安城シーナ、の12
霧ヶ峰蒼汰を殴った拳がひりつく。
直前まで思いとどまっていたはずだったのに、『昨日のことなどまるで覚えてませんが、それが何か?』といった表情を認めた途端、安城シーナの感情の箍は電子レンジにピッチリとかけたラップのように軽くはじけた。
ああ、なんでこういう時だけ思いきりがいいかなぁ!
殴った瞬間、彼は目を大きく見開いて、キョトンとした顔をしていた。
あれは『どうして殴られたんだろう』って顔だった。
いたたまれなくなってすぐに踵を返し、その場を後にした。
その場で今さら言い訳されても困るし、なによりあたしがいきなり殴ったことについて報復されるのもまた困る。
反省と同時に「そもそもあいつが悪い」という身勝手な感情が安城シーナの腹の底にふつふつと留まっていて、頭の中は混沌を極めていた。
だからその場を立ち去ったすぐ後に後背から霧ヶ峰蒼太の「待って」の声が聞こえた時には、正直、戦慄を覚えた。
え⁉︎なになになに⁉︎復活するの早くない?怖っ!
しっかりと殴ったはずだ。シーナは自慢じゃないがその辺の並の男よりかは喧嘩慣れしている。叩きつけた拳には、確かに手応えはあったのだ。
自然と足取りは加速する。その後も呻き声に似た「待って」の声が届くたび、安城シーナの細身が電流を流された時のようにビクンと反応する。
目を閉じ耳を塞ぎたい気持ちを抑えて、ようやく公園の出口から歩道へ出る。
そこへひときわ大きな「待って!」の声。
振り向くと、映画「バタリアン」のゾンビばりの動きで霧ヶ峰蒼太がシーナに詰め寄ってきている。距離にしておおよそ数十メートルといったところか。
「さすがに気持ち悪いんですけど!ジョージ・A・ロメロ監督に怒られるわよ⁉︎」
彼の目的があたしへの復讐にあるとするならば、何はともあれ足を止めるわけにはいかない。
「待てと言われて待つ女がいるかってのよ!」
中指を立て、口汚い言葉を吐き捨てつつ、車道へ飛び出す。
驚いたのは普通に車を走らせていた個人タクシーの運転手だ。滅多に人の通らない裏道を選んで快適に車を走らせていた矢先、不意に、本当に車の鼻先に、歩道から女が飛び込んできたのだから。
完全に、「避けきれない」そう思いつつ思い切り踏んだブレーキの音は虚しい金切り音だけを残した。
衝撃は、なかった。
当たって、ない?タクシードライバーはおずおずと目を開ける。
「え?なんで?」
「バーカ。ちゃんと前見て運転しなさいな!」運転席側の窓越しに、髪の長い女がそう言ったのが聞こえた。
「え?」
タクシーの中年ドライバーは急ブレーキの際に下りてきた薄い前髪を掻き上げると、もう一度確かめるように疑問符を口にした。完全に『轢いた』というより『撥ね飛ばした』距離だったはずだ。「え?」と今度は周囲をぐるりと見回して再確認する。
やはりなにともぶつかった様子はない。
軽やかに歩道を歩く女にはちゃんと足もあった。
つまり、少なくともこの女は幽霊ではないということだよな、運転手は汗をかいた右手で頬をつねって、サイドミラーで女の姿をまた見直した。
いやあ、事故にならなくて本当に良かった。あんないい女を轢いたら、多分俺はもう一生車のハンドルは握れない。
口から漏れたのは、ほぼ人生を枯らした中年タクシードライバーの素直な感想だった。もちろん言葉の表現には事故にならずに済んだことへの過剰な安堵も含まれてはいたが、まだミラー越しの視界に残る安城シーナの姿が完全に消えるまで、ドライバーは車を動かすことはしなかった。
「でも、なぜ当たらなかったんだ?」
それだけはいくら考えてもわからない。
謎としか言いようがなかった。




