霧ヶ峰蒼太、の1
霧ヶ峰蒼太は、今週、自身に起こった不幸について、噛みしめるように指折り数えてみた。
些細な事柄から新聞に載りかねなかったものまで、じっくりと思い返してみる。
……どうでもいいことを除いても、三、いや、五回か。
鳥の糞が頭に命中したことに始まり、横断歩道待ちを無視した車とのニアミスまで、彼の受けた不幸の種類は多岐だ。勿論カウントするに及ばないものは彼の数えたものからは外れている。
目を閉じ、記憶を手繰る。
――いや待てよ。そのうち一回は車に撥ねられそうになった老人を助けようとしてのことだ。あれは僕のことではなく、横断歩道を渡ろうとした白髪の御婦人のものだろう。
では、ふむ。
四回だ。しかし四とは。なんとも縁起が悪い数だ。
ため息がこぼれる。
二日前、自転車のチェーンが突然前触れもなく切れた。外れたのではなく、なぜかいきなりバチンと派手な音を立てて、切れたのだ。実家の近くには流行りもしない自転車屋が三件もあるのに、チェーンが切れたのは出先の、よりにもよって田圃のど真ん中だった。スマートフォンで検索すると、一番近い自転車屋でも二キロあるよと表示された。家までの距離は七キロ。仕方なく遠回り覚悟で自転車屋をグーグル先生に案内してもらう。しかしようやく二キロ歩いた先の自転車屋はちょうど誰かの葬儀の真っ最中で、しくしくと涙をこぼす参列者が「九十超えても店を大事にしていたのに。急にぽっくり逝くなんてね」などと故人を偲んでいた。
三日前、バイトは休みの日だったが、急病で休んだ別のバイトの代わりに仕事に出てくれないだろうか、と店長からお呼びがかかる。雨降りの日で正直気乗りはしなかったが、本当に困っているのだろうなと考えると無下にもできない。部屋の窓を開けてみるとちょうど雨は上がっている。バイト先に置き忘れた傘を回収できる機会だと割り切って向かうが、バイト先あと数メートルというところで、雨の残り香の水たまりをはじいた車から、結構な量の泥水を浴びせかけられた。
四日前は、鳥の糞だ。なぜ自転車で移動している人間に命中させることができるのか、正直謎だ。
そして昨日。信号のない横断歩道を渡っている途中の老婦人を暴走車から救った。あきらかに改造車くさい下品な音がするくすんだ色の車だったが、まったく悪びれることもないまま去っていった。「いつか事故れ」と心で念じたが、間一髪救えた命に比べたらたいした問題ではない。ご婦人に、さんざ礼の言葉をもらってその場をあとにした。
そして今日だ。
平日の午後二時。バイトがひと段落ついて、遅めの昼食を近くのスーパーで買おうと立ち寄る。
弁当がこの時間帯、二割安くなる。無駄遣いできる金のない僕には有難い店だ。
ふと、半額のシールが貼られたかつ丼に目がとまる。
ほかの商品は二割引きなのに、どうしてかそれだけは半額のシール。
嫌な予感はした。
でも僕にとって、そんなことは『些細な日常』にすぎない。
躊躇わず手に取って、レジに並ぶ。
バーコードをスキャンしたレジのおばさんが、一瞬妙な顔をした。
会計を済ませて店から出ようとすると、背後から声をかけられる。
「少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか、お客様」
いかつい顔をして、やたらとがたいのいい店長が、後ろに立っていた。
「そちらの商品をお買い求めいただきましてありがとうございます、霧ヶ峰蒼太さま。バイト休憩中、大変恐縮なのですが、事務所までお越しいただけますでしょうか?」
舞台裏というものは表面の華やかさとはうってかわって地味なものだ。もちろんこのスーパーの事務所もその例に洩れず、頑丈な四角い机と灰色で細面のロッカーが並ぶだけの極めて事務的で無機質な空間だ。
「こちらの商品、半額のシールが貼られているようですが、すでにご承知のとおり当店では午後四時以降にならなければ貼ることを指示しておりません」
強面の店長が、さっき僕の買ったかつ丼を店のロゴ入りのビニール袋から取り出して言った。脂ぎった額に事務所の白熱灯の光が反射する。店長が息を荒げて続ける。
「つまりこのシールは、第三者の手によって、不当に貼られたものであるということです」
そもそも店の売り上げというものはいかに原価を少なく仕入れ手間賃を省いて販売することで純利益を求めるものであってこういった半額などという所業は最終の手段でしかなく我々店舗側としては――。などという店の論理をひととおり説明したうえで、店長の三日月渚は、がっくりと肩を落として大きな溜息をひとつついた。
「言いたいことはわかりました。また協力すればいいんでしょう?」
何度も首を小さく揺らして頷く三日月渚からかつ丼を受け取り、僕は半額シールの上に右手を置いた。
「すでに十分以上経っていたらお役には立てませんので、それだけご了承ください」
店長がまた首を縦に振る。
シールに右手を置いたまま目を閉じると、
次第に周囲から音が消え、ゆっくりと頭がクリアになっていく。
目に映る全ての景色が透明で、ディテールだけの線に変わる。もうこの視界にも慣れたものだが、最初はずいぶんと戸惑った。
「――まだいますね。野菜売り場から、魚売り場に移動している、多分女性で、右手に買い物カゴを持っている。少しパーマをかけているかな。肩にかかるくらいの髪型の人です」
僕の言葉に合わせて三日月は監視カメラを覗き込む。すると周囲を警戒しつつ持参したバッグから半額のシールを取り出して貼る女性の姿が目に留まる。すかさず三日月が手持ちのマイクで指示を出す。
「現確。臙脂色の服の中年女性。店を出たところで確保。録画あり。同行よろしく」
ふう、と息を吐く。目を開けると色のついた風景が戻ってくる。
「もういいですか店長さん。これ以上かかるようだと僕の昼休みが終わってしまいます」
「いやあ、本当にありがとう。君には助けられっぱなしだ。そういうことならお礼はあらためよう。本当にありがとう。いやあ、ありがとう!」
なかばせっつかれるようにスーパーの事務所を後にする。これでこのスーパーでは三回目だ。その都度「お礼はあらためて」という店長のお礼にはこれまであったためしがない。
これが今週五、いや四回目の受難だ。
今週はまだあと三日ある。いつにないハイペースにまた一つ溜息が出た。