切ると、フライパンから焦げた香りが漂ってきた。うっすらと白煙も上がっている。
嫌な予感が、抜けない。