安城シーナ、の11
カラオケが終わった後、すっかり酔い潰れた霧ヶ峰蒼太の肩を安城シーナは支えて店を出た。
鷺毅が細い目をさらに糸のようにしながら、「そんなヤツ置いて、もう一件行きましょうよ。良い店知ってるんで」と言ってきたが、「そんなの可哀想よ。大丈夫、彼はあたしが介抱しておくから」と断る。
京子がニヤニヤしながら近づいてきて「ねっとり介抱してあげなよ?」と、わざわざ下世話な釘を刺していく。
大丈夫よ。あんたと違って、あたしは身持ちの固い女ですから。
起きたら、ちゃんと説明して、一発殴る。
それだけのことだ。
とりあえずここではなんだ。せめて彼がゆっくりと目覚める環境にはしてあげたい。そうやって歩いていると、そこそこ大きめな公園を見つけることができた。
体重を預けてくる男の身体は、たとえそれが若く細身であっても重い。自然、足取りはつられてふらつくから、このまま歩き続けるというのは現実的ではなかった。
迷わず公園に入り、手近なベンチに倒れるように腰を落とす。
「重いよ!」
思った以上に大変な作業に、声が出た。腰を落ち着けたベンチは木製で硬く、寄りかかるとギシッという悲鳴を上げた。
座った拍子に、偶然、霧ヶ峰蒼太の頭がシーナの膝に乗る。静かな寝息を立てて夜の空を仰ぐ顔はあどけなく、シーナに『このまま膝から転げ落としてやろうか』という、一瞬だけ頭をかすめた過激な思考を引っ込めさせた。
公園のあちこちに点在する街路灯の光が、このベンチだとかろうじて届いていた。
ふと、この青年の身の上話を思い出す。
若い身空で身寄りも失い、今度は住んでいる仮設住宅も追い出されるとか言っていたっけ。
こういう人、実は多かったりするのかしら。
これまでそんなこと、考えたこともなかった。
無防備に眠る霧ヶ峰蒼太のほっぺたを右手指で軽くつねる。
別に、殴らなくてもいいかしら。
どうしても殴りたいわけではないのよね。
ふとそんな考えが浮かび、シーナは軽く「いやいや」と、首を振った。それじゃあこれまでのあたしを自分自身で否定してしまうことになる。
でもな、と、知れず言葉が口をつく。
見上げた時に見えた夜空に、大きく月が浮かんでいた。
あたしの抱えているコンプレックスなんて、煌々と輝いてそこにある月にはなんの関係もないのだろうな。
「よし」
シーナは決めた。この青年があたしに面倒なヤツと言ったことを謝罪するようなら、今回に限り、暴力は振るわないであげよう。
それなら彼の不幸な生い立ちに同情するあたしにも言い訳が立つし、堪えることだって多分できる。
「あの」
安城シーナは、明け方近くになってようやっと目を開けた霧ヶ峰蒼太をにっこり笑って見下ろした。まだ彼の頭は、膝の上にある。
「なあに、そうたん」
「ほかの皆は?」
「とっくに解散しましたよ。今ここには、そうたんと、あたしだけ」
また小さく、にこりと笑ってみせる。
「単刀直入にお聞きするのですが」
「何ですか?そうたん」
「その、そうたんっていうのは……」
そう呼ぶように言ったのは自分じゃないの。
シーナは首を捻った。
まさか昨日の事は覚えてないとでもいうの?
「あなたが自分をそう呼ぶように言ったのだけど。……まさかお忘れではないですよね?」
ピリッとした感覚が、シーナの四肢に走った。
「あ、あの」
霧ヶ峰蒼太はしどろもどろになりながら、うわずった声を出した。
「ようやく起きてくれたみたいで」
状況が飲み込めず、とりあえずこの態勢から逃れようとする霧ヶ峰蒼太の動きに合わせて、シーナは体を動かす。
彼の口から素直に謝罪の言葉が出れば良し。
暴力は、今回は『なし』。
それはシーナの中で決めた彼に対する最大の譲歩だ。
ただし、謝罪の言葉がなかったり、その意思も感じられないとあたしが判断した場合は、やっぱり彼を殴らなければならない。
シーナの膝は、霧ヶ峰蒼汰を捕えた蜘蛛の糸。ここならまず攻撃を外すことはない。
さあ、男だったらあたしの望むような気の利いた台詞の一つも吐いてみなさいな。
少しばかり期待に胸をときめかせる。
しかし。
「ええと?」
霧ヶ峰蒼太の発した言葉はこの短いたったの三文字だった。
顔には動揺と同じくらいに、状況がわからないといった表情が浮かんでいる。
昨夜自分が口にした言葉を覚えていないのか、あるいは覚えていないふりをしているのか。
そのどちらにしても、それらはあたしに対して不誠実なものに違いはない。
凡夫か!朝まで我慢強く待ったあたしの時間を返せ。
結論は出た。同情はもう必要ない。
「ご遺言があれば、どうぞ今のうちに」
言うが早いか、シーナは固く握った拳を青年の顔面めがけて振り下ろしていた。鈍い音とともに顔が爆ぜ、膝枕から一転、公園の石畳に霧ヶ峰蒼太が無惨に転がっていく。正直言われた方にしてみれば、今のうちにもなにもあったものではない。
ふん、と鼻を鳴らしてベンチを立つと、太腿が痺れていることに気づく。そういえばずいぶんと長い時間膝枕をしてあげていた。
せいぜいあたしの同情に応えなかった自分を反省するといいのだわ。
安城シーナは、殴った右拳を左手でさすった後、痺れた太腿を軽く叩いてゆっくりと歩き出した。
あたしを面倒だと言ったあなたが悪いのよ。多分に覚えてないのでしょうけれど、それはあたしには関係のないこと。
どうしても譲れないことのひとつやふたつ、女にはあるのだ。




