霧ヶ峰蒼太、の9
「もうこんばんはの時間じゃないですかね」
目の前の女性が緊張しながら呟いた言葉に、霧ヶ峰蒼汰は不覚にもときめいてしまった。
こんにちはって。そんな時間じゃないでしょ。
わざとかあ、でもこういう切り口なのか最近は。
頭の中を浮かれた思考がくるくると回る。自分に向かってのみかけられた言葉で、レジでの「これお願いします」、「――円になります」以外の台詞を久方ぶりに聞いた。
なんて澄んだやわらかな調子だろう。若干の照れが入っているのがまた堪らない。
ハッとする。
今ひどくしまらない顔を僕はしていなかったか?
『女子はなにより第一印象を重んじる』と最近立ち読みした雑誌に書いてあった気がする。
眉をひそめ、ゆるんだ表情を急いで固める。
「ま、まあ芸能界ではたとえそれが夜中でも初見だったら『おはようございます』っていうらしいので、こんにちはというのも間をとってる感じで、いいのかもしれませんよね」
テンパって、一体なにを言ってるんだ、僕は。
「ちょ、面白ーい」横槍が入った。一番左側の女性だ。目の奥に悪戯っぽさが見え隠れしている。
うまく切り返せず閉口すると、それを見てか鷺がすかさず援護を入れてくる。
「そーなんす。こいつ高校の時から美人のお姉さんがたを前にすると面白くなるんすよ」
お前は高校中退の上、僕と絡んだことなんかほぼ無かったじゃないか。
「俺、鷺って言います。こいつはツレで、霧ヶ峰。ピッチピチの二十歳です」
「えー。私たちもそんなもん。私が二十歳で、この子が二十一。私のことは京子って呼んで。この子はシーナ。で、となりでおっさんと話してるのが、薄井幸乃二十一歳」
「いえー!姉さんよろしくっす」
「同い年だっつの!」
「薄井幸乃って言うな!」
「さりげなく自分だけ一歳サバ読むなし」
「うっさい。私はエンドレス二十歳なんだよ」
「私は鏑木。永遠の二十五歳です」
もはや収集がつかず、場は完全に宴会の様相を呈していた。
安堵する。
緊張していたのが馬鹿らしく思えてきた。混沌とした会場はもはや個人がどうとかいう流れではなくなっていた。店長たちのほうも綺麗どころ二人と上手くやっているようだった。
津波みたいだ。
さっきまであった良し悪しの混在した既存を、一瞬のうちに、なにごともなかったかのように流してさらにしてしまう。
おかげで、良くも悪くも全部リセットだ。
気にして損した。
鷺と京子が漫才のような掛け合いを繰り返している。
鏑木と薄井幸乃の二人もなにかしらの話題で盛り上がっているようで、ケタケタと笑っているのが見えた。
慣れないことはするもんじゃないな、と息をつく。不幸話しか身の上に芸のない自分がいるような場所じゃない。ビールを一口あおる。口の中に苦みが広がっていく。
あんまりお酒得意じゃないの?
心配そうな顔をしたシーナが、テーブル越しにこっちを静かに眺めて、そんな優しい言葉をかけてきた。
また心臓が妙な音を立てはじめた。




