安城シーナ、の1
「そんな男やめちゃいなよ。絶対ヤバいやつじゃんそいつ」
友永京子の声の大きさに、メロウなジャズが流れる店内に居合わせた客の視線がいっせいにこちらに向く。
「ちょっと恥ずかしいからやめてよ」と、頭を低くしたのは結婚して姓が変わったばかりの薄井幸乃だ。
「だから、ナンパされただけで付き合ってなんかいないんだって」
二人の友人にだけ聞こえるように顔を寄せて、安城シーナは言った。
「どうだか。なんだかんだ言ってそいつの……なんだっけ?」
「轟」
「そう、そのロッキーの家までホイホイついて行ったんじゃないの?」
友永京子の言葉に、安城シーナは、グッと言葉を詰まらせる。
「また、シーナ、断れなかったんだ」薄井幸乃が呆れた声を出す。
「だって、断りづらいタイミングって、あるじゃない」
シーナは昔からすがるような目に弱い。ロッキーの下心を強く感じながらも、京子の想像通りその日シーナは彼のアパートまでついて行ってしまっていた。
「で?」友永京子と薄井幸乃の顔が、シーナの顔にぐいっと近づく。
「帰ってきたわよ、その場で、ちゃんと」
目を逸らしながらシーナは頬を膨らます。
嘘ではない。半分は。
シーナは先日ロッキーのアパートに行き、彼の部屋に入ったには入った。ここまでは、合っている。
掃除もロクにされていないロッキーの部屋は、ビニールに詰め込まれたゴミ袋が散乱しており、カーテンの開いたベランダには発泡酒の空き缶が所狭しと並んでいた。正直それだけでもじゅうぶんに「ウエーッ!」な状況だったのだが、強引に抱きつかれたことと酒が多少なり入っていたことも手伝って、仕方ないかな、と半分あきらめもしていた。
求められない女になるよりかは、多少難ありでも求められる女であった方がいいに決まっている。
キスくらいで、なにかがすり減るわけでもあるまい。
昔の流行歌にも『愛を語るより口づけをかわそう』というフレーズがあったはずだ。
ロッキーの顔が近づいてきて、あと少しでキスされそうになった瞬間、「ああそうだ」女子のたしなみとしてこういう時は目を閉じなければならないと思った。
目を閉じればロマンティック度合いも少しは上がるし、見えるものも気にならなくなるかもしれない。
しかし全部なりゆきのせいにしてしまおうとしたシーナの目に最後に映ったのはロッキーではなかった。
うず高く積み上がったゴミ袋の間から顔をのぞかせた、体長七~八センチはあろうかという大型の『G』。
これと目が合ってしまった。
Gは黒光りするつややかな流線形ボディーと、やたらとつぶらに見える瞳をこちらに向けると、わっと羽を広げて飛んできた。
シーナは悲鳴一閃、思いっきりロッキーをGの方へ突き飛ばすと、玄関から攫うように靴を取って、裸足のまま階段を駆け下り、ロッキーのアパートを後にした。
今思い出しても鳥肌が立つ恐怖体験だ。
「つまり私はそんなに軽い女じゃない、そういうわけなのよ」
にやにやをやめない友人二人を見ないように、安城シーナは色白で整った横顔を赤らめた。